狩人は眼が良い

10

ルーク・ハントは目が良い。それは自他共に認める事実だ。
そんな彼は時折妙な何かを視界に見止めて目を眇めることがある。ぼんやりと滲むような、紗が掛かったような不明瞭さ。背筋に走る悪寒と。薄気味の悪さを感じる。訳の分からなさで冷たい手で背を撫でられるような不快感。知らないまま、分からないままにするのは性分上ひどく気持ちが悪かった。気にはなるが、紙に書いた文字が水で滲んだようにモノの輪郭すらはっきりしない。ピントが合わないような居心地の悪さ。分からないなら、見えないなら、そのまま解らないままで居た方が良いのだ、と。ある日彼は身をもって実感した。

その日もまた教室の窓から校内の森へ視線を向け、妙に滲む箇所を見つけた。見つけてしまった。
視界の一点が滲む。違和感を訴える。ルークの背に冷たい汗が浮かんだ。それに焦点を絞っても今までと同じでピントは合わない――はずだった。

(……あれは、何、が……?)

いつもなら、これまでだったら見えなかったソレとピントが合ってしまった。鮮明ではないが輪郭が定まりつつある。ルークの心臓がドッと跳ねた。嫌な汗が滲む。理解してはいけない物だと本能が答えを叩き出した。
アレがこちらを向く前に、目を逸らさなければならない。こちらに気付かれてはならない。ガンガンと頭に痛みが走るほど能が警鐘を鳴らしているというのに目を逸らすことが出来ない。それどころか身体が動かないのだ。凍り付いたかのように。
窓から離れようにも足が。顔を背けようにも胴体が。それならば帽子で視界を強制的に遮ろうとしても腕が、指の先すらも、動かない。そも、息すら出来ているのかルークは分からなくなりつつあった。
注視しなければ判断できない程にゆっくりと、しかし確実にアレは顔を上げていく。じわり、じわり、傾きが上向いてくるのを見ていることしか出来ないルークの心臓が脈打つ速度を上げていく。
刹那――

「ッ!」

ストンッ、と絶妙な角度でルークの目の前に矢が突き刺さる。ハッと目を見開いた彼はその音と視界を横切った矢の存在によって身体の自由を取り戻した。酸素が足りないせいか指先が痺れている。この間僅か一秒経つか経たないか。
次いで、ピラリと垂れ幕のように布が揺れてルークの視界を遮った。

『注視したらあかんぜよぉ』

気の抜けた文字で一筆。馬鹿にしているのか、とは思わなかったがおかげで緊張感が霧散した。
人の顔を覆うほどの大きさの布がルークの眼前に現れたことによって、物理的にアレとの間にあった妙な繋がりが断ち切れた感覚を肌で感じる。視線が交わる前に遮断された。そしてルークの状態を把握して放たれたことを示している目の前の文字。つまりは何者かに助けられたのだと理解した。そこでようやく極度の緊張から解放されたのである。
全身から力の抜けたルークはその場に崩れ落ちるかと思った。意地で窓枠に掴まり片腕で体制を留めたが。
手首から肘を窓枠に着き自重を支える。一瞬にして全身にドッと汗が噴き出た。身体の温度が下がった状態での嫌な汗。ぐっしょりと革の手袋の下は汗で滑るくらいだ。窓枠を硬く握りしめている右手には力の込めすぎで血管が浮いているだろう。自身の体重を支える右腕が、窓枠に添えた左手の指先が僅かに震えている。それを見てルークは自分の手指が痙攣しているのを頭の隅でぼんやりと認識した。

「ハント!? どうした、一体何が……何だコレ、矢? 布? いたずらか?」

常ならざる様子にクラスメイトが駆け寄ってくるのをどこか遠くに感じていた。カラカラに乾いた喉と口内では満足に受け答えが出来そうに無い。
ルークの傍に寄った生徒は目を瞬かせると刺さったままの矢と揺らめく布を訝しげに見つめた。これに驚いたのか? ポムフィオーレ副寮長ともあろう男が? まさか。後輩のイタズラ染みた行為に後れを取ることなどあるものか。
瞬時にその可能性を切り捨てた。しかしならば何故彼はこんなにも疲弊しているのだろうか。
身を案じる言葉の裏に好奇心を含ませ尋ねてくるクラスメイトにルークは内心辟易した。今は放っておいて欲しいのだが、それすら察せない随分な知りたがり屋だ。

「本当にどうしたんだ?」
「…………い、や、何でも。何でも無いさ」
「そんなわけ」
「ちょっと……引き際を、誤ってしまってね」

しくじってしまったよ、と普段通りの顔を心がけてルークはやっとの思いでそう返した。
内角を挟んで一つ下の階、その教室から喧噪が聞こえてくる。赤茶色のはねた髪が特徴の生徒が黒髪の生徒に掴みかかっていた。ひどく慌てているようだった。
ルークが彼らを見ていることに気付いた赤茶髪の生徒がワタワタと挙動不審になるも、黒髪の生徒は特に動揺すること無くルークを見上げる。そんな彼の頭を赤茶髪の生徒は、はぁ!? と言わんばかりの勢いで鷲掴みにし無理矢理下げさせる。そのまま窓から見えない教室の奥へと戻っていった。これ以上関わるのはごめんだ、と表情が物語っていることにルークは小さく笑った。
そして少しだけ安堵する。笑えるだけの余裕が戻ってきていたのだ。
隠そうともしない視線を感じて黒髪の生徒がこちらを見上げていることに気付いたルークは、その目を見返してハッとした。ジッと逸らすことなくルークを見据える双眸はただ凪いでいる。ルークとは違った色彩を放つ碧玉の瞳には上級生に対する遠慮も畏怖も、それどころかルークに向けられる感情そのものが無かった。それだけでも異質さを感じずには居られないというのに、あろうことか黒髪の生徒はつい先ほどまでルークが視線を向けていた方へと――アレが居た方へと顔を向けた。そして顔を戻すと小さく首を振る。まるでルークが何に視線を囚われていたのか分かっているかのような仕草。背筋に氷塊が滑り落ちるような錯覚に襲われる。ゾッとした。
彼には、ルークが目を合わせそうになったアレが視えていたのか。そしてどう言ったものであるのか知っていたのか。――アレはルークにとって完全なる未知だった。

タイミング悪く授業開始の鐘が鳴る。ルークの視線を欲しいが儘にした黒髪の生徒もまた教室の奥へと消えていった。


矢の刺さり具合、角度、チラリと観察して数秒前の様子を思い出そうと記憶をたぐる。風の向きや強さはどうだった。ほぼ無風状態。ならば素人でも矢は飛ぶだろう。
彼の腕章部分を思い出し、ルークは静かに目を伏せる。赤と黒のリボン――彼はハーツラビュルの生徒だった。
すぐにでも薔薇の騎士とコンタクトを取らなければなるまい。気もそぞろにペン先でノートを突いた。
授業終了の鐘が鳴るやいなやスマホの画面に指を滑らせるのだった。





「やあ、ムシュー・スペード」

やはり来たか。予想通りの人物に声を掛けられ足を止める。運動場へ向かう廊下に居るのはデュースと今しがた現れた相手のみ。声の出所へと身体を向けてデュースはまぶしげに目を細めた。
ふわりと揺れる羽根飾りが特徴的なハット。綺麗に切りそろえられた淡い金髪。ややつり上がった細いエメラルドの瞳。授業開始前にデュースが眼前に矢を射た相手だ。

「よく分かりましたね」
「薔薇の騎士に聞いたのだよ」
「なるほどそうでしたか」
「私はルーク。先ほどの礼を、と思ったのだけれど気が逸り手ぶらで来てしまった」
「ああ、それはお構いなく。ご存じのようですがデュース・スペードです」

互いに軽く名乗り合ったところでデュースはまじまじと相手を上から下まで観察した。その視線に気付いてもルークは表情を変えることなく受け止めていた。どうやら好きにさせるつもりのようだ。
ニコリと笑みを浮かべる彼の様子からは不調は見受けられない。どうやら何事も問題無く済んだようだ。それは重畳。一つ頷いたデュースは淡々と忠告する。

「――あまり視ようとしては駄目ですよ」

風に遊ばれてルークの髪先が揺れた。同じように風を受けたデュースの前髪がはらりと左目にかかる。鬱陶しげにそれを払い、デュースはほぼ同じ高さにあるルークの目を見据えた。

「詳しくは言いませんが、認識した時点でアウトなモノも存在します。深入りは止めた方が賢明です」
「……メルシー。ご忠告痛み入るよ。恥ずかしながら今日のアレが初めてでね」
「ヤバイ、って気付けただけでも良い方だと思いますよ。鈍感な奴はそのまま見続けて取り返しのつかないことになりますし」
「そうか。成る程」

ルークという人間を良く知る者がここに居たら、その口数の少なさと静かさに目を剥いただろう。彼自身多少なりとも自覚していたがまだ本調子では無かった。
だが、彼と一度も会話するどころか関わりすら無かったデュースは特に気にすることなくさらりと話を続ける。今のルークにとっては逆にそれがありがたかった。

「ずっと気になってしまっていたんだ。時折視野に靄がかるのが嫌で仕方なくてね」
「左様で」
「……私の感じたこととキミの言葉や態度からの考えなんだけれども、視るのはもちろん、知るのも良くないんだね?」
「ご明察。知れば知るほどアレは近くなりますから。認知しないまま、それらに関する知識を得ぬまま居た方が楽に生きられるでしょうね」

言外に命が惜しければ踏み込むなと告げる。
ルークはこれまでに言葉少なくもたらされた情報を整理し、そしてひどく納得した。アレを目にした際に自分が襲われた感覚の裏付けも為されたようなものだ。
だが、一つだけルークは気に掛かることがあった。どうしても無視できなかった。

「――それならば、キミは?」

その問いかけにデュースは一瞬息が詰まる。
ふるりとわずかに睫毛が震えたのをルークは確かに見た。鋭い観察眼を持ってして気付けたことであるため、もしかすると本人すら気付いていないのかもしれない。

「多くを知ってしまいましたので、まあ所謂「普通」には戻れません。例え視る力を封じたとしても、その世界に触れた者特有の空気感というか独特の感覚というか、そういうのがあるのでアレと似かよった存在というのは見逃してくれませんから」
「そうなのかい」
「ええ。なので、先輩もこちら側に来るのはオススメしません。刺激的すぎて目が回りますので」

少しおどけての返答は空気が重くなりすぎないようにとデュースが配慮した結果だったのだろう。その気遣いもルークには察せられていた上に痛ましい気持ちを抱かせるに繋がってしまったわけだが。

「ムシュー、」
「自衛手段はあります。お気遣いなく」

何かを言おうとしたルークを遮ってデュースは首を横に振った。ひたりと真正面から見据えられ、ルークは口を噤むほか無い。その眼光は押し黙らせるほどの鋭さを伴っていた。差し込む陽光の加減でその瞳がきらりと色を変える。
その眼差しに既視感を覚えてルークは思考を巡らせ息を呑んだ。彼の空気は、眼差しは、剣の刃に光が反射する輝きの鋭さに似ている。

「……キミの、」
「はい?」
「キミの瞳は、いや、在り方は剣のようだね」

まぶしげに目を細められ、唐突にそう告げられたデュースは面食らった。余りにも脈絡がなさ過ぎる。
目を白黒させた後、デュースは怪訝そうに顔を歪める。そんな彼を前にしてルークは和やかにこう宣った。

「キミが望むならば剣の君、と。そう呼ぶことも私としては大歓迎だよ」
「……遠慮しておきます。自分のスペードという姓は気に入っているので」
「ううむ、少し残念だね」

その言葉と共にデュースの視線がルークから外される。緑と青が混ざり合う不思議な色合いの瞳が自分から離れてくのをルークは惜しく感じた。そして提案をすげなく躱され、ルークは少しだけ残念な気持ちだった。デュースにぴったりの名称だと思ったというのに何ともつれない後輩である。
ああいや、だが。

(夜、死、切っ先のような、まるで研ぎ澄まされた刃の煌めきのような――『スペード』というのは、何とも彼を現すにこれ以上無い名称か)

スペードの意味を反芻し納得する。自分の解釈に満足したのか、うっそりと笑みを深くしたルークは上機嫌に本題に入ることにした。

「では、この度の礼を。いかがしようか」
「……そう、ですね」

ヒタリと切れ長の瞳を見据えたデュースはひとつ緩慢な瞬きをすると首を横に振った。今回の行動への対価を貰うのは今では無い。

「後で頼んでも構いませんか?」
「おや、それは」
「多分近々何かしらあるので、その時に困ったら力を貸してください。……これでは駄目でしょうか」

ふむ。顎に右手を当て僅かに首を傾けたルークはデュースから視線を逸らすことなく何かを考えているようだった。数秒の逡巡の後、彼はこれまでの少々興に乗じた態度を改めると帽子を脱ぎ胸に当てた。次いで口端が上がる。裏を感じさせない笑みだった。顎を引き、姿勢を正し、まさしく誠実な眼差しをもってデュースにこう告げた。

「Oui、monsieur! その時は必ずや君の力になろう」

斯くしてちょっと奇妙な繋がりが他寮の生徒間で出来上がったのだった。
これが彼、デュース・スペードの日々である。


刃は過去に夢を見るか

──いいや、過去に転がるのはただの亡骸である。



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2020.7.29.支部に投稿しました
2021.12.30.別館サイトに掲載
成主と他者の温度差をお楽しみください。
原作軸に突入する前に力尽きた。息抜きで書き始めたはずがなぜこんなボリュームになってしまったのか。書きたい話が多すぎて今回の話だけでもまだ1/5程度しか終わってない。
続きを書くとしたら「『薔薇を塗ろう』とタルトの味でボロ泣きする成主」「山と海」「強欲な誰かとおててがたくさん」「突撃隣の異界訪問with教員」「オバブロ組それぞれと業」とかかな、と。気が向いたら書きます。
実話がシレッと一つ紛れてます。分かった人は筆者と握手。

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スペードは夢見が叶うか
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