雲一つ無い晴天の元、水の気配は全く無いというのにデュースはずぶ濡れで立ちすくんでいた。
髪が頬に、ワイシャツが肌に張り付く。不快感に顔を歪めて前髪を掻き上げた。ぽたり、ぽたり、水滴が髪を伝って地面へ落ちる。水に濡れて色の変わった石畳に吸い込まれていく。
足もとで同様に水を被り、毛並みを身体に貼り付けているグリムがベッと舌を出した。
「最悪なんだゾ……」
「お前さぁ! 何っでこうなるかなぁ!?」
「いい加減にしてよもう……!」
そして同じく水を被ったエースと監督生も口々に悪態をついて元凶であるグリムを睨んだ。
炎以外の魔法をほんの少しだけ習得したグリムが水の魔法を披露したのが事の始まりだ。火と水のコラボレーションなんだゾ! とテンションが上がり調子に乗ったのがいけなかった。そこにエースが煽りに煽り、グリムが三人と一匹の頭上に大きな水球体を出現させ――その結果がこれである。
なお、似たような失敗はこれで通算六度目。デュースはうんざりした顔を隠そうともせず額に手を当てた。右目の周囲に描いた黒いスペードはおそらく滲んでいるのだろう。
「お前ら少しは反省しろよな、本当に。何度目だ」
地を這うような低い声が絞り出される。主にエースとグリムに向けての言葉だ。
しかしビクリと肩を震わせたのはその矛先を向けられた一人と一匹では無く、デュースと同じく被害者である監督生。当の本人達はケロッとしている。怯えを見せた監督生に対し少しだけ申し訳なく思いはしたものの開いた口を止められなかった。
「毎度毎度どうしてこう行動の先を見越せないんだ。こうすればこうなる、って少し考えれば分かるだろ」
冷えた視線をその身に受けたエースがむすっと唇を尖らせる。心底納得がいかないとでも言いたげな顔だ。
「だってコイツが!」
「なんだとぉ!? 元はと言えばお前が!」
「ああもう! どっちもどっちだよ!!」
エースとグリムが口々に文句を言い始め、流石の監督生も堪忍袋の緒が切れたのか大声を上げた。思わぬ所からの反撃にエースとグリムがたじろぐ。監督生の目は据わっていた。まあ、当然だろうな。内心で呟きデュースは一歩退く。一瞬の逡巡の後そのまま見守ることにした。
いつもどこか硬い表情のままだった監督生が自分を表に出すようになったのは、ハーツラビュル寮でのゴタゴタから少し経った頃。つい先日のことだ。ちょうど十月に入ってしばらく経ったとある出来事がきっかけだった。
ちょっと、そう、ほんのちょっと命の危険を伴った出来事だったが、悪いように転がらなくて良かった。そうデュースが胸を撫で下ろしたことを恐らく誰も知らないだろう。
「いい加減にして! またハートの女王の石像を丸焦げにするような事件を起こしたいわけ!?」
「うぐっ」
「ふなっ」
右手でエースの胸ぐらを掴み、左手でグリムの首根っこを掴み、監督生は彼らを物理的に引き離した。出会った当初は意見を言うことすら尻込みしていた彼女ではあるが、かなり成長している。無理にでも自信を強く持たなければこの学園……いや、この世界ではやっていけない。そのことを監督生はいつしか悟っていたらしい。
そんな同級生と魔獣の馬鹿騒ぎを横目で見やり、デュースは盛大にため息をついた。
同じ寮生にしてクラスメイトのエース、オンボロ寮の監督生とグリム。この二人と一匹とのファーストコンタクトを思い出してしまったせいだ。
中々に騒々しく波乱に満ちた一日だったな、と遠い目になるくらいには色濃い一日だった。なお間近で聞くことになったシャンデリアの付喪神が上げた悲鳴はトラウマである。いや正確には、石が砕ける様子と断末魔に似た悲鳴から刀剣破壊の光景を脳裏に呼び起こしてしまったのだ。
まったく心構えをする余裕も無かったせいでデュースの心はもろにダメージを受けた。審神者時代、本丸に襲撃を受け失った刀剣は幾振り。目の前でデュースを庇って折れた一振りの最期を、転生を経た今でも鮮明に覚えている。初めて自らの手で鍛刀した一振りなのだ。たとえ忘れようと思ってもそう簡単に忘れられる記憶では無い。そのせいで数日は調子が奮わず夢見も悪かった。
そのシャンデリアなのだが、デュースが青い顔で細部に修復魔法をかけたものの完全な修繕は不可。騒ぎを聞きつけて駆けてきた学園長がエース、グリム、元雑用係の監督生を糾弾している間もデュースは粉々になったパーツの一つ一つを直していた。その後、彼らの隣に居て止めなかったという理由でまとめて退学の危機にさらされる、という完全なるとばっちりを受けたわけだが。何度思い出しても理不尽がすぎて逆に笑えてくる。
理不尽極まりない状況に陥った理由は何となく察していた。入学式を終えたその日の晩に見た夢が示唆すること。それを理解しきれず、デュースがこの二人と一匹と関わる事を避けようとしたためだ。流石に猫と鼠の追いかけっこの夢のみで察しろと言う方が無理難題だと密かに思ったが、まあ、大概にして夢での啓示などそう言うものである。
それにしても、とデュースは制服のジャケットを脱いで乾かしながらぼんやりと最近の出来事や騒動を思い起こしながら数えてみることにした。
目の前の魔獣が入学式会場で暴れたことから始まり、炭鉱探索、バケモノ退治、エースの脱寮騒ぎ。そして寮長のオーバーブロットとその沈静化に到る一連。入学したての数週間で騒動が起きすぎである。
パンッと乾かしたジャケットを強めに払う。その最中にデュースは嘲りを含む笑みを浮かべてこちらを見る複数人を目端に捕らえた。
そういえば、やたらと典型的な絡み方をする不良に喧嘩をふっかけられたこともあったなぁ。内心で呟きそちらを流し見た。エース達はそれらに気付いていないようだった。デュースもそれに便乗して彼らとその周囲に纏わり付く膝から下だけの足を見ない振りをした。今日も今日とてデュースの視界は騒がしい。
校内の治安はさほど良くない。もしかして、などと考えるまでもない。名門校なのになと思いはした。だが前々世の「気付いたら人間がいつの間にか消えている」ような場所では無い。そのためデュースとしては結構平和だなぁとしか感じられなかった。おそらく口に出したが最後、監督生や他生徒複数に信じられない物を見るような目を向けられるだろう。
なお、「消える」というのは数パターン存在していた。敵方に消された場合や、政府上層部の陰謀に巻き込まれていつの間にか消えていた場合、歴史改変の末に存在がかき消された場合、その他多数。どれも碌な事象では無い。
閑話休題。
制服のジャケットを乾かし終わると次はズボンの水気を飛ばす作業に入った。エースやグリム達の喧噪をBGMに淡々とその作業を続けていく。その最中、デュースの思考は入学式当日から今に到るまでの出来事に飛ぶのだった。
♤
――九月の入学式当日のことだ。
入学式の会場を後にし、赤髪の寮長の案内で新入生達は各々の寮へと向かっている。ぼんやりと廊下の明かりに照らされる薄暗い廊下は足もとが少し見えづらい。デュースもまた同様に、他の新入生の後へと続き寮へと続く鏡を通った。
鏡を通り抜けた先に広がっていた庭園にデュースは目を瞬かせる。
男子高校生が住まう寮とは思えないほどに、伝統を感じさせながらもどこか可愛らしさを伴う佇まい。ハート型に剪定された薔薇の木に咲き誇る綺麗な赤。正門の外には広大な生け垣がぼんやりと見えた。迷路になっているのだ、と入学許可の通知と共に同封されていた資料に書いてあった気がする。デュースはどことなく故郷の薔薇の王国を想起させるこの寮を好きになれそうだ、とフードの下で小さく笑った。……のだが。
(…………なんか、いっぱい居いるぅ……)
新たに自身が過ごすことになる寮へと導かれて数分と経たない内にデュースは居心地の悪さに身じろぎした。顔を動かさず目だけを動かして寮の談話室をつぶさに観察すれば、うようよと黒い靄が散見できる。ヒクリと片眉が跳ね上がったのは無意識だ。
何だかちょっと、空気が悪い場所だな。頬を強ばらせたデュースは内心で呟く。
「さて、新入生は皆揃ったね」
表情を引き締めた寮長が数十人と居る新入生の前に立った。
その拍子にデュースの耳に届く、じゃらりと金属が擦れる音。どことなくタイヤチェーンが擦れる音の響きに似ている。デュースは首をかしげた。音から考えて中々に重量のあるチェーンだろう。随分とゴツい装飾品を着けているんだな、と寮長を見やる。距離があってハッキリとは見えないが、どちらかと言えば可愛らしい顔立ちに分類されるのではないだろうか。あの外見でまさかゴテゴテのビジュアルバンド系? などと、知らないが故の想像がどんどん膨らんでいく。
だがその首元、手首に視線を向け、デュースは別の意味でギョッと目を剥いた。見るからに頑丈な枷が嵌められ太い鎖が垂れ下がっている。その端が薄らと透明になってどこかへ伸びているのを確認できた。鎖の先がどこへ繋がっているのかは定かでは無い。デュースの顔からスンと表情が抜け落ちた。
なるほど、装飾品が音を立てていたわけでは無く、そっち側か。明らかに常人の目には視えない物の類いだ。鎖の音が聴こえていたのもおそらくはデュースのみなのだろう。
視線はそのままに焦点だけが遠くに照準を合わせはじめる。隣に立つ生徒に「どこ見てんだコイツ」と思われていることになど気付きもせず、デュースは寮長を直視しないよう微妙に視線を逸らして前を見据えた。
「このハーツラビュル寮に来たからには『ハートの女王の法律』に従って貰うよ。そして、寮では寮長たる僕が法律だ。逆らう者は首をはねてやるからそのつもりで居るように。――返事は「はい寮長」。分かったね」
「「はい、寮長」」
「よろしい。では何か質問は無いかい?」
毅然たる態度で新入生達を見渡した寮長が問う。しん、と沈黙が落ちた。手を上げる者も居ない。おそらくは皆そこまで頭が回らないのだろう。なにせ約二百人の寮別けを待ち、ようやく自分の寮となる場所へ来たばかりなのだから。
「今思い浮かばないなら明日の朝か放課後、フラミンゴやハリネズミの世話当番について説明をするからその時に聞くように」
再び沈黙が落ちた。
ヒクリと片眉を跳ね上げた寮長が口を開く。放たれたのは少しピリついた厳しい声。
「返事は」
「「はい寮長!」」
たまらず返事をしたのは一人や二人では無い。特に運悪く寮長の目の前に立っていた新入生は一際大きな声で返事をした。スッと細められた温度の無い目で見据えられでもしたら、もう竦み上がるほか無い。入学したばかりで緊張している所への追い打ちでもあった。
「よろしい。では各自割り当てられた部屋へ向かうように。一階のエントランスにある連絡掲示板に掲示してあるはずだ。一部屋に一冊、ハートの女王の法律が完全に載っている本を用意してある。必ず目を通しておくこと。いいね。それでは解散とする」
――自分こそが正しい。自分こそがルールだ。そう言い自滅していった人間をデュースは数多く見てきた。前世でも、前々世でも、今となっては遙か昔となったいつかの時代にも。どれも大体が部下や民衆に反旗を翻され沈んだが。頭が痛くなるような様々な出来事を思い出してしまいデュースはげんなりと顔を歪める。ゆるく頭を振って今に不必要な記憶を振り払った。
すれ違いざまにリドルの足もとをチラリと見たデュースは堪えきれずにため息をつく。両手両足、そして首。代表的な拘束箇所がコンプリート。鎖が彼の胴にも張り巡らせられていないことを密かに祈った。自身の精神衛生上のために。
寮長が去ってから数十秒後、ポツリと誰かが呟く声がやけに響いた。
「どこの寮も厳しそうな感じだったけど、この寮もヤバいな……」
「オレ、二年の先輩に知り合い居るんだけど、ちょっとルール違反しただけでも罰則あるんだって言ってた……」
「ってか「首をはねる」って何だよ、怖ぇよ。物騒すぎやしないか?」
その声を皮切りにどんどん上がる不安の声。
あーあー、こりゃあ中々に空気が悪いな。内心でそう呟きデュースはさりげなく談話室に視線を巡らせる。至る所に黒い靄が見え隠れしていて顔をしかめた。
あの黒い靄や灰色の霞のようなモノが出現するのは決まって人の負の感情が膨らみすぎたとき。そして僅かな感情が滲み出ただけだとしても、大多数が似たような感情を抱いていれば似たようなモノ同士で集まり結束する。塵も積もれば山となる。不安、嫌悪、不満、恐怖、嫉妬、悪意、苛立ち、その他多数。それらが積もり積もって縒り重なり形となってしまった。それが、この談話室に漂う常人には不可視な靄が発生した原因だろう。上級生の間の空気も中々に良くないのかもしれない。
デュースはそこまで考えて思考を止める。随分と前途多難そうだ。頭痛を訴えはじめたこめかみをグリグリと揉む。このままこの場で考えていても埒があかない。デュースはさっさと自分に割り当てられた部屋を確認しに行くことにした。荷ほどきを済ませてこの学園で自身のテリトリーとなる場所を整えたい。
「部屋割りの詳細は一階のエントランスに貼りだしてあるだったな、お先に失礼」
デュースがフラッと談話室から居なくなったことに新入生達がざわつく。誰も動こうとしなかった中で、何事も無く行動した者が居たことに驚いたのだ。
なんだアイツ、メンタル鋼か。誰かが呟いた。
自身が去った談話室でそんなざわめきが広がっていることなど知りもせず、デュースは一人エントランスに向かうのだった。
廊下を上級生が行き来するのを目端に捕らえて軽く会釈をする。一人で歩いているのを興味深そうに見られたが特に気にすることも無く、エントランスで部屋を確認してメモを取った。その表情はどことなく浮かない。多人数での生活ともなると正直不安なのだ。主に睡眠の面で。
(同室に人の気配があって寝れるか……? ちょっと難しそうだな)
一瞬の気の緩みが生死に直結するためデュースの睡眠は浅い。気が昂ぶっているときは特にそうだ。隣の部屋で物音がしただけでも意識が浮上する。そんなデュースが同じ部屋に他人が居ながらきちんと睡眠が取れるのか、分からなかった。実家の自室が一人部屋であることもそれを助長している。金縛りに遭いながらもそのまま就寝できる図太さを持ちながら、変なところで繊細だった。
……まあ、常に人の気配が近くに在ることに慣れれば問題無いのだろうが、それまでに暫く時間が掛かりそうである。
(ええと、ここか)
自室となる部屋に入れば入り口の横に小さな丸テーブルが鎮座していた。その上にドンと凄まじい存在感をもって鎮座している書物から目をそらし、デュースは今日から自室となる部屋の全体をぐるりと見回した。
ベッドの横にそれぞれの荷物と思われるものが置かれている。どうやら部屋の場所割りもあらかじめ決められているらしい。荷物のタグを見て自分の場所を確認。そしてそのまま今この瞬間に必要だと思われる小物を幾つか取り出す。その中の一つ、小さな霧吹きを手に取ると、シュッと部屋の隅に吹きかけた。
水晶の欠片をボトルに入れているため動かす度にカラカラと音が鳴る。本当は清酒があれば良かったのだが入手不可だったため精製水に水晶を入れただけのものだ。次いで音叉を鳴らす。
(はぁい、出て行ってねー。それか消えてねー)
ジュワッと消えていくモノや逃げていくモノ。厄介ごとのタネになりそうなモヤモヤは早々に退散願った。
自室以外の寮内も良くなさそうな場所もデュースがちょっとずつ対処していく予定だ。はあ、とため息をついて椅子に座った。
ベッドの横、それぞれの勉強机に赤い石がきらめく万年筆がちょこんと置いてある。デュースが無言でそれに触れれば、ぱちりと小さな光がはじけた。どうやら魔法が掛けられていたらしい。
光の軌跡が宙に文字を描きはじめる。しゃらしゃらと繊細な音を立てて宙に記されていくのは所有者となる自身の名前とマジカルペンの説明。最後にサインを求められたのでデュースは己の名を指に魔力を乗せて宙に浮かぶ記入欄に書き記した。すると光の文字は砂のように下へと落ちて消えていく。ぱちん、と再度はじける光。花火が消えていくみたいな光景だな、とデュースは目を瞬かせた。その後は何も起こらない。どうやらこれで終わりらしい。
「……はー、すごいな、魔法って」
目を瞬かせデュースは感嘆の息をついた。おそらく今のは本人確認と魔力の登録が同時に行われたようなものなのだろう。
マジカルペンをしげしげと見つめたデュースは、あえて視界に入れないようにしていた存在へと目を向ける。今しがたデュースがあえて目をそらして存在をスルーした小さな丸テーブルの上。そこに、どでん、と。10pほどもあろうかという厚さの本が鎮座していた。
本のタイトルは『ハートの女王の法律全書』である。マジカルペンとの対比のせいで余計に法律全書が巨大に見える。
「………………いや、分厚すぎでは? 一体何条まであるんだ?」
持ち上げればズシリと腕に掛かる重み。デュースはポツリと呟いた。
がちゃりと扉の開く音に反応してそちらを見れば今日からルームメイトになる三人が呆然と立っていた。その視線はデュースの手にある『ハートの女王の法律全書』に注がれている。
「ハートの女王の法律って、これ全部? は? 何これ分厚すぎるっての!」
「一年かかっても覚えられなさそう……すぐ覚えろとか無理じゃん……」
「え、無理。ふっつうに無理。勉強で覚えなきゃならないものも多いはずだろ? それに加えてコレ? 無理」
今しがた入室した一人がぐわりと叫ぶ。その後に居た一人は呆然とデュースの手元を見下ろしていた。硬い表情で絶望を呟く一人は頭を抱えている。
デュースは彼らの嘆きも焦燥も痛いほど分かった。このNRCは名門校。授業の質もレベルも他の追随を許さないほど高いのだろう。そんなこと誰にだって予想できる。だというのに、授業に集中できない要因を入学初日に喉元に突きつけられた。これから常に寮独特の規律に縛られながら生活するのだと。思い描いていた学園生活に水を差されたその失望たるや。
「……とりあえず明日の朝、寮長へ質問してみようと思う。いつまで覚えれば良いのか、って」
「……うん」
「流石に早速明日から順応してコレを全て守るように、なんて事は言われないだろうから、そう気落ちしないで少しずつ覚えていこうぜ」
「……うん」
記憶力に自信が無いというルームメイトの一人の肩を叩き、デュースはとりあえず宥めておく。ここで自棄になられてもこちらが困る。同じ部屋で過ごす以上、お互いに嫌な思いをしないで過ごす方が得策だ。
意気消沈した様子で頷く彼にマジカルペンを取るよう促してデュースは三人がまともに話が出来るようになるまで待つ。妙に気疲れしたせいかすぐにでも横になりたい気分だった。
「……落ち着いたところで悪いな、ちょっとこの法律全書先に読んでも良いか?」
「いーよいーよ。元々今日中に見るつもり無かったし。っつーか真面目だねぇ」
「明日には戻しておいてもらえれば別に構わないよ」
「オレもー」
皆自分の荷ほどきに注力している。最後の一人は既に眠そうな返答だ。その中でもいの一番に了承の言葉を返した、赤茶髪が元気に跳ねているルームメイト。何となく彼とは多分知人止まりになるのだろうな、と頭の隅でぼんやりと考えながらデュースは机に分厚い法律全書を置く。
「じゃあお言葉に甘えて先に読ませて貰うぞ」
机に向かいながら学生証も兼ねているマジカルペンを明かりに掲げてその煌めきを見た。ハーツラビュル生のマジカルペンは魔法石が赤い色をしている代物。ルビーのような色だな、とぼんやりと思う。
先ほど宙に浮かんだ説明文を思い出し、緩慢に目を瞬かせた。今は万年筆の形をしているが、形状を変化させることも出来るらしい。ペンとは違った形にするとしたら、自分ならどう変えよう。デュースはぼんやりとそれを見つめてふと懐が寂しいことを思い出した。
(――短刀、とか)
そう考えて慌てて首を横に振る。我ながら随分と未練がましい。いつまで前々世を引きずるんだ。もう誰も、傍に居ないというのに。
それに、刀なら自分の手元に一振り存在している。あの摩訶不思議な場所へ辿り着いた際に預かった一振り。刀身に漆塗りを施された黒い刀。斬る能力を失っているとはいえ刀は刀である。刀剣が持ち合わせていると言われている破魔の力は失っていない。今この瞬間に帯刀ないし所持はしていない。だがこの学園に、この部屋に持ち込んでいる。自分の手に馴染んで早数ヶ月。既に保管場所が自分に近しい場所で無ければ不安を覚えるようになっていた。そのため、野球バットを収納するケースに入れて荷物に紛れ込ませたのだ。カモフラージュは大事である。
しげしげと見つめていたマジカルペンをそっと机に置くと、本題であるハートの女王の法律全書を開いた。
(……それにしても、これかなり多いんだが何条まであるんだ? 知らん間に破ったとか有りそうで嫌だな。分類ごとに別ければ探すときに早いか? ……ううん、なんか昔似たようなの処理したことがある気がする……何だった?)
ぐるぐると過去の記憶をたぐれば意外とすんなり思い出すことが出来た。
審神者業務の一貫で見習いに書類を作ったときの作業と似ているのだ。戦時中において厳守しなければならなかった法律のピックアップ作業。どのような法律が審神者としての仕事に直結してくるのか、どのような行為が抵触するのか、アウトかセーフのライン見極め、など。一々調べるのも面倒だったので自分で検索しやすいようにタグ付けと検索しやすいようにしてデータ化したのだった。
文明の利器は使ってこそ。楽をする時は楽をする。スマホのアプリか何かで似たようなものがあれば良いのだけれど。そう考えてデュースは堪えきれずにため息をついた。
ハートの女王の法律はともかく、校則だけでも目を通しておきたかったのだが、少なくとも数日は無理そうである。
アプリストアから使い勝手の良さそうなアプリを幾つかダウンロードし、少し使い心地を試す。性能を確かめてその内の一つを選ぶと他を削除した。
複数ダウンロードできたのは単に必要の無いアプリやゲーム類を入れていないためだ。過去生を思い出してから割とすぐに消したものが大多数。連絡ツール、マジカメやマジッターなどのSNSツール、それらしかデュースのスマホには入っていない。男子高校生としては珍しいだろうが、中身が様々な過去生ミックス状態の彼または彼女である。さもありなん。
(よし、初期設定も終わったし下準備は完了したから……後は寝ようかな)
とりあえず明日はデータ化させる事から始めることにしよう。覚えるのはその次だ。
ぐぐっと伸びをしたデュースは肌が粟立つような不快感に目を眇めた。素早く視線を巡らせる。目端に黒い靄が動いたのを見止めて顔をしかめる。どろり、窓の外に黒が滲んでいた。
現代では守ることの意味を問われかねない規律。それに縛られることへの反感が恐らく強いのだろう。何しろ今この時代に生きる上で必要のない規律なのだ。鬱陶しく思う者は当然居る。
おそらくは、という単なる予想なのだが。あの寮長の発言やチラホラと聞こえてきた言葉から考えるに、中々に寮生へ圧力を掛けているように思う。圧政、までは言い過ぎかもしれないがそれに近しい体制なのではないだろうか。
圧政を敷く者が最も恐れなければならないのは部下や民衆からの叛意――謀反である。それを分かっているのか、いないのか。それとも自分が圧力を持って制していることに気付いていないのか。
とにもかくにも、学園生活は前途多難そうである。
明朝に行われた当番に関する説明、その際に寮長へ質問するのをうっかり忘れてしまいデュースはルームメイトに詰め寄られた。結局、法律を覚えるまでの猶予期間があるのか分からず終いで学校生活初日が始まるのだった。
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2020.8.8.支部に投稿しました
2021.12.30.別館サイトに掲載