39
雪村千鶴side
ぽつり、ぽつり、と、もうずっと降るか降らないかくらいの小雨が降っている。
上流ではすでに大雨が降ったのだろうか。四条大橋の架かる加茂川は水かさが増し、濁り水で流れが速い。人通りも、いつもとは比べ物にならないくらい少ない。
私と、傷を負った香耶さんは、小刀を持った刺客に、その橋の欄干際に追い詰められていた。
「香耶さん、ゼロさんが助けに来てくれるんじゃ…?」
「ざんねん。ゼロは先々月の禁門の変の時に無理させてしまっているから、今は回復期間中。話はできるけれど出て来れないように精神世界に閉じ込めてるんだ」
「そ、そうなんですか……?」
よく分からなかったけれど、これだけは理解できた。
今は誰の助けも当てにできない。自分達で切り抜けなきゃ。香耶さんは、私が守る!
そもそもなぜ私たちがこんな窮地に立たされているのかというと、それはほんの少し前のことだった。
私たちが談笑しながら歩いて四条大橋に差し掛かったとき。いきなり十人ほどの浪士たちに囲まれてしまった。
「この女だ!」
「宍戸先生の仇、討たせてもらおう」
「え? 私?」
香耶さんは首をかしげて瞬いた。
「我々と一緒に来い!」
「ちょっと待って。宍戸溜三郎まだ死んでないんだけど」
浪士の一人が香耶さんの腕に掴みかかろうとした。
しかしその時。
ぐさっ!
「ぐああああ!!」
どこかからか小さな刃物が飛んできて、その浪士の手に突き刺さった。
「わあ、苦無(くない)じゃないか。珍しいな」
「香耶さん…もうちょっと慌てましょうよ」
香耶さんがのんびりした風だから、私の危機感まで薄れていく。
そうしているうちに、私たちの前に飛び出して、かばってくれる頼もしい人たちが現れた。山崎さんと島田さんだ。
「月神君、雪村君、ここは我々に任せて!」
「逃げてください!」
「烝君に島田君。やっぱり君たちか」
うなずいた香耶さんは、すっと下がって私の手を取った。
「あ、あの、逃げるんですよね?」
「うん。今は着物だし“狂桜”を持っていないからね。不利なことは否めない」
よかった。
香耶さんが無茶した結果寝込んだりすると、屯所のみんなにまで伝染してしまうもの。香耶さんはやっぱり元気に私たちの仕事の邪魔をしていなくちゃ。それが私たちに元気を与えてくれているから。
浪士たちの相手を山崎さんたちに任せて、私たちは四条大橋を祇園方面に駆け抜けることにした。
しかし、橋の中央当たりに差し掛かったところで。
向かいから歩いて来た女の人が、何の前触れも無く小刀をもって香耶さんに襲い掛かった!
どしゅっ!
「っあ!!」
「きゃあああ! 香耶さんっ!!」
香耶さんは斬られてしまった。
刺客は、別にいたのだ。
私たちは路の左側を歩いていたものだから、香耶さんは利き腕から右肩を、刺客の女性にばっさり斬りつけられてしまった。
私が驚いて香耶さんの手当てをしようとすると、香耶さんはそれを押し留めた。彼女は血が落ちないように、そして傷口を隠すように、袂を巻きつけてきつく押さえた。
「……っ何するのさ、君」
香耶さんの鋭い視線に、下手人の女性は慄然とした様子で立ち向かい口を開いた。
「…貴女は歳三様の許婚、琴殿とお見受けします…!」
「え? 土方さんの…?」
聞き覚えの無い名に 私は目を見開いたけれど、香耶さんは思い当たる節があるのか、平然としたままだ。
「ああ、ひょっとして君は、宍戸槻さんなのかな?」
「……」
ししどつきさん…?
その、槻さんという女性は、香耶さんを恨みのこもった視線でにらみながら、うなずいた。
よく分からないけれど、この人は、香耶さんを殺そうとしているんだ。どうしよう…香耶さんだけでも、逃げてもらわなくちゃ…!!
がちがちに緊張してしまった私の手を、香耶さんはぎゅっと力強く握り返してくれた。
そして、冒頭の場面に戻る。
雨足は少しずつ強まっていった。
「あの浪士たちに、お父様の仇が貴女だって密告したのは私よ。奴らに貴女を襲わせて、こうやって貴女を殺す機会をうかがっていたの。
歳三様と生きてゆけないのならば、あの人が愛するあなたを殺して、私も歳三様の前で死んでやる!」
「え、ええー!? なんでそこにたどり着いちゃったのかな、お槻さん! それじゃ誰も幸せになれないよ! もっと前向きに考えよう!」
感情に任せて斬りかかってくるお槻さんの刃を、香耶さんは傷をかばいながらもなんとか避ける。香耶さんも帯の中に仕込んであった懐刀を抜いて、利き腕ではない左手で持って、逆手で構えた。
そしてお槻さんの振り下ろした小刀を、多少ぎこちない動きで受け流した。
しかし激しく動いた瞬間に、香耶さんは右肩の傷の痛みに顔をしかめる。
袂が緩んで、開いてしまった傷口から鮮血が飛び散った。
「「香耶さん!!」」
私と、今 四条大橋に駆けつけてきた沖田さんの声が重なる。
同時に四条大橋の中央で、香耶さんの傷から飛び散った紅い血の粒は、空中で丸く固まって黄金へと変化していった。
「えっ……?」
「何よ…これ!?」
私もお槻さんも目を見開いて動きを止める。
硬い音を立てて、それらはバラバラと地面へと転がった。
ありえないことが目の前で起こって、一瞬私の思考が停止した。
「……化け物っ!?」
「ぐ……っう」
香耶さんはお槻さんに刃を押し切られる。そのまま足元がふらついて、橋の欄干にぶつかった。
「香耶さん!」
「香耶!?」
血の気が失せてぐらりと体が傾いた瞬間に、香耶さんの髪から、狂い桜の簪が抜け落ちる。
水量の増した加茂川に吸い込まれていく簪。香耶さんは朦朧としたまま、反射的にそれに手を伸ばし……。
ぱぁん、と軽い水音を立てて、香耶さんの身体は加茂川に飲み込まれていったのだった。