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(キスしてみない?/不二)

「はぁ」

大きなため息が不二家のダイニングに響き、由美子は読んでいた本から顔を上げた。
関東大会翌日の朝のことである。

ため息を吐いた張本人不二周助は、綺麗な花柄の便箋を見つめて、再度ため息を吐いた。その後すぐに、その便箋を伏せて、また少しするとその便箋を開いてため息を吐く。
それを飽きることなく繰り返していた。

「周助、また来年があるじゃない、元気を出して」

母親の淑子は不二のため息の理由を関東大会の結果の件だと思い、そう不二を励ました。
関東大会2日目の準決勝で負け、3位決定戦でも僅差で敗れてしまった青学は全国への切符を得ることは出来なかったのだ。

確かに全国に行けるのなら行ってみたかったという気持ちも無くはないが、不二はそれに関してはショックを受けてはいなかった。
元々勝敗に執着出来ない性格もあり、全国への想いは気薄だったのだ。
しかし母親に本当の理由を説明するのも煩わしく、不二は「ありがとう母さん」と返した。淑子は満足したように、キッチンの方へと出て行った。

「で、ゆめみちゃんとまた何かあったの?」

バタン、とドアが閉まった後、本当の理由に気が付いていた由美子が不二に声をかける。
不二は便箋を見つめながら「怒らせちゃったみたいなんだ」と言った。
その顔はしゅんとしており、反省しているようにも見えた。
どうせまた酷いことをしたんでしょう、と思った由美子だったが、9歳も離れた弟はやっぱり可愛い。

「謝りたいんだけど、会うチャンスが無いんだ」と落ち込む不二に、「私に考えがあるわ」と言った。


7月の最終日曜日。午後1時。
ゆめみは東京の某全国展開している本屋本店に来ていた。
事前に言われていた通り、関係者用出入口から入る。ドキドキしながら、他の従業員と一緒に流れるように中に入った。

「ゆめみちゃん、よく来てくれたわね」

見知った顔を見て、ゆめみはホッと息を吐いた。不二由美子、不二の姉である。
由美子は薄紫色の上品なドレスに身を包み、髪もメイクも完璧だった。ゆめみは改めて綺麗な人だなぁと目をキラキラさせる。

「今日はよろしくお願いします」

ゆめみがはにかんだ笑顔でそう言うと、由美子は嬉しそうに「こちらこそ」と言って、ゆめみを奥の控え室へと誘導した。

今日この書店で由美子の出版記念サイン会が行われる予定で、ゆめみは由美子に頼まれてお手伝いに来ていた。
由美子は実は売れっ子の占い師で、本も数冊書いており、若い子を中心に人気も高い。
ゆめみも年頃の女の子の1人なので、知り合う前から由美子の本を見たことがあった。
しかし、作者の不二由美子がまさか不二の姉だとは夢にも思わず、今回この話を聞くまで由美子が占い師であることは知らなかったのだ。

ゆめみは部屋に入ると、すぐに用意されていた紺色のスーツに着替えた。その後由美子はゆめみを大きな鏡の前に座らせた。ゆめみにケープをかけると、自らメイク道具を手に取り、ゆめみにメイクを施していく。
中学生が手伝っているのはイメージが良くないと言うことで、今日一日高校生設定でよろしくねと言われていた。

「出来たわ」

由美子が満足そうに言った。ケープを外して立ち上がると、ゆめみは驚いて目を見開いた。

「これが私?」

鏡には16歳くらいの綺麗な女性が驚いた顔でこちらを見ていた。
ほとんどメイクをしたことが無かったため、目の前に映る人物が自分だとは信じられないと思った。
本当に高校生くらいに見える。

「本当に綺麗よ」
「ありがとうございます」
「うふふ、素材がいいから楽しかったわ」

コンコン、とドアがノックされ「姉さん、入っていいかい?」と柔らかい声が聞こえた。
すぐに不二だとゆめみは気がつく。由美子はゆめみの準備が整っていることを確認すると、「いいわよ」と返事を返した。

ガチャとドアが開いて不二が入ってくる。と、ゆめみは目を見開いた。
声からして、不二が来ると分かっていたのに、そこにいた人物が不二だとすぐに思えなかったのだ。
もし「周助の兄です」と言われていたら、疑いもしないだろう。それくらい、大人びて見えた。

不二はいつも下ろしている髪を後ろで1つにまとめており、漆黒のスーツを身にまとっていた。

驚いたゆめみだったが、不二はそれ以上の衝撃を受けていた。
由美子から年上に見せるためにメイクをすると言う話は聞いていて、楽しみにしていたが、まさかここまで綺麗になるとは思っていなかったのだ。
『綺麗だよ』と用意していた言葉を言うことが出来ずに、中途半端に開かれた口を閉じた。

「不二くん?」

ゆめみに先に声をかけられて、不二はドキッとした。

「あ、うん」

変に素直な感じになってしまう。いつものからかっているような返事では無かったため、ゆめみは可笑しそうにクスクスと笑った。

「不二くん中身まで別人みたい」

ゆめみは関東大会のキスの件で不二に怒っていたのだが、この驚きでそんなことは忘れてしまった。
少し照れる不二に由美子は意外そうににやにやと笑った。

その後、すぐにサイン会が始まり、ゆめみと不二は由美子のサポートで慌しく働いた。
整理券の回収、プレゼントの受け取り、誘導と様々な役割を書店のスタッフと出版社のスタッフと不二とゆめみで手分けして行う。
想像よりもいろんな人が由美子のサイン会を訪れて、ゆめみは本当に面白いなと思った。

あっという間にサイン会は終了した。


「お疲れ様でした」

由美子さんはたくさんの関係者に囲まれて微笑んでいる。
サイン会は大成功を収めた。
ゆめみと不二は端の方に立って、拍手を送った。

「ちょっといいですか?」

と、その時。名刺がゆめみと不二の前に出された。聞いたことがあるモデル事務所の名前が印字されている。

「君たち不二由美子さんの兄妹なんだってね、絶対売れるよ、モデルとか興味ない?」

不二とゆめみは同時に「無いです」と即答した。モデルは確かに女の子の憧れの職業ではあるが、ゆめみは目立つことが好きでは無かった。不二も全く興味が無かった。
しかし、声をかけて来た男性は断られ慣れているのか、全く怯むことなく事務所の説明をし始めた。
「ドラマで活躍中のララちゃんもうちの事務所で」とか「すぐに出演できるラジオがある」とか、次々と話し続ける。

不二はゆめみを庇うように、男性側に立って話を受け流していたが、一向に終わる気配が無い。
ついに不二は、「ゆめみちゃん、一回出よう」と言って困惑するゆめみの背中を押して部屋を出ようとした。

「逃げないでよ」

しかし、男性はゆめみの左肩を掴んだ。ゆめみは嫌悪感から顔を歪める。その表情を見た不二は鋭く睨みつけた。

「触れないでください」

バシッと男性の手を払うと、ゆめみの手を引いて外へ出た。ズンズンと歩いて、エレベーターに乗って外へと出る。

ゆめみは不二の顔が微笑んでいないことに気が付いてずっと見つめていた。不二は怒ったように真顔だった。

外へ出ると、夕方だった。たくさんの人が忙しく歩いている。雑踏に不二は少しクールダウンした。
ゆめみを見る。自分を見つめていることに気がついて少し焦った。そして小さく笑う。

「ごめんね、嫌な想いをしたよね」

不二がそう言うと、ゆめみは首を左右に振った。そしてにこっと微笑む。

「ありがとう」

そして「優しくて今日は本当に別人みたい」とくすくす笑う。

「普段のボクも優しいでしょ」
「気がつかなかった」
「傷付くなぁ」

不二はそう言った後、姉の由美子に電話をかけた。そして少し話をした後、電話を切る。

「夜ご飯先に食べててってさ」
「片付け手伝わなくていいの?」
「いいみたいだよ」

不二は楽しそうに「ねぇ、せっかくだから、今しか行けない場所へ行こうよ」と耳元で囁いた。その言い方がセクシーな感じで、ゆめみはえ?っと驚いた顔をする。
不二はゆめみの反応ににっこりと笑って上の方を指さした。


不二とゆめみはホテルの最上階レストランに来ていた。窓の外には夕暮れ時の街並みが綺麗に見える。大都会東京。

中学生には敷居の高すぎるレストランだ。普段の彼らなら追い出されてしまうような場所ではあるが、スーツを着ているせいかすんなり入ることが出来た。
窓際の席へ案内され、席を引かれる。ゆめみは大人しくエスコートされて椅子に座った。目の前には大きな窓。不二はゆめみの斜め隣に座る。

外食好きの両親に付き合って、高級レストランには何度も来ているゆめみであったが、友達と2人きりの経験は無く、ドキドキが止まらない。

ゆめみは動揺を隠すようにドリンクメニューを開いた。そして驚く。全てのドリンクが一杯2000円以上である。両親と来ている時は価格を気にしたことがなかったため、余計に動揺した。
ゆめみは自分の財布の中身を思い出しながら「どうしよう」と言った。

しかし不二は「姉さんがご馳走するって言っていたでしょ」と楽しそうだ。確かに事前に今日のお手伝いのお礼に夕食をご馳走するとは言われていたが、それにしても高すぎはしないか。

ゆめみが動揺している間に、不二はスマートにオーダーを済ませた。
最初にノンアルコールのシャンパンと見た目も可愛い前菜が運ばれて来た。

「せっかくだから楽しもうよ」

不二はそう言ってクスッと笑った。「緊張してるゆめみちゃんも可愛いけど」と付け加えて、それがいつもの不二のからかっているような感じで、ゆめみはなんだかスッと楽になる。
不二くんの言う通りだ。ここは由美子さんの好意に甘えよう。
ゆめみはスッとグラスを軽く持ち上げた。

「由美子さんのサイン会成功に」

不二も軽くグラスを持つ。

「美しいキミに」

2人は目と目で合図をして「乾杯」と小さな声で言った。
ノンアルコールのシャンパンは甘くてとても美味しかった。いつもは何にでも真っ赤になるまで香辛料をかける不二も、今日は出てきた料理をそのまま食べていた。
理由を問うと、初めて食べるものにはかけない主義らしい。確かに普段食べ慣れないメニューばかりが運ばれてくる。
見た目も美しく、味もとても美味しかった。

不二とゆめみは、学校の話、部活の話や姉弟の話、植物の話と途切れることなくいろんな話をした。
箱根の星の王子さま博物館に行った時も思ったが、不二とゆめみは意外と話が合うのだ。

2人でメインの1つである極上のブイヤベースを楽しんでいると、不二が突然切り出した。

「ねぇキミは男女の友情って成立すると思うかい?」
「うん、もちろん」
「ボクはね、懐疑的なんだ」

どういう意味だろう?とゆめみは不二をじっと見つめる。

「例えば、ゆめみちゃんと仲のいい幸村くん、真田くん、柳くん、本当に友情だけで繋がっていると思うかい?」
「他に何があるの?」

不二はクスッと笑った。魅惑的な笑顔だとゆめみは思った。

「恋愛感情」

「れんあい?」ゆめみは繰り返した。精市、弦一郎、蓮二と恋愛?普段友人として接しているからか、ゆめみにはとても遠い言葉に感じた。

「やっぱり友情だと思う」
「ゆめみちゃんはね、でも相手はどうなのかな?本当にキミに恋をしていないと断言出来る?」
「それって私のことが好きってこと?それは無いよ」
「どうしてそう言い切れるの?」

「だって友達だから」と言おうとして、それでは言い切れる証拠にはならないことに気がつく。
上手い切返しが思いつかない。それは当たり前のことだ。自分の感情は自分で分かるが、他人の感情はいくら親しい友人と言えども本人にしかわからない。だから、言い切ることは本人にしか出来ないのだ。

「じゃあ不二くんは女の子のお友達はいないの?」
「いないよ」

キッパリとそう言った不二に、ゆめみは少しショックを受ける。その正体に気が付いた。

「私は不二くんにとって友達じゃないの?」

ゆめみは少し唇を尖らせてそう言った。自分も女の子の友達であることに気が付いたのだ。
不二はそんなゆめみにクスッと笑って「それをちょうど考えていたんだよ」と言った。
そして、真剣な瞳でゆめみを見つめる。その薄い唇を開く。

「キスしてみない?」

ゆめみは飲みかけていたブイヤベースを危うく吹き出しそうになった。
文脈おかしくない?食事に夢中になりすぎて話を聞いてなかったのかな?
ゆめみが戸惑いの表情を浮かべると、不二は至極面白そうに「可愛い反応ありがとう」と言った。

「ボクはね、ゆめみちゃんのことが好きなのか、自分の気持ちが分からないんだ」

不二は秘密を告白するように、小さい声でそう言った。
それはゆめみもなんとなく気がついていた。不二の口にする『好き』には心がこもっていないこと。

「好きかどうかは分からないけど、ゆめみちゃんがボクの中で特別なのは確かだよ」

特別でなければ、こんなに会いたくなったり、手紙を書いたりはしないだろう。

「確かめてみたいんだ、この気持ちが恋なのか、友情なのか」
「キスをすればわかるの?」
「そういうものだよ」

不二はゆめみにそっと近づく。そして耳元で「初めてかい?」と囁いた。ゆめみはこくんと頷く。

「良かった、じゃあキミも興味があるんじゃない?キスがどんなものなのか」

日は沈み、店内は薄暗く、不二とゆめみがキスをしても誰にも見られることはなさそうだ。高級レストランという非日常的な環境で、目の前には都会の夜景が広がっている。
女の子が流されるには最適な環境だった。

不二はキスをしようとゆめみに近付いた。しかしゆめみは首を横に振った。

「キスしないよ」

ゆめみは雰囲気に流させれない性格だった。
不二は名残惜しそうに数秒見つめた後、ゆめみの意思が固いことを知ると、小さくため息を吐いた。

「残念、ゆめみちゃん好きな人いるしね」
「え?いないよ」
「いないの?」
「うん」

手塚のことが好きなのかなと思っていた不二は意外に思う。

「最近そのことで少し悩んでたくらい」

とゆめみは恥ずかしそうに付け加えた。親友のゆめこに好きな人が出来たことは、ゆめみの中で1つの分岐点だった。多くの同級生が恋をする中、どうして自分には好きな人ができないのか。

「恋をしてみたい、と思ったけど、無理してするのも違う気がするから」

ゆめみはそっと目を閉じた。その表情が可愛いと不二は思った。

「その時を楽しみに待つことにしたの」

目を開いて不二を見る。その瞳に夜景の光が映りキラキラしている。

「だから、不二くんも」

「一緒に待とうよ」と笑うゆめみ。不二は一瞬つまらなそうな顔をしたが、続けられた言葉に今度は不二の心が乱される。

「それに、不二くんとの初めてのキスは大切にしたいから」

え?キスする前提?今キスしないと言ったばかりでは無かった?不二は困惑した表情を浮かべる。ゆめみはその様子を見て言葉が足りなかったことに気がつく。

「えっと、もしかしたら、この先私が不二くんのこと好きになるかもしれないでしょ、そして不二くんが私を選んでくれたら」

「付き合うことになるかもしれないよね」とゆめみは話した。そして「初めてのキスはその時まで取っておきたいの」とゆめみは言った。
相変わらずの純粋ぶりだ。そんな考えは全く無かったな、と不二は思った。

「ボクのこと嫌ってるキミが好きになる可能性ってあるかな?」

不二が唇を尖らせながらそう言えば、ゆめみは「もう嫌いじゃないよ」と笑う。

「たぶん好きかな?」
「クスッたぶんね」
「不二くんといると、刺激的なことばっかり」

毎回何かしら心を乱される。性格の違う不二の考え方はゆめみにとって新鮮だった。

「だからね、不二くんの考えを否定するつもりは無いけど、私の前でだけは男女の友情が無いなんて言わないで」

ゆめみの言葉が不二の胸にストンと入ってきた。
そうかもしれない。
恋愛感情が有る無しに関わらず、ゆめみとの時間が心地よいと不二もそう思った。

「とりあえず、キミがボクの女の子友達第1号だね」
「光栄です」

不二とゆめみは顔を見合わせて笑った。
その後ろから、由美子がその光景を見て微笑んでいた。






(180528/小牧)→97

キミとキスする日が訪れますように。




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