097
(また食べられちゃった/手塚)
8月初日の真夏日。
太陽がジリジリと照らしつけている。
庭の花に水をあげて、汗びっしょりになったゆめみは、早足で玄関へと戻って来た。
そして郵便受けを覗き込んで、1枚の手紙を取り出す。星の王子さまが描かれているのを見て、ゆめみは微笑んだ。
「ゆめみ、チーズケーキが焼けているわよ」
母親はゆめみがリビングに入って来たのを見てそう言った。ゆめみは嬉しそうに「わーい」と言った後、ルンルンとハサミで封筒を開けた。
机に置かれたチーズケーキには手を付けず、真っ先に手紙を読み始めたゆめみ。読みながらくすくすと笑っている。
「面白いこと書いてあった?」
母親の問いに、ゆめみはキラキラとした瞳で手紙から顔を上げる。
「不二くん、家族旅行で北海道に行った時に、激辛ラーメンを頼んで、それを間違って裕太くんが食べちゃったんだって。それで怒った裕太くんがお店を出て行って皆で探す事態になったらしいよ」
ゆめみは可笑しそうに「去年の冬にも同じようなことがあったの、裕太くん可愛いなぁって思って」と言った。
母親は「そうなの」と優しく相槌を打つ。ゆめみはまた手紙に視線を戻して、楽しそうに続きを読み始めた。
一時期不二を毛嫌いしている時期もあったが、こうして仲直りしてくれてよかったと母親は微笑ましく思う。
ゆめみは不二の送ってくれた写真を手に取った。ひまわり畑の写真だった。相変わらずプロ顔負けの素晴らしい写真だ。空にかざして見た後、裏を見て撮影地が北海道であること確認した。
「見渡す限りのひまわり畑、憧れるな」
ゆめみの言葉に、母親は「ごめんね、今年も連休取れなくて」と言った。ゆめみは「ママったら蓮二みたいなこと言って」と笑う。
柳も全国大会に向け毎日遅くまで練習しており、ゆめみと遊べないことを心苦しく思っていた。
会う度に「すまないな、全国大会が終わったら遊ぼう」と言ってくるのだ。
よっぽど暇だと思われているのだろうな、とゆめみは思うが、それはある意味事実だった。いつも遊んでいるゆめこも家族旅行で出かけてしまっているため、ゆめみの今週の予定は真っ白なのだ。
「私がインドア派なの、ママも知ってるでしょ?毎日ゆっくり出来て嬉しいよ」
「本当?無理していない?」
「してないよー、あ、じゃあまたドイツ語教えて」
笑顔でそう言った娘に、母親は少し安心したように「ええ、もちろん」と言った。とその時母親のスマホが光り、母親はメッセージを確認した。そして、にっこりと笑う。
「これで宿題の絵日記が描けそうよ」
もちろん中2のゆめみには絵日記の宿題など出ていないが、母親のジョークにゆめみは首を傾げた。
翌日。
ゆめみは森の中で静かに立っていた。
目の前には川が流れている。水は透き通っており、光の屈折で淡い水色に見える。
聞こえてくるのは、流れる水の音と、ミンミンミンと鳴く蝉の声。
そして。竿の音。
ゆめみはそっと隣を見た。
手塚国光が竿を垂れている。
厳かな視線が水面に注がれている。一瞬のタイミングを逃さず、竿を引いて、また1匹新しい魚が傍に置かれたバケツへと入れられる。バケツの中の魚たちは少し狭そうだ。
一連の流れがとても美しく、ゆめみはずっと見ていたいと思った。
手塚の隣では、手塚の祖父国一がそれ以上のスピードで魚を釣り上げている。
ゆめみは手塚と祖父の国一と渓流釣りに来ていた。手塚の母親彩菜からゆめみの母親にお誘いがあったのだ。
「ゆめみ、また餌を食べられているぞ」
ゆめみがぼーっと手塚をみていると、手塚はゆめみを見てそう言った。ゆめみが慌てて竿を引くと、手塚の言う通り餌が無くなっていた。
「いつのまに」と目を丸くするゆめみに、手塚は手際良く釣り針を取り、虫が苦手なゆめみのために餌を付ける。
「上達への近道は経験することだ」
表情はいつもの無表情だが、その瞳は優しい。ゆめみは安心して「ありがとう」と言って、手塚にサポートをしてもらい、竿を水面に投げる。
また静かな時間が戻ってくる。
水面に集中していると、不思議な感覚になる。
無心になって、大自然の中に溶け込んだような感覚だ。心が安らぐ。
幸せだなぁとゆめみは思った。
ゆめみの隣では、手塚がゆめみの釣り糸が引っ張られていることに気が付いた。
教えてあげようかとゆめみの顔を見て、手塚は動きを止めた。
つい見惚れてしまったのだ。
ゆめみは慈しむように小さく微笑んでいた。
その瞳はまっすぐに水面に向けられており、集中しているように見えるのに、微妙な水面の変化には気が付かないようだ。
ついにまた魚は上手に餌を取ると、優雅に去っていった。
手塚はフッと息を吐いて、また「餌を食べられているぞ」と声をかけるのだった。
ゆめみは不思議そうに首をかしげる。それでも楽しそうなゆめみを見て、手塚はまぁこれも1つの釣りの楽しみ方だろうと思うことにした。
また餌をつけてやると嬉しそうに笑う。
一緒に竿を投げると、ゆめみはまた熱心に水面を眺めていたが、すぐに狙われて餌を食べられてしまう。
だんだんゆめみも気が付いてきたようで、今度は手塚が声をかける前に、釣り針を水面から出して「また食べられちゃった」と驚いて言った。
手塚がまた餌を付けると、ゆめみはまた「ありがとう」と笑って、もう一度トライする。
しかし今度は10秒もしないうちに食べられてしまった。
釣り針を水面から出して、残念そうな顔をするゆめみに、手塚は川の中でゆめみの下手さが有名になっているのではないかと思った。
魚達がゆめみの下手さについて話し合っているところを想像してしまう。
これではまるで『魚釣り』ではなく、『餌やり』ではないか。
ブッと手塚は思わず吹き出してしまった。誤魔化すようにゴホンと咳払いをした手塚を、ゆめみはきょとんとした顔をして見ていた。
「国光くん今」
「気のせいだろう」
「そっか」
ゆめみはふわふわと幸せそうに笑っていた。
手塚はなんだかくすぐったいと思う。
「次は一緒にやろうか」
「うん、お願いします」
それから手塚に手伝ってもらい、ゆめみは3匹の魚を釣り上げた。
バケツの中で気持ち良さそうに泳ぐ魚を見て、ゆめみは嬉しそうだ。
「釣れたかの?」
ひたすら釣りに没頭していた祖父の国一が手塚とゆめみのバケツを覗きに来た。
手塚のバケツの中を見て「やるのう国光」と言った後、ゆめみのバケツの中を見た。
そしてニカっと笑う。
「初めてなのに3匹も釣れるとは、天才じゃな!」
「ありがとうございます」
国一はゆめみにとても甘いのだ。満足気な国一は「さて、昼時じゃな」と言った。
国一は釣った魚の内、食べられる量だけをクーラーボックスに入れて、残りはリリースした。
3人は少し川を下って、ひらけた河原に出た。川は浅く、家族連れが何組かバーベキューをしている。
手塚と国一は手際よく砂利の部分にキャンプ用コンロとテーブルと椅子をセットする。
鍋に米を入れて、火にかけると国一は「炊けるまで時間がある、川で遊んで来たらいい」といった。
川に視線を移すと、小学生の子供達がバシャバシャと水の中を歩いて遊んでいた。
楽しそうだ。もし一緒にいるのが手塚じゃなくて柳だったら、ゆめみは真っ先に駆け出しただろう。
しかし、あそこで水遊びをする手塚が想像出来なかった。誘ったところで「結構だ」とか「断る」と言われてしまいそうだと思いながら、ゆめみは控えめに手塚を見た。
「お気遣い感謝します」
意外にも手塚は国一にそう言うと、ゆめみを見て「行ってみようか」と声を掛ける。
その表情は柔らかくて、微笑んでいるようにすら見えた。
「うんっ」とゆめみは嬉しそうに笑って、先を歩く手塚の後をついて行った。
手塚とゆめみは、ズボンを膝まで捲り上げて、裸足で川に入る。冷たい感覚が気持ち良かった。
「冷たい」
「ああ、気持ちがいいな」
どこか楽しそうな手塚を見て、ゆめみは少し信じられないなと思う。出会った頃は本当に無表情で、会った初日は一言も話さなかった手塚が、微笑んで川遊びをしている。
実のところ、手塚の表情は出会った時から大して変わっていなかった。側にいるゆめみが、手塚の微妙な表情の変化に気が付けるようになっただけだった。
それでも手塚がゆめみに向ける信頼は確かに時間をかけて築き上げてきたものだった。
ゆめみは手塚との距離が縮まっていることを感じて、嬉しく思う。
「どうかしたか?」
じっと見つめられていることに気づいた手塚はそう声をかける。ゆめみはにこにこと笑って「なんでもないよ」と言った。
ゆめみは足元を見る。水が澄んでいて、川の底の石や草がよく見える。じっと川の底を見つめていると、小さな魚が泳いでいるのが見えて、ゆめみは小さく歓声を上げた。
小魚を刺激しないように、そろそろとゆっくり歩き、両手で捕まえようとする。しかし、魚は数段早く、ゆめみの指をすり抜ける。
その逃げた先で手塚が器用に捕まえた。
「捕まえたぞ」
「さすが国光くん」
ゆめみはワクワクした表情で手塚に近付き、その手のひらにすくわれた水の中でじっとしている魚を見た。小さな鱗がキラキラと光っている。
「可愛いね」
ゆめみはしみじみとそう言った。
自分の手のひらを覗き込むゆめみは、いつもより距離が近かった。長い睫毛やきめ細やかな白い肌を近くで見て、手塚はやはり整った容姿をしていると冷静に思う。
「このこメダカかなぁ?」
不意にゆめみがそのままの体勢で顔を上げた。近すぎる距離に、お互いが驚いてドキッとする。先にゆめみの顔が赤くなった。
手塚が思わず手を緩めると、小魚は一目散に逃げて行った。
「逃げてっちゃったね」
ゆめみは照れ隠しのために、魚が泳いで行った方を見た。少し水面を見て気持ちを落ち着けようとするが、なかなかドキドキが止まらなかった。
ゆめみは諦めて、振り返って手塚を見る。
手塚は先ほどと変わらずに、ゆめみを見つめていた。その頬はほんのりと赤くなっている。
そして、ゆめみの頬も赤いのを見ると「お互い熱に当てられたようだな、日影に行こうか」と言った。
ゆめみは空を見上げる。確かに強い日差しが降り注いでいた。
熱さのせい?このドキドキも?
答えは出ないまま、手塚に促されるままに、ゆめみは歩き出した。
釣りたての魚はとても美味しかった。
(180529/小牧)→101
彼はまだ恋という言葉を知らない。