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(旅して暮らそうよ/不二•大石•菊丸)
「私今レインボーブリッジにいるよ」
ゆめみは瞳を輝かせながらそう言った。
前から吹く風がゆめみの長い髪を軽やかに撫でる。不二は隣ではしゃぐゆめみを見つめながら「そうだね」と柔らかく笑った。
夏休みも残り1週間を切った8月のある日。ゆめみは不二の姉、由美子に誘われてドライブに来ていた。
由美子の真っ赤なオープンカーが東京お台場のレインボーブリッジを駆け抜ける。
青空が広がり、レインボーブリッジから見える陸側の景色はとても綺麗だった。
「東京タワーとスカイツリーが同時に見えるなんて」
ゆめみが感動してそう言うと、隣からシャッター音が聞こえて、ゆめみは隣を見る。不二はゆめみに向けてカメラを構えていた。
「ねぇねぇ私じゃなくて景色を撮って」
「それは後でね、動いていると上手く写らないから」
不二の言葉に、ゆめみは機嫌良く「じゃあこの景色は今限定なんだね」と笑う。笑った顔が可愛くて、不二はまたシャッターを押した。
「それにしても、姉さんの誘いには一回で乗ってきたね」
「ボクの誘いは断るのに」と付け加えた不二に、ゆめみはギクリと視線を泳がせる。
実は8月に入ってから何回か不二に遊びの誘いを受けていたのだが、ゆめみは気乗りせずに断っていたのだった。
不二に対する苦手意識は薄れてきたゆめみであったが、わざわざ不二に会うためだけに東京まで行くのは面倒というのが正直なところだ。
不二はゆめみの家の近くまでいくと言っていたのだが、不二と2人でいるところを知り合いに見られたら説明するのがまた面倒と言う気持ちもあり、結局断ってしまっていた。
「いろいろと忙しくて、ごめんね」
ゆめみは苦しまぎれにそう言った。
会話を聞いていた由美子が運転席から「忙しいところ来てくれて嬉しいわ」と声をかけると、ゆめみは「由美子さんのお誘いならいつでも」と満面の笑みで言った。
由美子はゆめみにとって憧れの存在だった。その反応の違いに、不二は内心「やっぱり姉さんがいるからじゃないか」と苦々しく思う。しかし隣で楽しそうにしているゆめみを見て、「まぁいいか」と思うのだった。
神奈川からドライブして来た由美子の車は、お台場の駐車場で止まった。ちょうどお昼時だったので、お台場でお昼にしようと言うことになったのだ。
そこでトラブルが起きた。
開かれたオープンカーの屋根が閉まらなかったのだ。ボタンを押しても不自然な機械音だけが駐車場に響く。
そのまま駐車する訳には行かず、由美子はディーラーに連絡をする羽目になった。
「ごめんなさいね、すぐ来てくれるらしいんだけど、先にお店に入ってて」と由美子は申し訳なさそうに言った。
不二とゆめみは2人でお台場の綺麗な海を隣に見ながらウッドデッキを歩いていた。
不二は2人きりになったことを意識したが、ゆめみは気にならなかったようで、今までと変わらずに、景色を見ては楽しそうにしている。
小さな自由の女神を見つけた時、ゆめみは「不二くん、この景色の写真撮って」とふわふわと笑った。
不二はリクエストに応えてカメラを構える。シャッターを押す瞬間。
不二の瞳が真剣な色に変わるのを目撃して、ゆめみはドキッとした。写真を撮っている時だけは純粋にかっこいいと思えた。
「ゆめみ?撮れたよ」
不二がゆめみの顔を覗き込む。ゆめみは不二に見惚れていた自分に気が付いて、少し驚いた。照れ隠しにえへへと笑って。「見せて」と言って、一眼レフの液晶画面を覗き込んだ。
「まだ印刷前だからどうかな?」と不二は言ったが、ゆめみはすごく素敵だと思った。
ゆめみの瞳がうっとりと潤むのを見て、不二は愛おしいなと感じた。
自分の写真を喜んでもらえることは素直に嬉しかった。
「また送ってあげようか?」と不二が言うと、ゆめみは「ありがとう」と嬉しそうに頷いた。
その後、「何を食べようか?」と話しながらウッドデッキを歩いて行くと、パンケーキ屋さんがあった。
オーストラリア発祥の人気のあるパンケーキ屋だが、たまたま空いていて、すぐに座れそうだった。ゆめみの家の近くにもあるのだが、いつも行列が出来ていて、なかなか行けないのだ。
「ここにしようか?」
ゆめみが食べたそうにしているのを見て、不二はそう言った。ゆめみは少し驚いて「いいの?」と聞く。なんとなく辛いモノ好きの不二と一緒なので途中にあったタイ料理屋とかになるのかなと思っていたのだ。
「ボクはゆめみちゃんが喜ぶ顔が見られればそれで満足だから」
そんな言葉をサラリと言って、不二はお店の扉をゆめみのために開けた。他の人が言うとクサすぎるセリフも、不二が言うと爽やかに聞こえるから不思議だ。
テラス席がちょうど空いており、そこに通された。室外ではあるが、上から冷たい風が出ていて涼しかった。
不二はゆめみのために椅子を引いて、ゆめみが座ったことを確認すると、斜め隣に座る。
目の前には綺麗な海が見えた。
由美子を気にするゆめみを気遣い、不二は「飲み物を頼んで待っていようか」と提案した。そして、ゆめみの飲みたい物を確認して、スマートにオーダーを済ませる。
先日のレストランでも思ったが、不二のエスコートは完璧だ。中学生でここまで出来る人はなかなかいないだろう。これは女子にモテるはずだ。
「不二くんって、王子様みたいだね」
ゆめみの言葉に不二は少し目を見開く。しかしゆめみはすぐにいたずらっぽく笑って「口を開かなければ」と付け加えた。
不二はクスッと笑って「ボクがおしゃべりなのはキミの前でだけだよ」と言う。
そんなことを裕太くんも言ってたな、と思い出しながら「じゃあ普段は喋らないの?」と聞いた。
「うん、ミステリアスだと思われてると思うよ」
ゆめみは意外だな、と思う。出会った時からおしゃべりだったような気がしたからだ。
不二は少し考えた後「キミってからかいたくなるんだよね」とにっこり笑う。
更に「これが恋なのかな?」と考え込む不二に、ゆめみも同じように考えて「どうだろうね?」と言った。
2人とも恋をしたことが無いのだ。そんな2人が考えたところで答えが出る訳もなく、2人して同じ方向に首を傾げた末に、顔を見合わせて笑った。
まもなく、先ほど注文したグリーンスムージーとホットコーヒーが運ばれて来た。それと甘いナッツが少しだけ。
ゆめみはグリーンスムージーを飲みながら幸せな気持ちになった。それは緑の野菜とトロピカルフルーツをミックスしたもので、とても美味しかった。
嬉しそうに笑うゆめみを見て、不二もつられて幸せそうに笑う。ずっと見ていたいと思った。
「あれ?不二じゃないか!」
不二の密かな願いはすぐに断ち切られた。聞き覚えのある声に、不二は顔を上げた。テラス席の前の道にオールバックの髪の少年と赤髪の少年が並んで立っていた。
大石秀一郎と菊丸英二である。どちらも青学の2年生で、不二のチームメイトだ。
「やぁ、大石、英二、奇遇だね」
大石の隣にいた菊丸はここで初めて不二に気がついたらしく、遅れて不二を見た。そして隣にゆめみがいるのを見てにやにやと笑う。
「なになにー?不二ってばデートしちゃってんのー?」
「ええっ、デート!?」
全力で茶化してくる菊丸とは対照的に、大石は「こりゃ大変」と慌てている。
「紹介するよ、ゆめだゆめみちゃん、ボクの彼女」
不二はにっこり笑ってそう言った。ゆめみはすかさず「えっ、違うよ」と言った。大石と菊丸は笑顔の不二と困り顔のゆめみを交互に見た。不二は内緒話をするように、口元に手を当てる。
「彼女、可愛くて優しくて、家柄も良くて完璧なんだけどね、ちょっと夢見がちなところがあってフィアンセって言わないと怒るんだ」
「ちょっと不二くん」
ゆめみが小さく睨むと、不二はニコニコと笑って「ボクはそんなところも好きだよ」と言ってくる。ゆめみは小さくため息を吐いた。
「ところでキミ、去年の学園祭でお姫様役をしてくれた子だよね?」
大石の言葉に、ゆめみも青学の学園祭で一度大石に会っていることを思い出した。
「あの時はご迷惑をおかけしました」
「いやいやこちらこそ、むしろ助かったよ」
ゆめみがお辞儀をすると、大石はそれを止めてくれた。常識的な反応になんだか安心するな、とゆめみは思った。
「思い出したにゃ、確か手塚とも知り合いだったよね、去年の関東大会に手塚と一緒に来てなかった?」
「あの時は手塚の彼女だと思ったのにん」と付け加えた菊丸に、ゆめみは少しだけ赤くなる。
「国光くんはパパの患者さんで、その関係で知り合いになっただけで」
「え?ってことはキミのお父さんは手塚の主治医ってことかい?ゆめだ先生の娘さん?」
大石がいきなり前のめりになってゆめみにそう問いかける。ゆめみは勢いに押されて「うん」と頷いた。
「そうだったんだ、いや驚いたよ、実は叔父さんがゆめだ先生の後輩でね、ゆめだ先生のことは良く知ってるんだ」
「え?もしかして大石くんの叔父さんって大石先生?」
「そうだよ」
ゆめみも驚いた。大石先生のことは良く知っていたからだった。人当たりの良い人気の先生だ。たしかにそう言われると大石は大石先生に似ている気がした。
「へー、世の中狭いにゃ」
内輪ネタで盛り上がる大石とゆめみに、菊丸はしみじみとそう言った。
「じゃあゆめださんも医者を目指しているの?」
大石の問いに、ゆめみは一瞬固まった。しかしすぐに愛想のいい笑顔を浮かべて「うん」と言った。不二だけが小さな違和感に気が付いた。
「俺もそうなんだ、叔父の影響でね。お互いに頑張ろうね」と言った大石に、ゆめみはにこっと笑って「そうだね」と言う。
「ところでそろそろ行かなくて良いのかい?」
「あっ、そうだった、おーいし!もう行こうぜ!」
不二がタイミング良く菊丸を促して、菊丸は大石を連れて歩き出した。2人はイベント開催中の室内遊園地に遊びに来たのだ。
ゆめみは遠ざかる2人に笑顔で手を振った。
「ねぇ、どうして嘘を吐いたの?」
不二がそう聞いた。ゆめみが隣を見ると、不二はゆめみを見つめていた。ゆめみは一瞬誤魔化そうと口を開いたが、不二の見透かすような瞳を見て、観念したように息を吐いた。
「完璧に嘘ってわけじゃないんだけど」
そう口にして、ゆめみは「ううん、やっぱり嘘かな」と小さく顔を振った。
「私、なりたいものって特に無いんだよね」
ゆめみはそう切り出した。その瞳は揺れていた。
「将来の夢ってやつかい?」
「うん、あ、正確に言うとあるかな?」
「なんだい?」
「笑わない?」
不二はそんな風に言うゆめみにクスッと笑って「笑わない」と言った。すでに笑ってるじゃんとゆめみは思ったが、少しだけ躊躇った後、口を開く。
「お嫁さんになりたいの」
ゆめみは甘い瞳で、好きな人と結婚して、可愛い子供に囲まれて、幸せな毎日を過ごしたいと語った。不二は黙って聞いていた。笑うことはなかったが、黙ってしまったのが珍しくて、ゆめみは上目遣いで「意外?」と聞く。
不二は少し考えた後、小さく笑った。
「いや、むしろイメージ通り過ぎて」
それに続く言葉は「可愛いな」だった。しかし、不二はなぜか気恥ずかしくなってその言葉は飲み込んだ。代わりに「ならどうして言わなかったの?医者じゃなくてお嫁さんになりたいって」と言った。
「医者の子供はね、医者になるのが自然なんだよ」
ゆめみは寂しそうな瞳でそう言った。
「医者の子供が医者になりたくないって言うことは、人助けをしたくないって聞こえるらしいの」
ゆめみは淡々と話す。父親も母親も医者なのに、自分が医者になりたくないと言うと、周りはなんて冷たい人間なんだろうと批判的に思うと。
不二は何となくわかる気がした。不二はそうは思わないが、世間一般的にそう言う感情の動きがあることを理解出来た。
医者になることは「勤勉でえらいこと」と言う意識があるのと同時に、なれるのにならないことは「怠慢で悪いこと」と言う意識がある。
「勘違いしないでね、私は医者を否定している無い訳ではないの。パパもママも尊敬しているし、怪我の手当ても得意だよ。でもそれが本当に将来やりたいことなのかって聞かれると、わからないって思うだけ」
「だから本当にやりたいことを見つけるまでは肯定することにしているの」とゆめみはそう言ってふわっと笑った。
「その方がみんなハッピーでしょ」と微笑むゆめみに、不二は意外だな、と思う。
素直で純粋なだけな女の子だと思っていた。でも違うのだ。あざとい一面もあるのだな。
それはマイナスでは無く、不二の中でゆめみの株が上がった瞬間だった。
「なんか不思議」
ゆめみはそう呟いた後、不二をまっすぐに見て「初めてなの、この話をしたの」と言った。
柳にもしたことがない話をなぜ不二に簡単に話したのだろう?ゆめみはその理由を考えた。恐らく適度に遠い友人だからだろうと思ったが、やっぱり不二自身に惹きつける何かがあるのだろうなとゆめみは思った。
「不二くんは?テニスのプロになるの?」
今度はゆめみがそう聞いて不二が考える番だった。不二は静かに笑って「無理だろうね」と言った。
「でも」
不二くんって天才って呼ばれてるすごい選手なんだよね?とゆめみは不思議に思う。
ゆめみの戸惑いに気が付いたように不二は寂しそうに笑った。
「ボクは勝敗に執着出来ないみたいなんだ」
秘密を明かすように、不二は小さい声でそう言った。ゆめみはその言葉の意味をすぐには理解出来なかった。
「ボクがテニスをする理由、それは刺激が欲しいから。相手の力を限界まで引き出してスリルを楽しみたい、だけなのかな」
不二の言葉を一つ一つ聞いて、ゆめみは不二の言葉を自分のものに変えていく。
『勝敗に拘らない』それはゆめみのよく知っている立海の『負けてはならない』と対極にある考え方だった。
そんな考え方もあるんだ、とゆめみはこの時初めてそれを知ったのだった。自分でも意識しない内に『勝利することが全て』という考え方に染まっていたことに気がつく。
不二は目を瞑った。その表情は寂しそうだった。ふぅとため息を吐く。
ゆめみはすぅっと息を吸った。不二の吐いた息を吸ったような形になり、不二は少し目を見開いてゆめみを見る。
「それって悪いことなのかな?」
ゆめみはそう言った。その瞳には光が宿っているように見えた。
「たしかにテニスのプロになるなら弊害になるかも知れないけど」とゆめみは前置きして、「でも好きなようにテニスをして、私は良いと思うよ」とにこやかに言い切った。
不二は目を見開いたまま数秒考えて、その後「そう、かな?」と言った。
不二は顔が火照るのを感じた。救われたように心がふわっと軽くなる。
気持ちが昂ぶって。抑えられない、と不二は思った。
だからゆめみが続けて聞いた「他になりたいものがあるの?」という問いに、不二はつい本音を言ってしまった。
「写真家」
その言葉が空気を伝って不二の耳に届いた時、不二はぶわっと顔が赤くなった。
恥ずかしい夢を口にしてしまったと思ったのだ。しかしゆめみはその言葉を聞くと嬉しそうに「そうだったらいいなって思ってた」と言った。
「不二くんの写真、本当に素敵だもの」
キラキラした瞳でそう言ったゆめみに、不二は泣きたくなった。
存在全てを肯定されたような、幸福感を感じたのだ。
「じゃあ、その夢が叶った時、もしボクらが両想いだったら」
「両想いだったら?」
「世界中を一緒に旅して暮らそうよ、ボクのお嫁さんにしてあげる」
にっこり笑う不二に冗談だと思ったゆめみは「そしたら私の夢も叶うね」と笑った。
不二の瞳は切ないほどに真剣だった。
(180607/小牧)→110
ボクも本気になれるのかな?