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(青学の1年生になりたかった/手塚)
9月の第3月曜日は祝日だった。
ゆめみは朝食後リビングでスマホ画面を見ながらくすくすと笑っていた。連絡を取り合う相手は大親友のゆめこである。
画面を見ながらデザートのラフランスへと手を伸ばす。行儀の良くない行為にゆめみの母親は少し顔をしかめた。しかし休日の家にいるときくらいは大目に見るかと思い直し、ラフランスティーをティーカップに注ぎ、ゆめみの前に置く。
「良い香り」
ゆめみはその香りに嬉しそうに画面から目を離して母親を見る。
「今日はゆめこちゃんと出掛けないの?」
ゆめみは昨日も一昨日もゆめこと遊びに出かけていたため、いつまでものんびりとしている娘を疑問に思ったのだ。母親の問いにゆめみはにやっと笑って「ゆめこは今日はデートなんだ」と答えた。
ゆめこに彼氏が出来たことをゆめこの母親を通じて知っていたゆめみの母親は、「それは良いわね」と微笑んだ。
「本当に、すごく素敵なのー、ゆめこの話を聞くと早く私も恋をしてみたいって思う」
ゆめみはうっとりとした瞳でそう言った。
修学旅行以来、もしかしたら柳が自分のことを好きかも事件があり、その時はもし柳が自分のことを好きだと言うのなら、柳と付き合おうかな、なんて思ったゆめみだった。しかしその悩みが解決した今、ゆめみの中で恋への憧れはピークに達していた。
「ねね、恋をしたらちゃんと気付くことが出来る?」
「ええ、もちろん」
「ママはどうやってパパのこと好きって気が付いたの?」
「そうねぇ」
母親は少し考えて「尊敬」と答えた。
「尊敬」
ゆめみはその言葉を繰り返した。真っ先に浮かんだのは寡黙な王子様、手塚の顔だった。
「尊敬してたから、彼の力になってあげたいと思ったの」
「どうして?どんなことがあったの?」
ゆめみは前のめりになってそう聞いた。よく考えると、詳しい両親の馴れ初めについて聞いたことが無かったことに気がついたのだ。母親はうふふと笑って「また今度ね」とはぐらかした。ゆめみは「えー」と唇を尖らせる。
「あ、そうだ、また届いていたわよ」
母親は話をそらすように、ゆめみに手紙を手渡した。その手紙には、星の王子さまのキャラクターが描かれており、開く前に不二からの手紙であることが分かる。
ゆめみはそれを嬉しそうに受け取った。そして、丁寧にハサミで封筒を開けると、まずは写真を取り出して、しげしげと眺める。秋らしい満月の写真だった。月の中に浮かぶ模様が美しく、ゆめみは不二は本当に天才だなと思った。
「綺麗な写真ね」
「うん」
「ゆめみは何の写真を送るの?また食べ物?」
「写真送るのやめようと思って」
今まではお返しにと食べ物の写真を送っていたゆめみだったが、不二からプロの写真家を目指していると聞いた時、送るのをやめようと心に決めた。
自分の拙い写真を送ることに違和感を覚えたからだ。
「代わりにフランス語の詩を書いてみようかな、不二くんも最近フランス語を勉強してるんだって」
「そう、それは良いわね」
ゆめみは「ちょっと恥ずかしいけど」とはにかんだ笑顔を見せた。そして、手紙を開く。
「きゃあっ」
数秒も経たない内に、ゆめみは黄色い声を上げて立ち上がった。母親は驚いてゆめみを見つめる。ゆめみの頬はほんのり赤く染まり、瞳がうるうると潤む。
「ママ、大変、すごいことが起きた」
そんなことを言う娘に、母親は驚いて目を見開く。ゆめみはたっぷりもったいつけた後、口を開いた。
「国光くんが生徒会長になったんだって」
それから10分後。
ゆめみはリビングのソファーに座り、ソファーの上に飾ってあったクッションを抱きしめて、ため息を吐いていた。
「国光くん、すごくない?生徒会長だよ?生徒会長ってすごすぎるよ」
さっきから同じようなことを繰り返しているゆめみ。
「あーあ、青学の1年生になりたかった」
「どうして1年生?」
「全校朝会とかの時に一番近くで生徒会長な国光くんを見れるから」
「かっこいいだろうなぁ」とゆめみは呟く。テニス部副部長兼エースで、スキーも釣りも登山も得意で、ドイツ語が話せて、そして生徒会長。
なんだかいきなり手塚が遠い存在に思えて、ゆめみは泣きたくなった。
そして、ゆめみのスマホ画面は作成中のままで止まっている。手塚にお祝いを伝えたいのに、なぜか恥ずかしくて送信出来ないでいたのだ。
そんな娘の様子に、母親は小さくため息を吐いて、電話をかけた。相手は手塚の母親である彩菜である。
時間は進み、夕方の青学テニス部部室。
まだ16時半ではあるが、日が短くなってきており、空は夕暮れに染まりかけている。
手塚国光は帰り仕度を済ませ、部室の外で鍵当番である大石を待っていた。
「英二先輩!寄り道して行きません?」
「おっ、桃いいね」
手塚の目の前を1年の桃城と2年の菊丸が「お疲れ様です、手塚副部長」「おっつかれさまー!」と駆け足で通り過ぎる。
その後、不二が部室から出てきた。いつもの愛想の良い笑みを浮かべている。
「手塚、ボク達も寄り道していかないかい?」
手塚は変わらない表情で「悪いが今日は先約がある」と言った。手塚は母親である彩菜が自宅で生徒会長就任のパーティをしようと朝から夕食の準備をしていたことを知っていた。
ぶっきらぼうな物言いだが、これが彼の平常運転であり、不二と仲が悪いというわけではない。不二もそれを理解しており、にこにこと微笑んだまま、嫌そうな顔はしなかった。
「デートかな?」
「いや」
と、その時、手塚のスマホが光り、小刻みに震えた。母親だろうと予想して、スマホ画面を開く。送り主は予想通り母親だった。
『スペシャルゲストが待ってるわよ、寄り道せずに帰って来なさい』
メッセージの下に映し出された写真に、手塚はわずかに目を見開いた。
白いエプロンを付けた少女が料理をしている写真だった。場所は手塚の家の台所で、長い髪をふんわりとまとめて、カジュアルな雰囲気を醸し出している。カメラ目線では無かったが、小さく微笑んでいた。
不二と手塚の共通の知り合いであるゆめみだった。
「へぇ」
先に写真を覗き見た不二が言葉を発した。その目は開かれている。
「ねぇ、今日キミの家にお邪魔してもいいかな?」
手塚はいつもの固い表情で「断る」と言うと、大石を待たずに歩き出した。
最初はゆっくり、そして少し急ぎ足に、校門を出る頃には、全力の早歩きになった。そんな手塚の背中を、不二はつまらなそうな表情で見つめていた。
「余裕、無くなってるよ」
手塚が家に到着すると、玄関には小さな女性モノの靴が置いてあった。ドアの奥からは女性同士の楽しそうな声が漏れて来ている。男しか住んでいないこの家では珍しいことだった。
分かっていたことだが、期待が高まる。
平常心を装い「戻りました」と声をかけると、すぐにパタパタと足音が聞こえ、ドアが内側から開かれた。
想像通りの人物がそこには立っていた。手塚の顔を見ると、嬉しそうに笑う。
「おかえりなさい、国光くん」
はにかんだ笑顔が、室内なのになぜか眩しいと手塚は思った。予想をしていたにも関わらず、驚いた時のように心臓が跳ねて、不思議だと思う。
「ただいま」
手塚の言葉に、ゆめみはバラ色の頬でもう一度「おかえりなさい」と言った。
2人の間に甘い、穏やかな雰囲気が漂う。
ゆめみの後ろから彩菜が顔を出した。
「ゆめみちゃん、国光のお祝いに駆けつけてくれたのよ」
ゆめみの母親が気を利かせて、彩菜にお祝いの電話をかけたのだった。ゆめみのことが大好きな彩菜は今日のパーティーのことを話し、良かったらぜひ来て欲しいと誘ったのだった。
ゆめみはお手伝いを申し出て、お昼くらいに手塚の家に到着し、彩菜と一緒に料理をしていた。
彩菜から説明を受けた手塚は、ゆめみに向き直ると素直に「わざわざすまないな」と言った。ゆめみはちょっと照れたように頬を染めながら、「生徒会長就任おめでとう、国光くん」と微笑む。
2人はまた見つめ合う。空気がどこかピンク色に染まった気がした。
明らかに1年前とは違う2人の雰囲気に、彩菜は何かを期待するように瞳を輝かせる。
「さぁ国光、シャワーを浴びて着替えて来て、パーティを始めましょう」
彩菜の張りのある声に、手塚は「はい」と返事を返し、自室へと向かった。
「じゃあゆめみちゃん、最後の仕上げといきましょう」
「はい、彩菜ママ」
程なくして、手塚がシャワーを浴びた後リビングへと入ると、すでに祖父の国一、父の国晴、母の彩菜、そしてゆめみが席に着いていた。
「では、国光の生徒会長就任を祝って乾杯」
国晴の音頭に、全員「乾杯」とグラスを傾けた。手塚ファミリーの中に入り込んだ形となったゆめみであったが、彼らとはすでに何度も会っているため、特に違和感も無く、雰囲気に溶け込んでいた。
テーブルに乗り切らないほどに並べられた豪華な料理はどれも美味しく、話も盛り上がる。
ゆめみはよく笑い、相槌も上手い。ゆめみがいた方が場が盛り上がると手塚家族は歓迎していた。何よりゆめみが自然に手塚に話を振るため、いつもはほとんど話をしない手塚も話に参加する場面も多かった。
そんな2人のやりとりを微笑ましいと感じていた。
「ゆめみちゃん、先にお風呂入っちゃって」
「あ、はい」
外食の後、お風呂を勧められたゆめみは、ごく自然な流れで承諾していた。
前回も父親の迎えが遅いからという理由でお風呂をかりたことを思い出す。
お風呂から上がると、棚の上に可愛い花柄のルームウェアが置いてあった。彩菜さんのものにしてはデザインが若過ぎる。
昨年もコットンレースの白いパジャマを借りて、そのままもらったことを思い出し、今年もそうなのかな?と予想する。
しかし、無断で袖を通すのは気が引けたゆめみは、一声かけようと、バスタオル1枚で体を包んだまま、キッチンに続くドアを少し開けた。
ゆめみは思わず叫びそうになった。
が、かろうじて悲鳴は上げずに、その人物を見上げる。
「く、国光くん」
タイミングの悪いことに、ちょうど手塚がそこに立っていた。
ゆめみの状況を把握すると、眉ひとつ動かさずに「母が着替えを用意したはずだが」と言った。
ゆめみは見事に3秒固まった後、自分の姿を再度確認して、顔を真っ赤にする。
「あ、うん、ありがとう」
ゆめみは早口で御礼を言った後、ドアを閉めようとした。しかしそれを手塚が「少しいいか」と制止した。
内心良くないと思ったゆめみであったが、相手は全く気に留めていない様子であるために、1人恥ずかしがるのも恥ずかしい気がして、こくんと頷いた。
「相談したいことがあってな」
「相談?」
「ああ」
手塚の予想外の言葉にゆめみは少し驚いた。
相談されるのは嬉しい気がするが、なぜ今この状態で切り出して来たのか。
「もちろんいいけど、後でじゃダメ?」
ゆめみが小さい声でそう聞けば、手塚はフッと笑って「そうだな、風邪をひいてしまうと悪い」と言った。ゆめみは心の中で盛大に「そういう問題じゃない」とツッコミを入れた。
「では自室で待っている」
手塚はくるりと反対方向を見て立ち去っていった。ゆめみはやっとドアを閉めて、ふぅと息を吐く。壁に背中をつけて、ずるずると座り込んだ。
「恥ずかしかった」
よくラブコメ等で起こるハプニングである。でも、普通は見られた方も見た方も恥ずかしさから赤くなって、「国光くんのバカ!」と叫んでパンチしたりするものでは無かったか。
普通に話しを続けた手塚を思い出して、ゆめみは自分ばっかり手塚を意識しているのかも、と思った。
実際は手塚が疎いだけなのだが。
ゆめみは両手でまだ熱を持っている両頬を押さえる。
「熱い」
その時、手塚は先ほどの宣言通り自室にいて、机に向かっていた。ゆめみが来る前に日課である日記を書いてしまおうと、今日の日付が記載されたページを開く。
書き出そうとして、ふと先ほどのゆめみの様子を思い出した。
頬が赤かった。見えていた肩や首すじが白かったために余計に気になった。
風呂上がりだからだろうか。
いずれによ、なんだか可愛いなと手塚は思った。
しかしすぐに、はて『可愛い』とは?と思い直す。
思考をさらに進める前に、コンコンというノックの音が聞こえて、手塚は立ち上がった。
丁寧にドアを開けると、小花柄のワンピースに着替えたゆめみが立っていた。
「よく来たな」
「うん」
手塚はゆめみに奥に入るように促す。
手塚の部屋は1年前と変わらず、整っていた。
「わぁ、久しぶり」
ゆめみは懐かしさからきょろきょろと部屋を見渡す。飾ってあった山の写真が変わっていたり、ルアーコレクションも増えていた。
楽しそうに部屋を見渡してくるくる回るゆめみを手塚はベッドに座って眺めていた。
その表情は優しげであったが、ゆめみは見つめられていることに気がついてギクリとする。
「ごめんなさい、見過ぎだよね」
ゆめみは少しシュンとして、大人しく手塚の左隣に座った。
「いや、構わない」
続けて「楽しんでくれたようで何よりだ」と付け加えた手塚に、ゆめみは安心したように微笑んだ。
ゆめみは少し山の写真を眺めた後、手塚の顔を覗き込んだ。
「相談ってなぁに?」
手塚の顔が少し真剣味を増した。ゆめみは不思議そうに首をかしげる。
「腕を見てくれないか?」
手塚はそう言って、羽織っていたシャツを脱いだ。そして、その左腕をゆめみの前に出す。
「これ・・・」
ゆめみの顔色がみるみるうちに悪くなるのを見て、手塚は覚悟した。
「やはり、異変が起こっているようだな」
ゆめみはあまりのショックに両手を口元に当てたまま、硬直した。
手塚の腕は、深刻な状態であった。
いろんなことが頭の中をぐるぐると回った。
手塚の肘は完治したはずだった。
昨年の春に痛めた肘は、地区予選前には完治したと父から聞いた。昨年の関東大会ではたしかに疲労が溜まっていたが、ここまで酷くは無かった。
あれから、国光くんは病院に行かなかったのだろうか?
疲労が蓄積した腕のままで無理を続けて、そして、こうなってしまったと言うの?
はっきり言って、信じられないくらいの努力を積み重ねなければ、ここまで酷くはならないくらいの状態だった。
ポタ、とゆめみの瞳から涙が落ちる。
「ゆめみ?」
突然泣き出したゆめみに、手塚は驚いて声をかける。そして、ポケットから青いハンカチを出して、ゆめみに手渡した。
「どうした?遠慮はいらない、覚悟は出来ている」
1ヶ月くらい前から異変に気がついていた。
腕が鉛のように重い。もしかしたら、と思いつつ先延ばしにしてしまっていた。
手塚の柔らかい声に、ゆめみの涙は止まるどころか次から次へと溢れた。手塚のハンカチを濡らし続ける。
ゆめみは答えを言う代わりにそっとその腕に触れた。熱を持っているように熱いと思った。
「マッサージしてもいいかな?」
ゆめみはハンカチで涙を拭いて手塚に許可を求める。手塚は軽く頷いて「ああ、頼む」と言った。
ゆめみは丁寧に、手塚の二の腕から肘にかけて筋肉を揉みほぐしていく。繊細な動きに、手塚は軽く目を閉じた。
気持ちがいいと感じた。
ゆめみの動きが止まった後、手塚は腕を上下に動かしてみる。信じられないくらい軽くなっていた。
「見事だな、ありがとう」
手塚はそう言った。その瞳は嬉しそうだった。しかしゆめみの顔は晴れなかった。
悔しかった。
腕の状態から、手塚が日頃どれだけ努力しているのかわかった。去年の肘の怪我さえ無ければ、こんな状態にはならなかっただろう。
その努力は尊敬する。とゆめみは思った。
きっと強い信念があるのだろう。
それでも。言わずにはいられない。
「無理をして欲しくない、これ以上腕を痛めたらテニスが出来なくなるわ」
ゆめみの言葉に、手塚は軽く首を振る。
「悪いが今は全国制覇する事しか頭にない」
ゆめみは目を見開いた。
『全国制覇』その目標を手塚の口から聞いたのは初めてだったからだ。
力になりたい、ゆめみは心の底からそう思った。
青学が立海に勝ってほしいと願った訳では無い。純粋に手塚の目標に向かう力になりたいと思ったのだ。
『尊敬してたから、彼の力になってあげたいと思ったの』
唐突に母親の言葉が頭をよぎった。
ゆめみは理解した。
私、国光くんが好きなんだ。
自分が手塚を好きであることに気がついた瞬間だった。
ゆめみは少し目を閉じた後、無理して笑った。
「だったら、なおさら早く治さなくちゃ」
「必ず明日病院に行くこと、それから」ゆめみは少し言うのを躊躇するように言葉を止めた。しかし、意を決して続きを言う。
「定期的にマッサージさせてほしい」
ゆめみの言葉に、手塚は驚いたような反応を見せた。
「それはありがたいが、いいのか?ゆめみにメリットは無いぞ」
拒絶されなかったことに、ゆめみは安堵した。好きだと気付いた瞬間に振られたら、立ち直れなかったかも知れない。
『私にとっては国光くんに会えるだけで幸せ』と言うのが本音だが、まさかそんなことは言えない。ゆめみは少し考えて、口を開く。
「じゃあ、国光くんはドイツ語を教えて」
「今勉強中なんだ」とゆめみは付け加えた。手塚は「お安い御用だ」と少しだけ微笑んだ。
ゆめみはその後少しだけ手塚にドイツ語を教えてもらった。
こんな時間が少しでも長く続いて欲しいと願ったゆめみだったが、今日に限って父親は時間通りに迎えに来た。
(180627/小牧)→114
これが初恋なのかな。