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(食べさせてくれないかい?/三強)
中国研修最終日の午前中。
ゆめみ達は一昨日から上海入りを果たし、最終日の今日は蘇州に来ていた。
上海近郊の東洋のベネチアと呼ばれる美しい町である。いたるところに運河が張り巡らせてあり、その風景は見るものを楽しませてくれた。
蘇州は中国式の庭園が有名であり、庭園を巡ったゆめみ、幸村、真田、柳の4人は、休憩のために喫茶に入った。眺めが良さそうな2階に上がると、ウエイターが屋上はもっと眺めがいいと勧めてくれた。
案内に従って屋上へと足を踏み入れる。
「わぁ、絶景だね」
ゆめみがその景色に目を細めて歓声を上げる。運河が流れている様子が美しく、絵葉書の写真みたいだとゆめみは思った。
「屋上で決まりのようだな」
ゆめみの喜ぶ様子に、柳はそう言った。真田と幸村も微笑みながら頷いた。
席は7割方埋まっていたが、1番端の広めの6人席を確保することができた。飲み物のオーダーは一階でするらしく、はじめに真田と幸村が飲み物を注文しに行った。戻って来てから、入れ替わりでゆめみと柳が出発する。
ゆめみと柳が屋上に戻ると、ゆめみ達の席は無くなっていた。正確に言えば、真田と幸村が座っていたテーブルの残りの4席に1年生の女の子4人が座っていたのだ。
彼女らは班分けの際に男子と同じ班になりたくないと言ったため、女子4人で構成されていた。
「真田先輩の乗馬、とてもかっこよかったです」
「私、全国大会から幸村先輩のファンなんです」
女子4人の口からは次々に賞賛の言葉が飛び交っている。幸村は苦笑いをし、真田に関しては慣れない状況にタジタジになっていた。
真田の珍しい反応が面白く、ゆめみはくすくすと笑う。
「どうする?彼女達に退いてもらうことも出来るが」
あらかじめ答えは分かっていたが、社交辞令のような形で柳はゆめみにそう聞いた。
ゆめみは柳の予想通りに首を振ると「4人席が空くまで私達はあそこに座ろ」と幸村達が座っている席から少し離れた2人席を指差した。
というのも、あと空いている席が2人席のみだったのだ。ゆめみと柳が幸村達に合流すれば、後輩たちは2人ずつに分かれて座らなくてはいけなくなる。
それは可哀想だとゆめみは思ったのだ。
柳とゆめみは幸村達に軽く合図を送った後、2人席に座った。真田と幸村は何か言いたそうにしていたが、後輩たちを無理に追い払うことはしなかった。
まもなくオーダーしたお茶が運ばれて来た。ゆめみも柳も日本では珍しい工芸茶を頼んでいた。
事前に温められた透明な茶器にコロンとした球状の花茶が一粒入っている。そこにウエイターはお湯を注ぎいれた。
ゆめみは瞬きもせずにじっとその透明なお湯の中を見つめていた。
花茶はお湯に浮かび、みるみるうちに広がって見事な花へと変わっていく。
「わぁすごい」
その過程を熱心に見届けた後に、ゆめみの口からは感嘆の言葉が漏れた。茶器いっぱいに広がった花は堂々としていて、綺麗だとゆめみは思った。
「蓮二のも綺麗だね」
ゆめみの茶器にはピンクの花が、柳の茶器には黄色い花が咲いている。
交互にその花を見ては嬉しそうにしているゆめみを見て、柳も微笑みをこぼした。
「あぁ綺麗だ」
「これなんて言うの?花茶だっけ?」
「花茶の一種だが、花茶の中でもこのように花の形が現れるものを工芸茶と言う」
「不思議、どうやって作るの?」
キラキラした瞳でそう聞いたゆめみに、柳は茶器に浮かんだ花を指差しながら説明を始める。
「糸で編んで作られている、葉の部分を縫った後、花を入れて編み込む、しかし咲ききった花では香りが足りないため、その後で香り付けをしている」
「香り付けかぁ、編むだけなら私にも出来るかもって思ったけど、難しそうだね」
ゆめみはそっとお茶に口をつけた。ふわっと花の香りが広がってとても美味しいと思った。
「ゆめこにお土産に買って行きたいな、あと一風ちゃんにも」
「喜ぶだろうな」
ゆめみと柳は顔を見合わせてふわふわと笑った。
そんな2人を少し離れたところから幸村が見ていた。意識して見ていた訳では無いのに、どうしても目に入ってしまう。
「幸村先輩、聞いてくれてますか?」
目の前に座っている1年生からの呼びかけに、幸村は正直に「聞いていなかった」と言った。彼女は『幸村のファン』を名乗っている。
「ぼーっとするなんて、幸村先輩らしくないですね」
その言葉に、幸村は「そうかもね」と気の無い返事を返したが、内心では少し腹立たしく思っていた。『幸村先輩らしい』、つまり『自分らしい』とは一体何なのか。
今日初めて話した子にそんなことを偉そうに言われたくは無い。
しかし、『幸村らしくない』のは事実であった。あのモンゴルでの夜以降、体は重く悪寒が消えないでいた。
この体の不調を幸村は風邪をひいてしまったようだと認識していた。幸いにも体が重いのと寒気がすること以外の症状は無く、皆に迷惑をかけまいと幸村は体調不良のことを誰にも伝えずにいた。
見た目に変化は無いが、行動は確実に鈍化していた。普段の幸村であれば、そもそも後輩の女の子達が近付いて来た時点で追い返していただろう。
今こんな状態に陥ってること自体が不調の証だな、と幸村は自虐的な笑みを浮かべた。
目の前の女の子がまた何かを口にする。しかし、幸村はまた耳を傾けることをせずに、ゆめみと柳を見ていた。
視野が狭い。2人を見ていると、周りのものは何も見えなくなった。
2人は楽しそうにくすくすとおしゃべりを続けている。
『日本に帰るまでは真実を伝えてみせる』
幸村は柳の言葉を唐突に思い出していた。
今日は最終日。午後の便で日本へ戻る予定だ。チャンスはそう多くはない。
今、まさにその話をしているのでは無いかと不安になった。
「ゆめみ」
幸村の予想は当たっていた。
柳の少し真剣な声に、街の風景を眺めていたゆめみは、柳を真っ直ぐに見た。
「なぁに?蓮二」
機嫌よく紡がれた声に怖気付きそうになる。
3年半の月日を経て積もったこの重た過ぎる感情を伝えたら、ゆめみはどんな反応をするのか。
ゆめみのことは誰よりもよく知っていると自負している柳であるが、こればかりは想像出来なかった。
『俺はお前を1人の女として好きだ、付き合いたいと考えている』
そう告げたら。
ゆめみはどう答えるのか。
是、または否?YES、or NO?
いずれにせよ、何らかの変化を受け入れなければならないだろう。
「蓮二、どうしたの?話しにくいこと?」
信頼と親しみが混ざったような、いつもの表情でゆめみがそう聞いてくれる。
柳はこの幼馴染という居心地のいい関係を終わらせるのが怖いと感じていた。
しかし、これは有限だ。いつかは終わりがくる。
いずれにせよ終わるものならば、今壊してもいいだろう。
柳は小さく息を吸って、吐いた。
「聞いて欲しいことがある、俺は」
緊張で声が震えた。
けじめはつけなければ。
柳はやっとの想いで目を開いた。
しかし、映ったゆめみは柳の方を見ていなかった。柳を通り越して、その奥を見ている。
更にゆめみは立ち上がって、走り出した。
「精市!」
ゆめみのただならぬ雰囲気に、柳も振り返る。すると、酷く顔色が悪い幸村が目に入った。
ゆめみは急いで幸村に駆け寄った。
「大丈夫?顔が真っ青よ」
「平気さ」
幸村はそう言ったが、息は切れており、言葉も弱々しい。ゆめみは納得せずにその細い指を幸村の額に当てた。そして顔を歪める。
「熱があるわ」
熱?
そのキーワードがトリガーとなり、幸村は急に自分の熱を自覚した。寒い、そして熱い。
「気が付かなくてごめんね」
「辛かったよね」とゆめみが幸村の顔を覗き込む。その瞬間、ずっと張り詰めていた何かが切れた。
本来ならば、幸村の体はここに座っていることすら難しいくらいの重症であった。幸村の精神力だけで持っていたものが、ゆめみの言葉に安心したのか、切れてしまったのである。
急に倦怠感が我慢出来なくなって、幸村はゆめみへと倒れた。
幸村は重くて仕方なかった瞼を閉じた。
それから何時間、何日経ったのだろう。
幸村が目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
それは紛れもなく幸村の自室の天井であり、ホテルでも、寝台列車でも、ゲルでも無かった。
中国へ研修に行ったことは夢だったのだろうか?
もしそうであるなら、どこからが夢?
どうせなら、最初から夢であったらいい。
初めてゆめみに会った日、そう例えば今日が立海中等部の入学式の日の前日だったなら。
もう迷いはしない。
柳の気持ちを聞く前に、ゆめみに告白することができるのに。
「精市?目が覚めたの?」
聞き慣れた声が聞こえた後、母親の百合子に覗き込まれたのを見て、幸村はここが自宅であることを再確認した。
「母さん、研修は?」
起き上がると、クラリとめまいがした。頭がボーッとする。
「無理しないで、まだ少し熱があるのだから」
母親の百合子は中国研修の最終日に幸村が倒れたこと、そのまま運ばれるように帰国した後、ずっと眠っていたことを話した。
今は帰国した翌日の夕方らしい。
ちなみに水曜日であり、学校も部活も休んでしまったようだ。
幸村は最後の記憶が中国蘇州の喫茶店内であることを思い出してゾッとした。
旅の終わりに心配をかけてしまったことだろう。
「悪いことをしてしまった」
幸村の口から出た最初の言葉はそれだった。そして続けて出た言葉は「ゆめみに謝らないと」だった。
百合子はそんな息子に小さく微笑んで「その願いはすぐに叶うわ」と言った。
幸村は少し考えた後、弾かれたように部屋の入り口を見る。
そこには天使のような女の子が控えめに中を除き込んでいた。
目が合うと、泣きそうに顔を歪ませて「精市、大丈夫?」と震える声で言った。
その子が自分の想いを寄せるゆめみだと認識すると、幸村はブワッと顔が赤くなる。
急に自分の髪型や格好、そして帰国後に入浴していないだろうことなどが気になった。
百合子は幸村の気持ちに気付いて「ゆめみちゃん精市が起きたわ、お粥の準備をしましょうか」と声をかけて百合子自身も部屋から出て行った。
バタン、とドアが閉じた瞬間。幸村の脳が高速回転する。
ゆめみ、お見舞いに来てくれたんだ。嬉しさと申し訳無さが同時にこみ上げる。
時計を見ると午後6時を少し回ったところだった。制服を着ていたし、学校帰りにお見舞いに来てくれたのだろう。優しいゆめみらしい。
そこまで分析した後、幸村は立ち上がった。
また急に立ち上がったために立ちくらみがしたが、そんなことは気にしていられない。
幸村はクローゼットまで歩くと、その扉を横に開けた。
ドアの後ろに取り付けられた全身が映る鏡で自分の姿を見ながら、新しいパジャマに着替えて、髪をとかした。
整った姿に、これでゆめみに見られても幻滅されはしないだろうと判断すると、ほっと一息ついて、カーディガンを羽織る。
トントン、とドアがノックされて、幸村は「どうぞ」と声をかけた。
ガチャ、と控えめにドアが開くと、お盆を持ったゆめみが立っていた。
ゆめみは幸村の顔を見るとにこりと笑ったが、すぐに幸村が立ち上がっていることに気が付いて表情が硬くなる。
そして、お盆をテーブルに置くと、幸村へと駆け寄った。
「精市、まだ寝ていないと」
ゆめみは丁寧に幸村の手を握ると、ベッドへとリードする。ゆめみの前で寝ているなんて格好悪いと思うが、幸村はされるがままに再びベッドに座った。
「もう心配いらないのに」
幸村は小さく笑ってそう言ったが、ゆめみは心配そうにその繊細な手を幸村のおでこに当てる。ドキッとした幸村であったが、ゆめみが真剣な顔をしていたために、硬直していた。
「37度8分」
ゆめみはそう言った。幸村が不思議そうに「本当かい?」と言うと、小さく舌を出して「てきとうだよ」と笑った。
「でも本当にまだ熱いわ」手をおでこにつけたまま、心配そうにそう言うゆめみ。
この体勢じゃ、何もなくても熱が出そうだと思った幸村だったが、観念したように「ゆめみの言う通りにするよ」と言ったため、ゆめみは幸村から手を引いた。
「精市が目を覚ましてくれてよかった」
さっきは少し笑ったゆめみだったが、改めて見たゆめみの瞳は潤んでおり、心からほっとした様子だった。そんなゆめみの反応に、嬉しさがじわりと込み上げる。
「心配してくれたんだね」
幸村がそう確かめるように言うと、ゆめみは堰を切ったように「もちろんだよ」と中国から帰って来るまでどんなに不安だったかを話し始めた。
概要は母親から聞いていたものの、当事者から聞くと全く別の話のように感じた。
空港でも感染症を疑われて、入国ゲートをくぐるのが大変だったという苦労話まであった。
「でも、ほんと変な病気とかじゃなくてよかったね」
ゆめみはそんな言葉で締めくくった。
どう言うことかと聞けば、幸村が眠っている間に家庭医の先生が自宅に来て診察をしてくれたらしい。その結果、海外特有の感染症とかでは無く、風邪だと言う診断が降りたと言うことだった。
「ただの風邪で皆に迷惑をかけて逆に恥ずかしいな」
「うふふ私は安心したよ、でも風邪も辛いことには変わりないよね」
ゆめみはそう言ってハッと時計を見る。気が付けば随分と長い時間話し込んでしまっていた。
「長々とごめんね、おかゆ運んで来たの、冷めないうちに食べてね」
ゆめみは申し訳無さそうに立ち上がった。
「部活終わりに蓮二と弦一郎も顔見に来るって言ってたよ」
ゆめみは最後にそう言い残して、クルリと後ろを向いた。病人の部屋に長居するのは良くないと思ったのだろう。
呼び止めることは出来ないだろうと幸村は思った。いつもの自分ならば。
「ゆめみ」
しかし、今はいつもとは違う。めまいはするし、体調だって本調子とは程遠い。
だから、少しくらい甘えてもバチは当たらないだろう。
「おかゆ、食べさせてくれないかい?」
流石に恥ずかしくなって、最後の方は消え入りそうな声になった。それでもゆめみには届いたようで、くすくすと嬉しそうに笑った。
「もちろんよ、精市」
ゆめみの快諾に、幸村は恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに「苦労をかける」と言った。ゆめみも頼ってもらえて嬉しいと感じていた。
幸村の熱は夜には下がり、翌日から通常通りに学校へ行った。
誰もが風邪だったと言う幸村の説明を疑わなかった。しかし、幸村はこの後すぐに体の異変に気が付くこととなる。
辛くて長い冬がすぐそこまで迫っていた。
(180825/小牧)→123
当たり前に学校へ行って、当たり前に部活に参加して、そんな毎日がずっと続いていくと思っていたよ。