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(ヨットが見たくて湘南に来たんですか?/徳川•三強)

11月中旬の土曜日の夜。
夕食後もゆめみはリビングにいて、熱心に数冊の本を広げて読んでいた。

今日はゆめこと遊びに行った日で、可愛いチェックの短めのスカートを着ていた。まだ服を着たままの娘に母親はそろそろお風呂に入ってほしいと思うが、広げられているのが医学書であったために小言を言わずにいた。

「ねー、ママ、問題があって立てなくなるってことは、骨折以外だと筋や筋肉を痛めたってことになるのかな?」

ゆめみは小さい文字を指で追いかけながら、そう聞いた。ゆめみの母親は総合病院で働く内科の医師なのである。

「ママは形成は専門外だから一般的な回答になっちゃうけど、どの部分が痛むのかによってある程度どこに炎症があるのか分かるんじゃないかしら」

炎症、と聞いて違和感を覚えた。
精市の症状とは少し違う気もしたのだ。

考え込むゆめみに「パパに聞いたらいいんじゃない?」と東京の形成外科に務める父親の名前を出す母。
父親はまだ帰宅していなかった。
本当は洗いざらい幸村の症状を伝えたかったが、幸村の病気の件はまだ一部の仲間の間でしか共有されていない。
母親と言えど話すのは気が引けて、ゆめみは「そうよね」と気のない返事をした。

体育祭の日から2週間。
幸村の病気は日に日に悪くなっていた。ゆめみは毎日のように幸村の家を訪れた。
先週は松葉杖で移動出来ていたのに、今週は車椅子になっていた。
もしかしたら、もう立てなくなってるのかも、もゆめみは思った。
幸村は気丈に振る舞い、ゆめみの前では穏やかで、なんでもないような態度だった。

ゆめみも約束通り病気のことは触れずに楽しい話ばかりして過ごした。
しかしその一方で柳と情報を共有し、自分でも病気についてあれこれ勉強していた。
幸村の家には医師が何度も診察に来ていることを知っていたため、自分がなんとか出来るとは到底思っていなかったが、何かしていないと気が済まなかったのだ。

カタン、と音がして顔を上げると、フレーバーティーが置かれている。

ゆめみは本から目を離し、香りを堪能してから、お茶を飲む。
秋らしいマロンフレーバーティーだった。

「医学部に進むならベルリンの大学がおすすめよ」

ドイツの首都のベルリン、という言葉に手塚を思い出してドキリとする。
顔を上げると母親はニコニコしていた。

「立海にはね、ベルリンの医学部との提携があるのよ」
「さすがは立海ね、ママとパパはベルリンの大学で出会ったんでしょ?」

医者になるつもりなどこれっぽっちもないゆめみであったが、両親から医学書を貸してもらっている恩もあり、否定も肯定もしなかった。

「そうよー、懐かしいわ、あの国の雰囲気がとても好きだったわ、そうそう明日くる徳川さんもドイツで会ったのよ」
「へー、徳川のおじさん来るんだ、なんだか久しぶりだね」

徳川さん夫婦とは、父親母親のドイツ時代の日本人友達だったらしいということは知っていた。
徳川のおじさんは、ゆめみが小さい頃毎年夏に父親に会いに家に泊まりに来ていた。
徳川のおじさんは外交官で、いろんな国に赴任していたので、いつも珍しいお土産を持ってきてくれるのが小さいゆめみは楽しみだった。

「3年ぶりくらいだよね?あれ?じゃあ明日泊まるの?」

最後に会ったのは小学生の時だったな、と思った。その時は気にならなかったが、ゆめみも年頃の女の子だ。他人のおじさんが泊まるはちょっとやだなと思った。

「それがね、今年の4月から本省勤務になったから家族で日本に帰ってきたんだって、だから夜は家に帰るみたい。ゆめみも楽しみよね?ほらあのカズヤくん、すごいイケメンに育ったらしいのよ」

母親の話の飛びように途中からついていけなくなるゆめみ。そのカズヤくんと言う人は知らない人だと思った。

「え?家族で来るの?」
「そうよ、徳川さんと、みよちゃんと、息子のカズヤくん、お姉ちゃんはまだ海外の大学にいるみたいなんだけどね、ってだから家にいてねって言っておいたでしょ」

全く持って初耳である。
でもゆめみの母親は多忙のため、このようなことは良くあった。
仕事では完璧なドクターであるが、プライベートでは少し抜けている。

「聞いてないよー!明日は蓮二と弦一郎と精市の家に行く約束してるもん」

明日は立海テニス部にとって貴重なオフの第3日曜日だ。

「その約束は午後からでしょ、徳川さん達は午前中来てお昼たべたら帰るから」
「えー、でも、午前中も蓮二と遊ぶかも」「蓮二くんは明日の午前中は俳句の会でしょ」

面倒だなーと思って言い訳しようとしたのに、バッサリとそう言われて驚く。
娘の親友のスケジュールまで把握しているとは。なんで知ってるの?と不思議そうな顔をするゆめみに、母親はにこりと笑って「この間蓮二くんから誘われたのに断ってたの聞いていたのよ」と言った。

そういえばそんなこともあったな、とゆめみは思い出す。必ず毎回誘ってくれる蓮二には申し訳無いが、俳句の会は毎回お断りしていた。全く興味を持てないので仕方ない。

「あっ、蓮二ご飯食べ終わったみたい!ママ、この本借りるね!」

柳からのメッセージがポップアップして、ゆめみは本をかき集めて、階段を登って行った。

「ゆめみ、夜ふかしはダメよ、それと明日は妹スタイルでよろしくね!」

母親の爆弾発言に、思わず振り返るゆめみ。
でも蓮二と早く話がしたくて、「わかったー」と言って部屋へと戻った。

翌朝。

「ねぇねぇ、ママ、これ正解なのかな?」

ゆめみは鏡の前で首を傾げる。
母親にセットしてもらった高めのツインテールがくるんと揺れた。

「可愛いわ!さすが私の娘!」

よく分かっていないゆめみであるが、どうやら今日は『妹』を期待されているらしいのだ。
ゆめみは両親の仕事の都合で1歳から3歳くらいまでドイツに住んでいた。本日ゆめだ家を訪れる徳川カズヤくんは、当時兄妹のように毎日遊んでいたらしい。

「小さい頃はカズにーにって呼んでいたわよ」
「全然覚えてない」

3歳のことだと言われ、証拠写真も見せてもらったが、記憶にないものはない。
楽しそうな母親に、ゆめみはため息をついた。
念のためネットで『中学2年生 ツインテール』で検索してみると、ほとんど好意的な回答だった。世間的にはツインテールアリらしい。

「カズヤくんだってその時5歳でしょ?私のこと絶対覚えてないよ」

ピンポーンとインターフォンが鳴って、ゆめみも母親な楽しそうについて玄関まで歩いた。



1時間後。

ゆめみは徳川カズヤと一緒に江ノ電に乗っていた。
席は空いているのに、徳川が座らない、と言ったので、ゆめみも一緒に立っていた。
マナーのいい人なんだろうな、と好感が持てた。

窓の外にはキラキラ光る海が見える。
徳川はその海を珍しそうに見ていた。

「付き合わせて悪かったな」

柔らかい笑みを浮かべて言った徳川に、ゆめみは「いえ、私も久しぶりに江の島に行きたかったので」と言った。
それは半分嘘であり、半分は本当だった。
江の島は興味が無かったが、家から出たいとは思ったのだ。

徳川のおじさんは愉快な人だった。それに奥さんのみよさんもゆめみの母親と相当仲が良かったようで、会うなり大宴会となった。
酔っ払った大人の相手をするのは、思春期の中学生には大変なのだ。
居づらそうにしていたカズヤくんも同じことを考えていると感じ取ったゆめみは、趣味がヨットだと聞いて、近くにヨットハーバーがあるから行ってみない?と誘ったのだった。

江ノ電が終点の江の島駅に着くと、ゆめみは飛び出した。

「はー解放感っ!」

そう言って美味しそうに空気を吸うゆめみに、徳川はははっと可笑しそうに笑った。

「ゆめみちゃんが外に出たかっただけのようだね」

どうやらバレバレだったようだ。

「苦手なんですー、酔っ払いに絡まれるの」

「カズヤくんもそうでしょう?」と聞くと「全然?」と余裕の回答が返ってきた。

「俺も中学の時は嫌だったけどな」

居づらそうと思ったのはゆめみの勘違いだったようだ。
「カズヤくんは大人だなぁ」と言うと、思い出したように「しかしあれは父親が悪かった、代わりに謝るよ」と言って、ゆめみの頭をポンポンと撫でた。

ゆめみはさっきのことを思い出して、顔が赤くなるのを感じる。
徳川のおじさんがゆめみに「彼氏できたか?」と聞いて、ゆめみの父親が「まだ片想い中でね」とゆめみの純粋な片想いを酒のつまみにしたのだ。

「ゆめみちゃんも頑張ってるのにな」

真顔でそう言われて、ゆめみはなんだか更に恥ずかしい気持ちになった。

「もう、忘れてください!行きますよ、早く!」

ゆめみが早歩きでそう言うと、はいはいとついてくる徳川。

背の高い柳よりもさらに10センチくらい高い徳川は、あっという間にゆめみに追い付いた。

「背が高いですね」
「ゆめみちゃんは相変わらず小さいな」

またポンポン、と頭を撫でられた。
それがくすぐったくて、今日ほぼ初対面のはずなのに、嫌じゃなかった。
お兄ちゃんとはこんなものなのだろうか?

「平均的だと思います」
「日本人は小さいからね」

日本人という単語に、この人は長らく海外で過ごしたんだったな、と思い出す。

「日本はどうですか?」
「新鮮かな」
「綺麗で清潔でしょ」

ゆめみは海外から日本に帰ってきた時のことを思い出してそう言った。
チリ一つ落ちていない綺麗過ぎる街が不思議だなと思った。

「そうだね、世界に興味があるのかい?」
「とても!」

江の島までの橋を渡りながら、徳川は海外の話をしてくれた。
パリ、イギリス、イタリア、スペイン、ヨーロッパの国の話が次々と出てきて、ゆめみはとても楽しいと思った。

あっという間に江の島ヨットハーバーに着いた。

湘南の海に寄せあってるヨットがたくさん置いてあった。
空と海の青と、ヨットの白が対照的だと思った。

とても美しい景色だと思った。

でも意外とこじんまりとしていたので、ゆめみは少しハラハラした。

世界のヨットハーバーを巡ってきたかもしれない彼には、物足りないかも知れないと思ったからだった。

しかし隣にいる徳川を見て、ゆめみのそんな考えは杞憂だったことを知る。


ヨットを見る目はキラキラしていた。
ずっと大人だと感じていた徳川が、同い年の少年のように感じて、ゆめみは少し可愛いなと思った。

「ヨットが見たくて湘南に来たんですか?」

なぜか思わずそう聞いていた。
ここに誘ったのはゆめみなので、そんなはずは無いと少し考えればわかるのに、徳川があまりにも嬉しそうだったから、そんなことを思った。

「いや」

徳川は少し間を置いてから、ゆめみに微笑んだ。

「小さなお姫様にもう一度会ってみたくてね」

フリーズするゆめみに、徳川は海を見ながら話し出した。

「人生の転機があってね」

その表情には悔しさが浮かんでいて、ゆめみは嫌な出来事だったんだろうなと思った。

徳川は目を閉じて、ふぅと息を吐くと、またゆめみを見た。先ほどと同じような微笑みに戻っていた。

「思い出したんだ、初めて海外のドイツのクラブに入った時も緊張でダメだったこと、
そして、そんな時に励ましてくれた女の子のこと」

ゆめみが全くピンときていないことに、徳川は小さく笑う。

「ゆめみちゃん、キミのことだよ」

記憶に無い自分の話とは奇妙なものだとゆめみは思った。

「毎日練習について来てくれて、にこにこしながらカズにーにがんばれ!って言ってくれていた」

懐かしむような、そんな顔をする徳川。
ゆめみは申し訳無い気持ちになる。

「ごめんなさい、私覚えてないです」

「覚えてなくて当然だよ、俺が勝手に恩を感じてるだけだ
思い出したら、会ってみたくなったんだ、それが湘南にきた理由だよ」

徳川はまたゆめみの頭をポンポンと撫でた。
楽しそうに。

「大きくなったね」

にこっと笑った顔はなんだか安心するな、とゆめみは思った。

「近くに行ってみようか」

そう言って徳川はゆめみの手を掴んだ。

ドキッとした。
掴まれたその手が鍛えられた大きな男の人の手だったから。

徳川はゆめみの戸惑いには気が付かず、ゆめみを連れ回し、ヨットのことについていろいろと話してきかせた。
興味が無くて、ヨットとボートの違いも分からなかったゆめみは、この時間だけで説明できるくらいに詳しくなった。

2人は江の島駅まで戻ってお茶することになった。

「付き合ってくれたお礼に好きなものを買ってあげよう」

と言った徳川に、ゆめみは迷わずクレープをリクエストした。
半分屋外のスタンド席で、徳川はコーヒー、ゆめみはブリュレクレープを注文。
半分焦がしたようなキャラメルのクレープはゆめみのお気に入りだった。

「美味しかった!ありがとう、カズヤお兄ちゃん」

ゆめみがさっきの話を思い出して可愛くそう言うと、徳川はコーヒーにむせてケホと咳をした。

「現金だね」

「うふふ、クレープが美味しかったのもあるけど、カズヤくんを見てたらお兄ちゃんってこんな感じなんだろうなって思ったの」

徳川は少し照れたようだった。

「まぁ、俺も昔は下の兄弟が欲しかったし、ゆめみちゃんを妹にしてあげてもいいかな」

冗談に乗ってきた徳川に、ゆめみはあははと楽しそうに笑った。

しかし、次の瞬間、徳川はゆめみの頭をそっと押さえて、守るように自分の胸へと引き寄せた。
視界が真っ暗になる。

「うつむいたままでいてくれよ、
殺気をまとって睨んでいるカップルがいる」

耳元で囁かれた声に不安になった。
一体、何が起こっているのだろう。






時間は15分ほど前に遡る。
同じく江ノ島駅周辺でのこと。

「どこまでついて来るつもりですか?」

柳が呆れたように言うと、目の前にいた長身の女性はニッと笑って言った。

「久しぶりに会ったのにつれないな、蓮二は」

柳は冷静に「引退しても毎日のように生徒会室に来ていますよね」と返す。
白百合あやはは「後任の片倉朋和くんが心配でな」と笑った。立海の元生徒会長だ。
先月末に引退したばかりである。

柳は白百合あやはとは生徒会の活動で一緒だったが、苦手意識を持っていた。
生徒会長としての仕事ぶりは認めてはいるが、この人をバカにしたような傲慢な態度は好まなかった。
さらに今年の海原祭では、彼女の妨害によりゆめみとのダンスを逃したという恨みもある。

柳が彼女を拒絶すればするほどに、白百合あやはの方は楽しそうに柳をからかっていた。

今日もおそらく柳をからかう目的で俳句の会に現れたのだった。
会の参加メンバーは年齢の幅が広く、その多くが社会人であるため、特別大きな問題にはならなかったが、柳のストレスは最高に高まっていた。

「ちょうどお昼時だが、どうだ?ランチでも」
「この後予定がありますので、ここで失礼します」
「その予定のいうのは、例の小動物なのだろうな」

ピシャリと断った柳に、さすがのあやはもつまらなそうな顔になる。
しかし、何かを見つけたあやはの口元はまたニヤリと弧を描いた。

「どうやら蓮二との約束は履行されないようだぞ」

あやはの目線の先を見て、柳は思わず開眼した。


ゆめみが知らない男と一緒にいたのだ。

柳の視線に気が付いた男は、突然ゆめみを抱き抱えるように自分の胸へと引き寄せる。
そして睨まれた。

「ヒュー、邪魔するのはヤボというものではないか?」

あやははニヤニヤとそう言ったが、柳には聞こえていなかった。
迷いなく近づいて、そして隠されたゆめみに手を伸ばした。
しかし、それよりも早く徳川がその手を払い除ける。

「お前は誰だ?」

と柳に言い、ゆめみには「心配しないで、ゆめみちゃんは俺が守るから」と言った。

柳は頭に血が上った。

「貴様こそ誰ですか?!ゆめみから手を離せ!」

その声を聞いて、ゆめみは慌てて徳川の腕の中から出てきた。

「蓮二?」

不思議そうな顔をするゆめみに、「そうだ、俺だが」と柳は肯定した。

「あー、びっくりした」

ゆめみは安心したように笑うと「カズヤくん、私の友達ですよ」と言った。
そして柳の方をみて「蓮二、昨日話したパパのお友達の息子さんよ」と言った。
徳川は少し決まりが悪そうに「勘違いをしたようだね、悪かったな」と言った。
柳も「いえ、俺こそ大声を出してしまいかたじけない」と謝った。

「一件落着だな」

そうまとめたのはついて来たあやはだった。
ゆめみが「白百合先輩ですか?」と不思議そうな顔をしているのを良いことに、あやはは「こちらはこちらで楽しくしていた」と柳に目配せした。
柳は「紛らわしいことを言わないでください」と否定したが、ゆめみは「ふーん」と真顔になった。

その後は特に話すこともなく、4人は江ノ島駅まで歩いて、駅であやはと別れた。

3人で江ノ電に乗る。
徳川がまた座らないと言うので、3人で無言で立ったまま乗っていた。

最初にゆめみの家の最寄駅に着いて、徳川が降りる予定だ。
ゆめみは少し待ち合わせ時間よりは早かったが、柳と会ったのでこのまま一緒に幸村の家に行くことにした。

駅に着いた。
徳川は、最後に名残惜しそうにゆめみの頭を撫でる。

「早く大きくなれよ、ゆめみちゃん」

拒否することなく受け入れたゆめみ。
「今日はありがとうございました」と笑うと、徳川は電車を降りた。

残されたゆめみと柳は空いていた席に座った。

「蓮二、なんか怒ってる?」

ゆめみはその大きな瞳で柳の顔を覗き込む。

「男だとは聞いていなかった」

そうだっけ?とゆめみは思ったが、柳が否定しないのだから怒ってるのだろうなと思ってそれ以上は言わなかった。
なぜ怒ってるのか見当もつかなかったが、代わりに「伝えてなくてごめんなさい」と言った。

「なぜあのように馴れ馴れしい?」
「えっと、お兄ちゃんだから?」

疑問に疑問で返される。柳は不可解な顔をした。

柳を心配そうに見つめるゆめみ。
その髪や服はいつもより甘めだ。見慣れないツインテールは可愛すぎるが、今はなんだかそれも気に入らないと柳は思った。

徳川カズヤ。
その人物を当然柳は知っていた。高校テニス、9月の秋の新人戦で優勝した人物である。
5歳から海外の名門テニスクラブで英才教育を受けている。
2学年違いであるため、高校に上がれば、試合で嫌でも会う可能性が高い人物だ。

眉間に皺を寄せて考え込んでいる柳に、ゆめみはうつむいた。謝ったのに許してもらえなかったからだ。

「蓮二だって、白百合先輩と俳句の会行くの黙ってたじゃん」

徳川のことを考えていた柳は、ゆめみの言葉に現実に引き戻される。
ゆめみを見ると、頬を膨らませていた。

「嫌だったのか?」

ゆめみは直接嫌だったとは言わなかったが、視線を逸らして、トンと柳の肩に頭をよせて。「来月は私が一緒に行くからね」と言った。

もやもやが一気に吹き飛んだ。
嫉妬してくれたことが嬉しかった。

「約束だぞ」

ゆめみはすっかり機嫌を直して「教えてね蓮二先生」と笑った。

柳はゆめみの頭をゆっくりと撫でた。
徳川のぬくもりを消すように。

「ゆめみの兄は俺だろう」

ゆめみはくすくす笑って「蓮二はお兄ちゃんって感じはしないかな」と言った。

「どちらかと言えば」

その時、電車が駅に止まって、1人の人物が乗り込んで来た。

真田弦一郎だ。

「弦一郎かな」

真田の方がお兄ちゃんっぽいとゆめみは笑う。

「蓮二、ゆめみ!同じ車両だったとは奇遇だな!」

真田には先程早めに着きそうだと連絡をしてあったので、真田も早めに家を出たのだろう。

真田はゆめみと蓮二が座っている前に立った。
その首にはうさいぬのポシェットが下がっている。

「弦一郎、可愛いね!今日買ったの?」
「これは限定の商品だな、さすがは弦一郎だ、横浜まで行って買った確率100%」

ゆめみと柳が真田のニューアイテムを褒めると、得意げに「丸井と早起きして並んだのだ!」と教えてくれた。
ゆめみが「え、丸井くんもうさいぬ好きだっけ?」と言うと柳が「あいつは限定のお菓子目当てだ」と補足した。

「お前達にも買っておいたぞ!」

真田はそう言ってバックからお揃いのうさいぬポシェットを2つ出した。
ゆめみは「ありがとう弦一郎」と受け取って、先に柳にかけてあげた。「蓮二、似合うよ」
そして自分も首にかける。

「なんかお揃い感がいいね!」と大喜びのゆめみと「うむ!たまらんうさいぬだ!」とご満悦な真田に、柳もクククと楽しそうに笑った。

「弦一郎はお昼食べた?私たち食べ逃しちゃったの」
「いや、俺も連絡を受けてすぐ出たのでまだだ」
「せっかくだし、サブウェイとかテイクアウトして精市のお庭で食べるのはどうかな?ピクニックみたいで楽しいよ」

ゆめみの提案に真田は真顔で「ほう、地下鉄の駅弁か、それは未体験だな」と言った。
クエスチョンマークが浮かぶゆめみに、柳が「弦一郎、ゆめみの言うサブウェイはサンドイッチ屋チェーン店のことだ」と補足する。

駅に到着したので、3人は降りた。
サブウェイは無かったが、カレー屋さんがテイクアウトをしていたので、4人分テイクアウトをして、歩き出す。



他愛の無い話をしながら歩いていたが、ふと幸村の家が見えてきたところで、真田は足を止めた。

ゆめみと柳が不思議そうに振り返る。

「弦一郎?」

ゆめみが顔を覗き込むと、真田は口をへの字にして、涙を堪えていた。
気を許した親友の前だから、本音がこぼれ落ちる。

「・・・怖くてな」

ゆめみはそっと真田の背中を優しく撫でた。
柳も反対側から真田の肩にそっと手を置く。

「私も蓮二も同じ気持ちだよ」
「無論、心は一つだ」

正直、精市に会うのは怖かった。
会うたびに悪化していく病気だ。

誰しも思うだろう。

もし、今日は起き上がれなくなっていたらどうしよう。
今日は話せなくなっていたらどうしよう。

でも。

『1番怖いのは、精市だよね』

皆わかっていた。


「弦一郎の買ったうさいぬのポシェット、精市にもかけてあげようね
そして、一緒にお庭でカレー食べよ」

真田は顔を上げた。

「すまん!そうだな!」

そしてまた力強く歩き出す。


幸村の家に到着した。

「よく来てくれたね」

部屋に入ると幸村は車椅子に座ったまま嬉しそうに顔を上げた。
しかしすぐに「ちょっと待って、もう少しで勝てそうなんだ」とうつむいた。
手には携帯型のゲーム機が握られている。

しかしゆめみが画面を覗き込むと明らかに劣勢でゾンビのような怪物が画面いっぱいに押し寄せて、みるみるうちに負けてしまった。

「才能がないようだね」

自虐してそう言った幸村に、ゆめみは「意外ね」と笑う。

「赤也が来たのか?」
「ああ、さっきまでいたんだけど、ジャッカルと一緒に来てくれてね」

見慣れないゲーム機に、真田が聞くと、幸村は楽しそうにそう言った。

幸村の部屋をよく見ると、柳生が持ってきたであろう推理小説や、ゆめこがプレゼントしたフランスが舞台の小説(父親著)、仁王のペイント銃、丸井のお気に入りお菓子などが置いてある。

「暇する暇が無いよ」と笑う幸村。

「それより、それいいね」3人の首にかけてあるポシェットを見て幸村は言った。
ゆめみが幸村の首にもかけてあげると、「ちょっと恥ずかしいな、ありがとう真田」とはにかんだ。

柳も手作りの俳句集や授業をまとめたノート、テニス部の日誌を手渡していた。

「昨日の合同練習では高校生相手にいい試合か出来たようだね」

さっそく日誌を広げた幸村は満足げだ。
自宅療養している今でも、幸村は部長として出来ることは全てやっていた。

真田と柳はテニス部の運営について話し合った後、3人は庭へと移動した。
いつのまにか庭にはテーブルと椅子のセットが置かれており、そこでカレーを食べた。

何も特別ではない時間だった。
それなのに、どうしようもなく貴重な時間に感じた。

最初は何の問題も無かったが、途中から幸村の手が止まった。
手が震えていた。

「あー疲れちゃった、蓮二、食べさせてー」

ゆめみは手をだらーんとして、柳に向けて口を開ける。
「仕方のないやつだな」と言いながらもゆめみに食べさせてあげる柳。

何口か食べたところでゆめみは「元気になったよ」と笑った。
そして幸村に向いて「今度は私が精市に食べさせてあげる」と言った。
幸村は穏やかに笑って「少し期待していたよ」と言った。

それがゆめみの気遣いであると、皆気付いていた。

それでも4人はふざけたフリをして食べさせあって、みんなでカレーを完食した。

楽しい時間を過ごした。

それでも帰り道では3人とも少しだけ泣いた。

銀杏並木道が綺麗な秋の日だった。





(220606/小牧)→133

あと何回こんな時間を過ごせるのだろう




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