135
(精市帰っておいで/立海all)

幸村ははっと目を覚ました。
ここが自室の天井であることを確認して、
そしてまた戻って来れたことに感謝した。

12月入ってすぐの月曜日。
12月に入っても、幸村は自室のベッドの上でほとんどの時間をすごしていた。
体育祭からちょうど1ヶ月。
ゆめみが家に初めて来てくれた日からは3週間が過ぎていた。

起きてすぐ、毎朝の日課である、身体の状態を確認する。

足、動かない、
腰、動かない、
指、かろうじて動く、

幸村は介護ベッドのスイッチを押して、上体を起こした。

腕、かろうじて動く、
肩、動く、
首、動く、
顔、動く、

それは昨日と同じ状態であった。
幸村は安堵のため息を吐いた。

「まだゆめみと話すことができるね」

幸村は時計を見た。
長い針は6を少し過ぎたところ、短い針は10と11の真ん中に限りなく近い場所を示している。
10時32分

もう10時半か。

主治医からは規則正しい生活をするように、と言われていたが、それは難しかった。

進行性の病気特有の、朝を迎える恐怖が幸村を苦しめた。
そのため夜なかなか寝付くことが出来なかったのだ。
明日起きたら目を開けることができなくなっていたらどうしよう、そもそも、もう目覚めることが出来なかったら。

そんな風に考えてしまうのだった。

それでも先週以前に比べたら、幸村の精神状態は少し良くなっていた。
これが病気であることが、正式に診断されたからであった。何が起こっているのか、わからない状態が1番辛かった。

幸村はまた時計を見た。
時刻は10時33分。
先ほどからほとんど変わらない。

さっきはもう10時半だと思ったのに、今度はまだ10時半か、と思った。

2限目が終わって、20分休みの最中だ。
ゆめみは何をしているだろう。
美化委員の仕事か、図書館か、教室の移動か、

早く16時半になればいいのに、と思っている自分に気がつく。
毎日16時半頃、ゆめみは幸村の家を訪れていた。
花束や、授業のノート、ルノワールの画集などを携えて。

最初は隠していたクセに、こんな醜態を好きな子に晒すことは耐えられない、と思っていたクセに。

完全にゆめみに依存してしまっている自分が可笑しかった。

壁際のキャビネットの上には、花瓶が5つも置いてあって、左から新しい順に毎日ゆめみが持ってきた花がさしてあった。
自分の家の庭から持ってきたり、屋上庭園の泰永さんから分けてもらったり、母親の許可を得て幸村の庭からもってきたりと様々であったが、ゆめみがコーディネートした花々は幸村の心を癒やしてくれた。

そして、目の前の壁に目を移すと、壁に紅葉のタペストリーが飾ってあった。

これは8日前にゆめみが持ってきたもので、昨年一緒に行った鎌倉の紅葉だという。
家の中にいても、秋を感じられて嬉しいと思った。

この部屋にはゆめみのぬくもりがたくさん残っているように感じた。

花を見れば「これは屋上庭園のコスモスで、今年はピンクの色が強く出たと泰永さんが喜んでいたわ」と微笑んで水をかえるゆめみを思い出す。

ベッドの横にまとめられたプリント類を見れば、「先生が大切と言ったところは付箋を貼っておいたから、確認してね」と言われたことを思い出す。

目の前の秋のタペストリーを見れば「精市と蓮二との思い出のおかげで紅葉がとても好き」と笑っていたゆめみを思い出す。

あぁ、ゆめみが好きだ。

その気持ちは、この生活が1日1日と積み重なるごとに大きく強くなっていった。


優しいキミを捕まえて、この気持ちを伝えたい、
大好きだよ、と伝えて、恋人になれたら。

そう願うと同じくらいの気持ちで、

やはり病気の俺ではキミと釣り合わない、
この定めを背負わせてしまうのは残酷だ。
と分かっていた。

その前にゆめみが自分を恋人として受け入れてくれる可能性の問題もある。
手塚や柳と言ったライバルの存在も幸村を悩ませていた。

幸村は起こした体をベッドに沈めた。

考えすぎてどこか遠くに行きたいな、なんて考えた罰だろうか。

また視界がぼやける。
空間が、遠くなる。
感覚が、鈍くなる。
まるで水中にいるかのように。

また、だ。
この感覚が・・・

幸村は母親につながるコールボタンに手をかけたが、押すことは出来なかった。
ボタンはベッドから落ちて大きな音が出た。

その音は幸村の耳には届かない。

光がぼやける。
次は戻ってこれるだろうか。

「ゆめみ・・・」




今日の3限目はフランス語の選択授業だった。立海大付属では2年生から外国語の選択科目の授業が始まった。
英語の授業に加えて、選択すればフランス語かドイツ語を選ぶことが出来るのだ。

ゆめみと柳はその前の20分休憩で図書館に訪れており、そのままフランス語の授業が行われる海友会館へと足を進めた。

「新刊リクエストしたら、すぐ入れてくれたのよ、さっすが立海!」

ゆめみが手に持つのは、大好きな外国作家著作のファンタジーだ。

対する柳の手に握られているのは、最近ドラマ化された恋とサスペンスがテーマの大衆文学で、ゆめみは不思議そうな顔をする。

「蓮二にしては珍しいね、純文学じゃなくていいの?」
「あぁ、ドロドロの愛憎劇を読みたい気分でな」

ゆめみはファンタジーの他に新しい印象派の著書も手に持っていた。
ゆめみがその本を持っていることで、今日は幸村とこの本について話すのだろうな、と柳は沈んだ気分になったのだった。
そんなことを考えていたら選んでしまった一冊であった。

そんなことを知る由もないゆめみは、嬉しそうに「新しいジャンルの本への挑戦って知らない国に旅するみたい!世界が広がってドキドキするよね!」と笑った。

純粋すぎるゆめみに、「そうだな」と苦笑いをする柳。とはいえ、その表情はほとんど変わらないのだが。

幸村の病名が判明し、治療の可能性が出てきたことで、ゆめみは少しずつ元気を取り戻していた。

「はぁ、寒いね」

図書館の外に出ると、ゆめみははぁと手に息を吹きかける。12月に入り、気温がぐっと下がった。
移動教室の時もマフラーが手放せない。
柳はそっとゆめみのマフラーを巻き直した。

「ありがとう、蓮二」

海友会館に入って、少し広めの特別教室へと足を踏み入れると、後方にいたイケメンが手をあげて合図をした。

「柳、ゆめださん、こっちこっち!」

赤い髪に、緑のチューインガムが似合う、丸井だ。彼が最初に来ているのは珍しい。

「丸井くん珍しいね、購買空いてたの?」
「本日改装により購買は午後からの開店だったはずだ、丸井が間違えて行ってしまった確率100%」

ゆめみと柳のツッコミに丸井はパチン、とチューインガムを弾けさせた。

「さっすがうちの参謀、って知ってたなら朝練の時に教えてくれよな、せっかく赤也誘って行ったのに無駄足だっただろぃ」

購買では菓子類は1人につき2個までと個数制限されているので、丸井はいつも赤也を連れて行っている。そもそも個数制限が出来たのは、丸井が買い占めてたせいなのだが。

「すまない、次は忠告することにしよう」と言いながら、ゆめみが足を止めていることに気付いた柳。

ゆめみのテンションが下がった理由を考えて、ふと丸井が4人分の席を確保していたことに気が付いた。
2年生からのフランス語の選択授業は、テニス部からは他に幸村が選んでおり、いつも4人で受けていたのだ。
久しぶりに早く来た丸井は、幸村がいないことを忘れて席取りをしてしまったのだろう。

ゆめみの憂鬱に丸井も気付いて、素早く席取りのために置いてあったお菓子類を回収した。

「ま、いいから座れよ、菓子食うか?」

丸井の優しい気遣いに、ゆめみも何も無かったふりをして、丸井の隣に座った柳の隣に座った。

柳が丸井から回ってきた立海せんべいをゆめみにも渡す。先週購買で買ったものらしい。

丸井にお礼を言ってありがたく頂くことにした。立海では休憩時間の間食は特に制限されていない。
手作り感のある甘いせんべいが美味しかった。

「美味しい!」
「美味だな、好みだ」
「だろぃ?売り上げランキング10位にはいってるんだぜぃ」

ゆめみと柳が素直に褒めると、丸井は嬉しそうににかっと笑った。

そして、この毎回丸井からお菓子をもらって食べるのが恒例行事になっていたので、ゆめみはまた幸村を思い出して、少し切ない気持ちになった。

甘党のゆめみであるが、立海の購買はいつも混んでおり嫌煙していた。
丸井のプレゼンするお菓子の話は興味深く、幸村と柳と身を乗り出していろいろ見せてもらっていたな、と思い出す。

また涙腺が刺激されて、ゆめみは教科書とノートを開いて予習するフリをした。

最近何を見ても、精市を思い出す。
精市が元気でいた時より、精市のことを考えている気がした。

「Bonjour à tous、楽しい時間の始まりですよー」

ガラッとドアが開いて、レアル先生がゆったりと入って来た。優しくて綺麗だと評判のフランス人の先生だ。
担任の先生であり、美化委員の担当でもあるためゆめみとは接点が多い。
女子生徒と目が合うと軽くウインクする。
行動の端々にセクシーさが滲み出ていた。

フランス語の授業が始まった。
今日は新しい詩に入った。

しかし、数分も経たないうちに、前方の教室のドアが開いて、学校職員が入ってきた。
レアル先生が近づくと、小さな声で何かを伝える。レアル先生の表情がガラリと変わった。

ゆめみは嫌な予感がした。

その嫌な予感は当たったようで、レアル先生がゆめみ達を見て言った。

「ゆめださん、柳くん、丸井くん、こちらへ」

ゆめみが慌ててノートを持って立ち上がると、先生は後から届けておくので、そのまま行きなさい、と指示した。

ゆめみ達は不安な表情で、マフラーを持って教室の外に出る。
すると、隣のドイツ語の授業をしていた教室から、ゆめこ、仁王、柳生の3人が、同じく不安な表情で出てきた。

ゆめみとゆめこはお互いを見つけると、駆け寄ってぎゅっと手を繋いだ。

外で待機していた学校職員は、6人に告げる。

「幸村精市くんが倒れたと連絡がありました」

6人はほぼ駆け足で、校門前まで歩いた。
校門前には、立海大学と書かれたリムジンバスが停められており、中には真田、ジャッカル、赤也の3人がすでに座っていた。
バタバタと乗り込むと、バスはすぐに出発する。

一緒に同乗してくれた学校職員が、詳しい説明をしてくれた。幸村の様子を見に行った母親が意識のない状態の幸村を見つけたこと、救急車を呼ぶのとほぼ同時に幸村の母親から学校に連絡があり、この9名に伝えてほしいと言われたこと。
それですぐに病院に向けてバスを出してくれたらしい。
素早い学校側の対応、さすがは立海である。

ゆめみは心臓をギュッと抑えた。
バクバクして、苦しいくらいだ。
隣に座ってくれたゆめこが手をずっと握ってくれていた。


金井総合病院に到着して、バスが止まると同時に、全員飛び出した。
早足で病院の中へと進み、病院の総合受付で幸村の名前を出すと、集中治療室前の廊下で待つように、と案内される。
どうやらまだ幸村を乗せた救急車は病院に到着していないようだった。

全員何も出来ない時間が痛いくらいに長く感じていた。


「幸村部長、何の病気なんスか?」

ここまで誰も言葉を発しなかったが、痺れを切らした赤也がそう聞いた。
皆は顔を見合わせる。
幸村の病気が免疫系だという話は、直接話を聞いた真田と柳が伝えて2年生メンバーは全員知っていた。しかし、赤也にはまだ説明していなかったのだ。

「教えてくださいよー、柳生先輩!」

全員顔を見合わせただけで説明が無かったので、赤也は1番医学に詳しそうな柳生に詰め寄った。

柳生は「ギラン・バレー症候群に」と説明し始めた。

「ギラン・バレー症候群・・・?」

すぐに赤也が繰り返し声を重ねてくる。
柳生は咳払いを一つして、説明を再開した。

「それに酷似した免疫系の原因不明の病気らしいですね

手足がまず動かなくなり、徐々に体の自由が奪われます、酷い場合は呼吸筋まで麻痺、
呼吸、会話、食事もままなりません、発症から2週間くらいがピークで・・・」

あまりに酷い症状に、ジャッカルも思わず「治るのか・・・」と言葉を挟んだ。
柳生は全員の視線を感じた。

詳しく勉強していた柳とゆめみ以外のメンバーは、免疫系の病気とは聞いていたものの、それが何なのかいまいち分かっていなかったのだ。

柳生は少し言葉を選ぶような素振りをしたが、答えた。

「早くても1ヶ月、遅ければ1年以上経っても・・・」

その言葉に、全員の脳内でカレンダーがめくられる。
まだ12月、しかしもう12月だ。
神奈川県大会が始まるまであと5ヶ月しかない。

誰も具体的に考え無かったことだが、ここで初めて、全員が理解した。

幸村抜きでの公式戦開幕、3連覇への挑戦が現実味を帯びている、ということを。

立海3連覇。

普通に考えれば無謀な夢である、
しかし、ここにいる立海メンバーはそうは考えていなかった。

当然だ、ぐらいに考えていた。
昨年の圧倒的な強さを目の当たりにしたのだから。そこで活躍したメンバーの多くが今年もレギュラーとして参戦するのだから。
自分達の他を寄せ付けない圧倒的な練習時間と努力は誇りだった。

しかし、無意識のうちに皆神の子幸村精市という男に3連覇の根拠のない自信を重ねていたことに気付く。
うちには幸村がいる、2連覇に導いた立海大付属テニス部部長で、中学テニス界最強の男が。だから、3連覇間違いない、と。

だからこそ、幸村が間に合わないかも知れないと知って、皆動揺したのだった。

ただ1人を除いて。

ガラガラ、とストレッチャーを押す音が聞こえて、全員後ろを振り向いた。

救急車で運ばれて来た幸村が、ストレッチャーに乗っていた。意識は無く、顔色は白かった。それは中学生の彼らにはショックな光景だった。
皆、言葉を失った。

ただ1人を除いて。

それは、真田弦一郎、その男だった。


「幸村ぁーっ!

俺達は無敗でお前の帰りを待つ!!」


空間に真田の声が響き渡った。

真田は、すでに覚悟を決めていたのだった。
真田の覚悟が、残りの8人に伝染した。


『無敗』の掟を守る。
それが我ら立海大付属だと。


幸村が集中治療室に運ばれて、その扉が閉まった後も、9人はその扉を見つめ続けていた。

少し遅れて、幸村の母親の百合子が幸村が来た方から現れる。救急車に同乗していたのだろう。
最初ゆめみを見て、「来てくれたのね、ありがとう」と軽く抱きしめた。
そのあと、真田を見て、おもむろにハンカチに伏せて泣き始めた。百合子は動揺しきっていた。

他にも集中治療室に運ばれる患者がいたりと、9人がここにいるのは難しくなって来たので、百合子を慰める真田を残して、8人は病院内にあるレストランへと移動した。
まだ11時を過ぎた時刻であり、レストランは空いていた。
何かを頼む雰囲気でも無かったため、8人はセルフの水だけを取って、無言で席についた。

沈黙が続く。
1人1人程度の違いはあれど、ショックを受けていた。

最初に泣いたのは、ゆめみだった。
さっきまでは驚きと緊張で泣けないでいたのだが、座ったことで気が緩んだのだろう。
柳がそっと無くゆめみを隠すように、頭を自分側に寄せた。
次に泣いたのは、ゆめみの前に座っていたゆめこだった。ゆめみの涙を見て、我慢できなくなったのだろう。
同じく隣に座っていた仁王が、慰めるように軽く頭に手を置いた。

次に泣いたのは誰だかもう分からない。

普段はカッコつけている彼らも、まだたったの13歳14歳の中学1年生、2年生なのだ。

友人に訪れた残酷過ぎる現実に、涙を堪えられなかった。

立海テニス部に入部してからのこの2年間、600日以上の日々がすぎて、そのほとんどの日を幸村と皆で一緒にコートの中で過ごしてきた。


「柳、幸村くん、言ってたって言ってたよな、立海3連覇を決して諦めない、と」

震える声で最初に言葉を発したのは丸井だった。
皆涙を拭って丸井を見た。
その瞳は真剣そのものだった。

体育祭で言った言葉である。
柳は頷いた。

「ああ、間違いなく言っていた、立海3連覇を決して諦めない、と」

丸井は立ち上がった。

「うっし!真田じゃねーけど、俺も誓うぜぃ!幸村くんが戻る日まで、負けねぇ」

テーブルの真ん中に右手を出した。
そのポーズに空気を読んだ柳生も立ち上がる。

「私も誓いましょう、公式戦、練習試合、全てに置いて勝ち続けると」

柳とジャッカルと赤也も続いた。

「精市に約束するとしよう、立海大付属の常勝を守り続けると」
「あぁ、俺も勝ちにこだわるぜ」
「当然、1年生エースの俺は負けないッス」

全員が仁王を見た。
「プリッ」と言って仁王も手を伸ばした。

丸井、柳生、柳、ジャッカル、仁王、赤也の6人がゆめみとゆめこを見る。
2人は不思議そうにしていたが、仁王がゆめこの手を掴んで、6人の手に合わせる。

最後にゆめみだけが残った。
全員ゆめみを見た。

「え、私もいいの?」

全員頷いた。

柳が「もうお前たちは仲間だ」と言った。
ゆめみが恐る恐る手を伸ばすと、円陣を組むような形になっていた。

「あと1人だな」

丸井がそういうと、ちょうど真田がやってきた。
イマイチ状況の読めない真田は不可解な表情をしたが、柳が「無敗の掟への誓いだ」と言うと、真田も手を上から乗せた。

「幸村の容態が安定したと聞いた!意識はまだ戻ってないが、命に別状は無いそうだ!」

真田のもたらした朗報に、メンバーの顔に生気が戻る。
ひとまず良かった。

「だが、これからの幸村の道は険しいだろう!テニスが出来ないという苦しみは想像を絶する!」

真田の声は震えていた。

「俺たちは無敗の王者だ!王者立海大付属だ!幸村とここまで押し上げてきた、俺たちの誇りだ!

幸村と皆で目指した立海3連覇を果たすため、幸村が戻るまで無敗で突き進む!」

真田の声は震えていたが、力強く響いた。
組んだ円陣の手をみんなで下に押した。

「イエッサー!!」

ゆめみとゆめこからも同じ言葉が出た。
全員の心は1つになった。



その後、幸村の容態が安定したことを受けた皆はまた同じバスに乗って学校に戻って行った。

ゆめみだけは1人残ることにした。
「精市が目覚めるまでそばにいたいの」と言ったゆめみに、メンバーは「よろしくな」と声をかけた。

柳は気がかりだったようだが、ゆめみに「私の鞄、家まで持って帰ってくれる?」と頼まれたので、後ろ髪引かれながらも戻ることにした。

ゆめみはみんなが去った後、1人で椅子に座った。

まだ手が震えていた。
誰にも言えなかったが、本当は幸村が死んでしまったらどうしようとずっと思っていたのだった。

「良かった・・・」

ゆめみは震える手をぎゅっと掴んだ。

幸村を見守ると言って残ったのに、ゆめみはしばらく席に座ってぼーっとしていた。


「ゆめみ、ここにいたのね」

ぱっと顔を上げると、そこにいたのは、ゆめみの母親だった。
白衣を着て、ゆめみをだいぶ探し回っていたようで、息が切れていた。

ゆめみが立ち上がると、母親はぎゅっとゆめみを抱きしめた。

「ごめんね、ごめん、ママ何も知らなくて、幸村くんは、あの幸村くんだったのね」

ゆめみの母親は、実はこの金井総合病院で働く、内科の医師なのだ。

最初に運ばれた病院もここで、その後の幸村の家への往診もここの医師が行っていた。
そのためゆめみの母親は担当では無かったが、幸村のことを知っていた。
だが、その患者がまさか自分の娘の親友だったことは知らなかったのだ。

先ほど院内で百合子と会って、初めて幸村のことを知り、全てのつじつまが合った。
最近元気が無かったり、医学書を読み出したりと娘の様子がおかしいとは思っていたのだ。

ゆめみの母親と百合子は、昨年のクリスマスにゆめみが幸村の家を訪れて、ゆめみの母親が百合子にお礼を伝えるやりとりの中で知り合っていた。

「言ってくれれば良かったのに」

母親の言葉に、ゆめみはまた涙が出てきた。

「言えなくて・・・言えないよ、悲しくて、悲しすぎて言えないよ!

幸村くんが、死んじゃうかもしれない、なんて、そんなこと言えるわけないでしょ!」

ゆめみはわーんと泣いた。
母親にしか見せられない、子供の姿だった。

母親は驚いて、ゆめみと同じ目線に立った。

「ゆめみ、大丈夫よ、命に別状は無い、ここのドクターが必ず幸村くんを守るから」

母親の言葉を聞いて、やっと安心することが出来た。この1ヶ月のモヤモヤが消えて無くなったのを感じた。

ずっと怖かったのだ、と気が付いた。

「さぁ、泣き止んで、幸村くんの前でもそんなに泣くつもり?」

母親はゆめみの涙をそっとハンカチで拭った。


病棟に入ると、3人のナース達がゆめみの母親を探していたようで、駆け寄ってきた。
母親は仕事を抜け出してきたようだった。
忙しそうな母親にゆめみは「あとは1人で大丈夫よ、ありがとう」と伝え、母親は申し訳無さそうに仕事に戻っていった。

母親に教えてもらった通りに、ゆめみは病院の長い廊下を歩いていった。

無機質な空間、見慣れない景色。

突き当たりの角部屋の前まで行くと、教えてもらった部屋番号が見えた。
ドアを開けてもらい、恐る恐る中に入る。
すぐに幸村の妹の菜苗がゆめみに抱きついてくるのが見えた。

「ゆめみお姉ちゃん」

菜苗ちゃんは目を真っ赤にして泣いていた。
ゆめみがそっと頭を撫でると、さらにぎゅっとゆめみを抱きしめる。

「菜苗ちゃん」

可愛い菜苗ちゃんにこんな顔させて、精市は罪だなぁと思った。
部屋の奥には百合子がいた。
百合子はゆめみを見ると、わずかに微笑んだ。

「菜苗、ゆめみちゃんを精市に返してあげて」

菜苗はそっとゆめみを離す。ゆめみは菜苗の頭を撫でて、部屋の奥まで歩いた。

いつのまにか夕暮れになっていた。
ベッドに寝ている幸村に、オレンジ色の光が差す。

本当にただ寝ているだけのように見えた。
綺麗な顔をしているな、と思った。

「もう数値は安定していると先生は言うのよ、だからいつ起きてもおかしくないのにって」

幸村の母親は和やかに話し出したが、途中で言葉を詰まらせて、それ以上言わなかった。
またハンカチで口を覆っている。
落ち着いてからまた話し出した。

「ゆめみちゃん、ごめんなさい、少し精市を見ていてくれるかしら?
主人が病院に着いたみたいで迎えに行きたいのだけど」

ゆめみは「わかりました、ここで待たせてもらいますね」と言った。
さっきたくさん泣いたからだろうか、ゆめみは泣かずにただ幸村を見ていた。

「ありがとう、ゆめみちゃん」

幸村の母親の百合子は、奈苗の手を引いて、部屋を出て行った。

部屋には、ゆめみと幸村だけが残る。

夕日が幸村の髪に当たってキラキラしていた。

「精市、みんな心配しているよ」

その綺麗な顔はあまりにも白くて、ゆめみは不安になった。
作り物の人形のように見えた。

そっと手を伸ばした。
幸村の頬に触れる。

冷たかったらどうしようと思ったが、幸村は温かかった。
その温かさを感じていたくて、ゆめみはそのまま幸村の頬に手を置いたまま。

「精市、帰っておいで」

そう言っていた。


幸村は、その時、闇の中を彷徨っていた。

体が重い。
水の中に沈んでいくようだ、と思った。
このままいけば、全て終わりにできる、そんな予感がした。

上を見上げれば、わずかに光が差し込んでいる。
足掻いてみたら、這い上がれるかもしれない。

でも、もう、いいかな。
そんな風に思った。

やけにぼんやりとした。

十分に頑張った、とも思うし、
十分に幸せな人生だった、とも思うし、

これ以上困難に立ち向かって、何を得るのだろうとも思った。

人生を振り返って満足しようとしたが、上手く思い出せないことに気がついた。

俺は何を頑張ってた?
何に幸せを感じていた?

そもそも、俺は誰?

思い出さない。
でももういいか、とも思った。

どうせ人はいつか、一粒の泡になるのに。

『せいいち』

安らかな気持ちで目を閉じたのに、誰かの声が聞こえた。

誰だっけ?


『精市、帰っておいで』


優しい声に、唐突に全てを思い出した。
俺の名前、そして、

幸村は目を開けた。

キミの名前も。


「ゆめみ」


ゆめみの手が俺の頬に当たっていた。
柔らかな感触が心地よいと思った、

ゆめみは驚いたように手を引っ込めようとした。
その手を俺は掴んだ。

温かい

感情の渦が自分の中で巻き起こるのを感じた。鳥肌が立った。

自分は今、黄泉の扉を開けかけたのではないか、と思ったのだ。
そして、そこから救い出してくれたのは、間違いなくキミだった。

「ゆめみ」

幸村は起き上がって、もう一度名前を呼んだ。


俺はキミに、何を返せばいいんだろう。

何か返せるものがあるのだろうか。


ゆめみはもう手を引っ込めようとはしなかった。

代わりにそっと幸村を抱きしめた。

ふわっと花の香りがした。
幸村は恐る恐るゆめみを抱きしめ返した。


「ゆめみ、名前を呼んでくれないかい?」


ゆめみは少し固まった後、小さく首を振った。
その瞳には、涙が溜まっていた。
涙声になるのが恥ずかしかったのだ。
しかし幸村に「お願い」と言われたら、ゆめみは仕方なく「精市」と言った。

「精市」

もう一度繰り返す。

「うん、ゆめみ」

幸村は耳元で囁いた「ただいま」と。


ゆめみは少し幸村を離して、まっすぐに幸村を見た。

そして笑った。


「おかえりなさい、精市」


笑った拍子に流れた一筋の涙は、夕焼けの光を受けてキラリと光る。

この笑顔は、どんな名画よりも綺麗だ、と幸村は思った。






(220616/小牧)→137

キミの俺の名を呼ぶ声が聞こえたよ




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