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(そんな気力ないもん/毛利・仁王)
年が明けて3日目。
まだまだ世間は正月気分の今日、ゆめこは毛利と一緒に藤沢駅に直結しているビルの中にあるカフェに来ていた。
当初は改札前で待ち合わせの予定であったが、今日は一段と冷え込んでおり昼前と言えど気温は5℃を下回っている。そのため暖を取れるよう急遽店内で直接待ち合わせることになったのだ。
ちょうど今日の過ごし方について作戦会議もしたかったので、二人は飲み物を買って寛いでいくことにした。
お気に入りのチャイティーラテを飲んで一息つくと、ゆめこは「改めまして」と急にかしこまって毛利に向き合った。その芝居がかった態度に毛利はプッと噴き出したように笑う。
「寿三郎さん、お誕生日おめでとうございます」
まるで式典の挨拶のよう、仰々しく深々と頭を下げ祝福の言葉を述べるゆめこに、毛利はつられて「ありがとうございます」と敬語で頭を下げた。
そしてお互い顔を上げた瞬間、どちらからともなく「あはは!」と笑い出した。
「ごめんなさい、なんか変な感じになっちゃいました」
「ほんまやね」
今日は記念すべき付き合って初めての毛利の誕生日。
きちんとお祝いしたいという気持ちが先走り、ゆめこはついおかしなテンションになってしまったようだ。
とは言え昨夜0時ちょうど日付が変わったタイミングで電話でも「おめでとう」と伝えていたのでこれが二度目になる。
「ゆめこにこない祝って貰えて嬉しいわぁ」
「うふふ、今年はちゃーんとプレゼントも用意してるんですよ」
「さっきから気になっとったわ、その大きな紙袋」
ニヤリと笑うゆめこの隣の席には大きな紙袋が置いてある。待ち合わせをした時から何か持ってるな?と思っていた毛利だったが、やはり誕生日プレゼントで間違いないようだ。
クリスマスの時のマフラーとは違いバッグに入る大きさでもなく、サプライズは無理だと思っていたゆめこは潔く紙袋を毛利に差し出した。
「中見てもええのん?」
「はい、どうぞ」
受け取った紙袋は思ったより重く、毛利はわくわくしながら水色のラッピング袋に付いているリボンに手をかけた。「あ」と毛利が中身に気付いたのを確認すると、
「じゃじゃーん!寿三郎さんが欲しがってたフライパンでーす」
と、ゆめこは明るい声で言った。
そんなに手の込んだものではないが、意外にも毛利は料理をするらしく、ずっと新しいフライパンが欲しいとぼやいていたのをゆめこはしっかり聞いていたのだ。
なんでも今使っているのは使い込み過ぎてすっかりテフロン加工が剥がれ落ちてしまっているらしい。
そこでゆめこはイタリアのシェフも愛用しているという高性能フライパンを選んだ。
焦げ付きにくく、金属ヘラを使っても傷付かないという丈夫なコーティング、3層構造の素早い熱伝導率。そして深型なのに既存のフライパンより20%も軽量だと言うことで、少々値は張ったが性能は完璧だ。
「しかもこれ、着脱式取手なんです!」
もはやフライパンの営業マンのごとくつらつらと説明するゆめこに、毛利はまるでテレビショッピングを見ているような気分になった。この勢いでセールスされたらなんだか怪しい壺さえも買ってしまいそうだな、と。
しかしそれだけ一生懸命考えて自分のために選んでくれたことがうかがえて毛利は嬉しくなった。
「ありがとう。大事に使わせて貰うわ」
目を細め、フライパンをぎゅっと抱きしめる毛利。
良かった、喜んでもらえた。ゆめこも嬉しくなって「はい!」と満面の笑みで返事をした。
「今日これからどうします?」
プレゼントも渡して落ち着いたところで、ゆめこはそう切り出した。
せっかくの誕生日なので出来れば毛利の希望を叶えたい。そう思っていたゆめこは事前に毛利にどこに行きたいか聞いていたのだが「ん〜、せやなぁ。ちょっと考えよるわ」なんて言ったきり話が進むことはなく、結局当日になるまで何も決まらなかった。
毛利に負けず劣らずゆめこものんびりした性格なので、まぁ当日ノリで決めればいっか。くらいに彼女も思っていた。
話を振られた毛利は「そのことやねんけど」とゆめこの目をじっと見つめて口を開いた。
「今日家に誰もおらんへんねん」
「はい?」
「なぁ、うち来よらん?」
「・・・」
毛利の提案にゆめこはぽかんと口を開けた。
心なしかいつもより熱を帯びた視線に、ゆめこの心臓がバクバクと早鐘を打つ。
待って待って。どういうこと?
その時ゆめこの頭の中では一瞬の内に緊急会議が開かれた。
深い意味、無いよね?
いや、家に来ないか?だなんて深い意味あるでしょ。
でもでも!寿三郎さんに限って、まさかねぇ?
自分の中の色んな人格が好き勝手に意見を述べ、ゆめこはもはやパニック寸前であった。結局脳内議論は平行線のまま、ゆめこは「あ・・・えっと、」と口籠った。
そんなゆめこを見て、毛利はすぐさまへらりと頬を緩めると
「一緒に料理でもしよかや」
と貰ったばかりのフライパンを軽く掲げて見せた。
その健全な提案にゆめこの表情にも次第に安堵の色が戻る。ホッと胸を撫で下ろし「いいですねー!」と同意すると、毛利は「ほな、決まりやね」と言った。
毛利の家は藤沢駅から乗り換え無しで一本のところにある。何度か最寄り駅の話は聞いたことがあったが、ゆめこが実際に訪れるのは初めてのことだった。
やばい、緊張してきた。
そしてご家族がいない間にお邪魔するという背徳感。どうしたものか。
ゆめこはそんなことを考えながら目の前にある毛利の家を見上げていた。
どこか懐かしい雰囲気のあるこじんまりとした一軒家。
駅前は商業施設などもあり賑やかな印象を受けたが、商店街を抜けるとそこは閑静な住宅地で、その一角に毛利の家はあった。
その場に立ち尽くすゆめこに、
「ゆめこ、はよ中入りんせーね」
と毛利は声を掛けた。その手にはスーパーの袋があり、中には駅からの道すがら調達した食材が入っている。
電車の中で話し合った結果、「お昼は親子丼を作ろう」ということになったのでその材料だ。
毛利の声でハッとしたゆめこはすぐに彼のあとに続いた。
「キッチンほんとに勝手に使っちゃっていいんですか?」
「ええよ、誰もなーんも気にしよらんから」
家の中に入り準備を済ませたゆめこは、キッチンに並べられた食材の前に立っていた。
冷蔵庫の中を覗きながら能天気に返事をする彼氏に「ほんとかな?」とゆめこは不安気に呟く。
見ず知らずの他人にずけずけとキッチンに入られるなんて、お母様も良い気がしないんじゃないか。そう尋ねようとゆめこが口を開いたところで、
「卵、何個使おか?」
と尋ねられ、ゆめこはすかさず「何個使っていいんですか?」と聞き返した。スーパーで買い出しをしている時、卵はうちにいっぱいあるから買う必要が無いと言われていたのだ。
「2パック以上あるし好きなだけ使うてええよ」
それって20個以上あるってこと?
ゆめこは「え、すご」と声を漏らした。
なんでも毛利家の人間は全員料理をするらしく、みんなで揃って食べるというよりはそれぞれのタイミングで各自好きに作って食べるという習慣なので、たまに買ってきた物が被ってしまうことがあるのだとか。
今回はたまたま卵だったが、その前は玉ねぎ、さらにその前はキャベツで、冷蔵庫にキャベツが3玉になった時はさすがに毎日キャベツ三昧だったと毛利は話した。
「健康に良さそうですね」
毎食キャベツを食べる毛利を想像して、ゆめこはあははと笑いながらそう言った。
毛利に米を炊いてもらっている間、ゆめこは早速下ごしらえに取り掛かる。とは言え親子丼は料理の中でも簡単な方なので、そこまで手順も多くない。
余裕があるし、お味噌汁も作っちゃおうとゆめこは手際良く料理を進める。
そんなゆめこを見た毛利は「ゆめこの手料理楽しみやわぁ」とわくわくとした声で言った。
一緒に作ろう、とは言ったが実際はほとんどゆめこが作っている。今日は毛利の誕生日だし、主役にはゆっくり休んでいて欲しかったゆめこは「任せてください」と自信たっぷりに言った。
炊飯器の残り時間を見て「そろそろいいかな?」とゆめこは鍋に火をかける。早炊きモードにしたこともあり、もうすぐお米が炊き上がりそうだったのだ。
コンロの前に立って調味料の準備をしていると、突然ずしりと肩に重みを感じた。犯人は言わずもがな毛利である。
「寿三郎さん、動けないんですけど」
後ろから抱きついてきた彼氏に、ゆめこは前を向いたままそう言った。毛利は屈んでゆめこのつむじにキスを落とすと、「自分ちのキッチンにゆめこがおるんが、なんか不思議やね」と言った。
「新婚さんみたいでええわぁ」
「あはは。じゃあ旦那さん、もうすぐ出来るので大人しく待っててくださいね」
しみじみと喜びを噛み締める毛利はそっちのけで、ゆめこは纏わりついた腕をよいしょと剥がすとあっさりとした口調で言った。
唇を尖らせながら「はーい」と返事をする毛利に、ゆめこはふふふと思わず笑いを溢した。
そうして無事に親子丼とお味噌汁が出来上がり、二人はテレビを見ながら食べることにした。
まだお正月ということもあり、昼間にも関わらずどの局も楽しそうなバラエティ番組ばかりやっている。チャンネルを一巡し、結局売れっ子芸人達がバス旅をしながら各所で大喜利していくという番組を見ることにした。
向かい合って座り、二人で「いただきます」と手を合わせる。そんななんでもないようことも二人にとっては幸せの1ページだ。
親子丼を一口食べて、毛利は頭を抱えた。
「ゆめこの手料理美味すぎるわ、もう自分で作った親子丼はよう食われぇへん」
深刻な顔でそんなことを言う毛利に、ゆめこは「大袈裟過ぎません?」とけらけら笑った。でも喜んでもらえたなら何よりだ。一口ずつ味わって食べる毛利を見て、ゆめこもにこにこと顔を綻ばせた。
食べ終わった後は二人で後片付けをして、お茶を入れて、それからソファに座ってテレビを見ながらのんびり過ごすことにした。
デートと言えばアクティブに外出ばかりしていたのでなんだかとても新鮮だ。元々ゆめこは毛利と付き合うまではインドア派な生活をしていたので、どちらかと言うとこういう過ごし方の方が性に合っている。
何もせずどこにも行かず、のんびりまったりするのもそれはそれで贅沢な時間の使い方だな、とゆめこは思った。
ソファの上にちょこんと座り、ゆめこは毛利に寄りかかるように首を倒す。それに気付いた毛利はゆめこの肩に手を回して顔を近付けた。
テレビを見ていたのに急に視界を遮られたゆめこは、驚いて「わ」と小さく声を漏らした。
そのリアクションに、毛利は「あれ?」と首を傾げる。
「キスする雰囲気やったやん、今」
「えっ!そ、そうですか?」
全くその気が無かったゆめこは目を丸くした。
「ゆめこから甘えてきよったから嬉しなってしもた」
顔を近付けたままニコッと笑う毛利。
無意識だったゆめこは「えへへ」と曖昧に笑う。しかしそんな事では見逃してもらえる訳もなく、次の瞬間には唇が触れ合っていた。
ちゅっと音を立てて、案外早く離れた唇にゆめこは無性にホッとした。
自分達以外この家に居ない。
忘れかけていた現実が蘇り、ゆめこの心臓がドクドクと早く波打つ。
緊張を悟られないようゆめこがにこりと微笑むと、ちょうどそのタイミングでピコンとスマホが音を立てた。
普段は家にいる時以外マナーモードにしているのだが、今日は設定するのを忘れてしまっていたらしい。
電車の中で鳴らなくて良かった、なんて思いながらメッセージアプリを開くと母親からだった。
「ママだ」
「成留美さん?」
もしかして男からだったりして。毛利は一瞬そう疑ってしまったが、ゆめこの呟きを聞いて安心したように眉を開いた。
『今日帰り何時頃になる?』
という母の質問に、ゆめこは『決まってない』と打ち返す。するとすぐに『雅治くんが心配』と返ってきて、ゆめこは首を傾げた。
なんの説明も無しにそう言われても、脈絡もなく何がなんだかさっぱりだ。
少し待ってみたが追加でメッセージが来る様子もなく、ゆめこは「はぁ」とため息を吐くと
「電話してもいいですか?」
と隣にいる毛利に尋ねた。
やり取りしている相手は彼女の母親なので、毛利は「もちろんええよ」と快諾する。
部屋を出てこそこそと話すのも気が引けて、ゆめこはその場に座ったまま母親に電話をかけた。気を効かせてテレビを消してくれた毛利に、ゆめこはスマホを耳に当てたままにこりと微笑んで小さく会釈をする。すると「はいはーい」と呑気な母親の声が電話の向こうから聞こえてきて、ゆめこは「どゆこと?」と用件を促した。
「雅治くん風邪引いちゃったんだって」
「えっ、そうなの?てかそれどこ情報?」
なぜそんなことを自分の母親が知っているのか。
ゆめこの疑問に、成留美は仁王ママとのメッセージのやり取りを振り返りながらペラペラと話し出した。あまり要点を得ない内容だったが、ゆめこなりに頭の中で整理しながら「うんうん」と話を聞いた。
雅治くん以外の家族は今晩四国から帰ってくるのだが、仁王ママが「夕飯は外でみんなで食べよう」と家族ラインで雅治くんを誘ったところ「風邪を引いたから行かない」という旨の返事がきたらしい。
そしてそれを仁王ママとやり取りをしていた自分の母親が聞きつけた、と。
つまりあれか。ママが一人で騒いでるだけか。とゆめこは結論付けた。
話を聞くと別に仁王ママに様子を見てきて欲しいと頼まれた訳でもないらしい。
それなのに「心配だわ〜、夜まで一人なんて」と勝手に騒ぎ立てたあげくデート中の娘に連絡してきたのか。
ゆめこは「大丈夫じゃない?小さい子供じゃないんだし」としれっとそう言った。
「えっ・・・冷たい」
「そんなにドン引きしないでよ」
口元に手を当てショックを受ける母親の姿が目に浮かびゆめこはたまらずツッコんだ。
「昨日も一昨日も元気そうだったし、平気だよ」
一昨日は初詣、昨日はいつもの仲良しメンバー10人で真田の家で書初めをしていた。ゆめこはこの2日間の仁王の様子を振り返りながらそう言ったが、その口調はどこか自分に言い聞かせているようだった。
「でも、"行かない"って返事が来たきり既読もつかないって言ってたし・・・」
「寝てるんじゃない?」
「ご家族もいないし心配でしょ」
「心配ならママが見に行けば?」
「私が行ったら雅治くんびっくりしちゃうでしょ」
「まぁ、それは・・・するかもね」
たしかに、と納得したゆめこがそう言うと成留美はこれみよがしに「でしょう?!」と同意を求めてきた。
それで私にどうしろと?ゆめこはうんざりしてため息を吐いた。
「早く帰ってくるなら、ゆめこがお粥でも持っていってあげて。ゆめこから受け取った方が雅治くんも安心するでしょ」
「えー、でもさぁ」
「そんなに遅くなるの?」
「いやそうじゃないけど。とにかく雅治くんなら大丈夫でしょ、ほっといてあげなよ」
しつこく食い下がってくる母親に、ゆめこは諭すような口調でそう言った。
これまで黙って隣で電話が終わるのを待っていた毛利は、ゆめこの口から出た"雅治くん"というワードにピクリと眉を動かす。電話に夢中になっているゆめこは毛利のその変化に気付いていない。
「もう切るよ?じゃあね、ママ」
ゆめこは半ば無理矢理話を終わらせると、画面をタップして電話を切った。しかし電話を切った後で、ゆめこは無性に心配になった。
倒れたりしてないよね?
ほんとに大丈夫だよね?
もし自分の判断が間違っていたらどうしよう。そんな不安が脳裏を過り、ゆめこはぎゅっと自分の胸元辺りに手を置いた。
今はデート中だし、自分にはどうにもできない。
大丈夫。大丈夫。
ゆめこは心の中でそう言い聞かせると大きく息を吸い込んで気持ちを切り替えた。
「ごめんなさい、寿三郎さん」
すっかり待たせてしまった。ゆめこは眉尻を下げ困ったように笑うと、隣にいる毛利を見上げた。
しかし、「ええよ」なんて優しい返事がくることを想定していたゆめこは、毛利の顔を見てぴたりと動きを止めた。
無表情。彼はひどく冷たい顔でゆめこを見下ろしていた。
「寿三郎さん・・・?」
スッと毛利の手が頬に伸びてきて、ゆめこは本能で体を後ろへ逃す。避けられたことに気付いた毛利は「ゆめこ」と名前を呼ぶと、今度は逃げられないようゆめこの両手首を掴んだ。
いつもより強い力。ゆめこは自分の心臓がひやりとしたのを感じた。
「寿三郎さん、怒ってます?」
「どやろな」
そんな言い方をするということは十中八九怒っているだろう。そしてゆめこには彼が怒っている理由もちゃんと伝わっていた。
先程うっかり「雅治くん」と名前を出してしまったので、母親との電話の内容が仁王絡みであることを気付かせてしまったのだろう。
しかし毛利が心配するようなことは何も無いので、ゆめこはちゃんと説明して誤解を解こうと「あの」と口を開いた。
が、それと同時に唇を塞がれ、ゆめこの言葉は虚しく呑み込まれた。
「んっ・・・、ふぁ、」
唇を割って入ってきた舌が執拗にゆめこの舌を追いかける。逃げても逃げても捕まってしまい、ゆめこは酸素を求めて声を漏らした。
唇ごと食べられてしまうんじゃないかと思うほどの噛み付くようなキスに、ゆめこはたまらず体を捩るが両手を掴まれているのでうまく身動きが取れない。
ようやく唇が解放された頃にはゆめこはすっかり涙目になっていた。
「っ、はぁ・・・寿三郎さん」
肩で息をしながらゆめこは毛利を見上げる。
毛利はそんなゆめこを一瞥すると、ちゅっと音を立てて額にキスを落とし、そのままゆめこをソファに押し倒した。
ボスっと背中がソファに当たり、ゆめこは「え」と目を見開く。毛利越しに天井が見えて、ゆめこはそこで初めて自分が押し倒されたことに気が付いた。
動揺して言葉も出ないゆめこに、毛利は「なぁ」と声を掛ける。いつもより低い声。嫉妬でギラリと光る瞳にゆめこはゾクと身を固くした。
「ゆめこはいつも誰のこと考えよる?」
「え・・・?」
「気付いてへんとでも思っちょる?」
「っ、」
両手をソファに縫い付けたまま、もう一度顔を寄せる毛利にゆめこはふいと顔を逸らして避けた。またあの苦しいキスをされるかと思うと、体が勝手に動いたのだ。
しかしキスを拒否された毛利はさらに不機嫌な顔になってゆめこの首筋に顔を埋めた。そのままツーっと舌を這わせ、スクエアネックのニットから見えていた鎖骨辺りに思いきり吸い付くとゆめこは痛みから「いっ・・・」と小さく声を漏らした。
「寿三郎さんもうやめ、」
やめてください。そう抗議するつもりだったが、ニットの下からするりと入ってきた手にゆめこは驚いて毛利を見た。
直接素肌を這う指先がウエストラインからゆっくりと胸元に上がってきて、ゆめこは「だめっ」と思わず大きな声を出した。毛利がゆめこの顔をじっと見つめると、ゆめこは無言でふるふると首を横に振った。
「家に着いて来よったってことはそういうことちゃうんけ?」
「・・・違います」
「俺はそのつもりやったよ」
そう言い捨てると、毛利は止めていた手を再び動かしゆめこの下着へと手をかけた。
ゆめこはショックで何も言えなかった。
自分のことを大事に考えてくれるいつも毛利じゃない。そんな彼に今から抱かれて初めてを失うことになるのだろうか。そう考えたら言いようのない虚しさが津波のように押し寄せてきた。
別に毛利と体を重ねること自体が嫌な訳ではない。
付き合い続けていたらいつかはきっとそんな日が来ると思っていたし、その時になったらゆめこもきちんと覚悟を決めるつもりだった。でもそれはあくまで合意の上での話。
嫉妬に突き動かされゆめこの声も届かなくなってしまった毛利は、彼女にとってもはや恐怖の対象であった。
デート中に他の男の話をしてしまったことに関しては非を感じているゆめこであったが、彼が心配するようなことは何一つ無い。いつも誰のことを考えているか、彼はそう問いかけたが、その質問だって腑に落ちない。寿三郎さんに決まってるじゃないですか、ゆめこははっきりとそう伝えたかった。
言いたいことはたくさんあるのに、悲しくて怖くて胸が苦しくて、頭の中に浮かんだ言い訳も自分の気持ちもうまく言語化出来ず、ゆめこはただぼーっと天井を眺めていた。
成長期ですっかり丸みを帯びた柔らかいゆめこの胸を、毛利の大きな手が包み込む。
ニットの中で毛利の手が好き勝手に動く度に、ゆめこの心は抉られるように痛んだ。
このまま最後までしちゃうのかな。頭の片隅でそんなことを考えていたら、天井がひどくぼやけて見えた。
そんなゆめこを見て、ぴたりと毛利の手が止まる。
「ゆめこ・・・」
そう呟いた毛利の声は少しだけ震えていた。
自分の下でされるがままになっていたゆめこの瞳からは大粒の涙が溢れていた。
睫毛を光らせ、目尻から耳のほうにかけて透明の液体が彼女の白い肌を濡らしている。
泣いている。そう気付いた瞬間心臓を握り潰される程の罪悪感が押し寄せてきて、毛利はぐっと眉根を寄せた。
元カノとのキスを目撃した時も
その後許してもらった時も
彼女は泣く姿を見せなかったのに。
初めて見たゆめこの涙は毛利をひどく動揺させた。
"ごめん"その一言も出ないまま、ゆめこに覆いかぶさっていた毛利が体を起こす。
掴まれていた手が解放されると、ゆめこは無言でむくりと起き上がり、
「・・・私、帰ります」
と俯いたまま呟いた。
呆然とする毛利の下からするりと抜け出しスマホをバッグの中に入れると、ゆめこは部屋を出てパタパタと廊下を駆けていった。
ガチャンと玄関が閉まる音がして、毛利はするすると全身の力が抜けていくのを感じた。
何やってんねやろ、俺。
ゆめこがいなくなった部屋はしんと静まり返っている。
彼女を傷付けてしまった右手を眺めしばらくぼうっとしていた毛利だったが、すぐに訪れた後悔に彼は顔を歪めた。
すっと立ち上がり居間を出ると、毛利は閉め切られていた襖を開けて和室へと足を踏み入れる。
暖房が行き届いておらず畳がひんやりと冷たかったが、彼は気にせず中へと足を進め、部屋の真ん中にある木製の小さな仏壇の前でどかりと座り込んだ。
「やってもーた」
彼は泣きそうな顔のまま、写真の中で優しそうに微笑む女性に向かってそう呟いた。返事が来ることはない、分かっているが毛利は話しかけずにはいられなかったのだ。
もう二度と大切な人を失いたくない。
そんな焦りがいつも自分を不安にさせていた。
大好きな彼女とただ一緒に笑い合えていればそれで良かったはずなのに。ゆめこのことを好きになればなるほど失うのが怖くて、いつか自分の元を離れて違う誰かのところへ行ってしまうのではないか、そんな不安が付き纏うようになった。
ゆめこの口から出た"雅治くん"という名前を思い出し、毛利はぐっと拳を握る。
クリスマスの日にたまたま玄関の前で会った時は"仁王くん"とそう呼んでいたのに。
名前で呼ぶきっかけになるようなことでもあったのか。
"昨日も一昨日も元気そうだったよ"
昨日も一昨日も会ったのだろうか。
いろんな憶測が頭の中を駆け巡り、気付いた時には感情が爆発していてそれを全てゆめこにぶつけてしまった。
お願いだからいなくならないで。
誰も俺から大切な人を奪わないで。
2年半前。自分の目の前からぱっと居なくなってしまった母親とゆめこの姿が重なる。
「・・・なぁ、どないしたらええのん?」
ゆめこの泣き顔を思い出しながら、毛利は母親の遺影にそう問いかけた。
江ノ電を降りたゆめこは、表情が抜け落ちたひどく虚な顔をしていた。
扉が閉まり、乗客を乗せ、江ノ電は平常通り出発していく。一番最後に降りたゆめこだけがホームに取り残されたが、次の電車に乗るべくまたちらほら人が増えてきて、ゆめこは仕方がなくゆっくりと足を踏み出した。
毛利の家を飛び出したゆめこは、ずっと彼とのやり取りを思い出しながらここまで帰ってきていた。
毛利の言動にショックを受けた一方で、どうしてもっとちゃんとうまく弁明出来なかったんだろう。という後悔の念もあり、ゆめこの感情は複雑に絡み合っていた。
いつもの道をとぼとぼ歩き家に向かう。
玄関の鍵を開けて挨拶も無く中に入ると、ドアの音で気付いた母親が「あれ?もう帰ってきたの?」とリビングから顔を覗かせた。
その右手にはお煎餅が握られていて、呑気な母の姿にゆめこは少しだけホッとした。
「うん。ただいま」
「なんだかんだ言って、雅治くんのこと心配だったんじゃない」
「そんなんじゃないよ」
「ゆめみちゃんに悪いことしたかしら」
「今日遊んでたのゆめみじゃない」
「えっそうなの?」
「寿三郎さん」
「あらやだ」
娘といたのが恋人だと知って、「それじゃあ余計悪いことしちゃったわねぇ」と母は口元を押さえる。
ほんとだよ。そう言いたかったゆめこであったが、
「ううん、へーき」
と彼女は小さく笑って誤魔化した。
「で、なんだっけ?お粥持っていけばいいの?」
「まだ作ってないわよ」
「え、そうなの?」
「だって。まさかこんなに早く帰ってくると思わないじゃない」
「そっか。じゃあなんか違うの持ってく」
「作ってあげないの?」
「そんな気力ないもん」
にまにまと笑って言う母親にそう言い返し、ゆめこは冷蔵庫の中を覗く。スポーツドリンクかゼリーなんかが良いな、と思いながら冷蔵庫を漁っていると何やら高級そうな食べ物を見つけてゆめこはそれを手に取った。
一つ一つ白い紙に包まれていてずしりと重い。試しに一個開けてみると、果実をくり抜いた皮をそのまま器にしたオレンジのゼリーだった。
「これどうしたの?」
「種ヶ島さんから送って頂いたの」
「修二さんから?」
「んー・・・、と言うよりご実家からね。京都で有名なお店なんだって」
「へぇ」
なぜに修二さんのご実家からうちにこんな貢物が?ゆめこは不思議に思ったが、まぁいいかとスルーした。
たくさんあるし一個雅治くんに持っていこう。スポーツドリンクは見当たらないので、ゆめこは代わりにペットボトルのお茶を取り出した。
寝てるかもしれないしいきなり訪問するのも憚られて、ゆめこは「今から家行っていい?」とメッセージを送る。
家族ラインも既読にならないと言っていたし、返事が来ない可能性もあるな、なんて思っているとすぐに既読が付き「なして?」と返事が来た。
なんだ、起きてるじゃん。無事じゃん。
ゆめこはスマホをテーブルの上に置くと、代わりにゼリーとペットボトルを持って家を出た。
なして?という仁王の質問に答えることなく、ゆめこは直接仁王宅のインターホンを押す。
「はい」というテンションの低い声が聞こえたので、ゆめこはモニターに向かって手を振ると「開けて」と言った。
玄関からスウェット姿の仁王がひょこっと顔を出したのを確認して、ゆめこは門を開けて敷地内に入っていく。
そうして玄関までやってくると「はい」と言ってゼリーとお茶を渡した。事情を知らない仁王は受け取った物とゆめこの顔を交互に見て、頭上にクエスチョンマークを浮かべた。
「仁王ママ伝てに聞いたよ。風邪引いたんだって?」
その一言で全てを察した仁王は「なるほど」と得心したように頷いた。大方母親達に振り回されたのだろう、仁王は少しだけ申し訳無さそうな顔付きで、
「すまんの、微熱じゃき。気にしなさんな」
と言った。
「軽症なら良かったよ。お大事にね」
そう言ってすぐにでも去って行きそうなゆめこに、仁王は「待ちんしゃい」と声を掛ける。いつもよりやけにあっさりしているな、と仁王は思ったのだ。
いつものゆめこだったら、
「仁王くんでも風邪引くんだね」「てか昨日まで元気だったじゃーん」などと言いながらけらけら笑い飛ばしそうなものだ。
そういえば今日は毛利先輩の誕生日だったか。
昨日真田邸で書初めをした時、ゆめこはたしかそう言っていた。まだ時刻は15時を回ったところで、解散するには少々早い気もする。そう思った仁王は、「毛利先輩はどうしたんじゃ?」と問いかけた。
"毛利"というワードに、ゆめこの肩がびくりと揺れる。
「さっきまで会ってたよ」
「そうか・・・、邪魔したかの?」
「ううん、大丈夫」
仁王の問いにゆめこはにっこりと微笑んだ。
本人に自覚があるのか無いのか、その泣きそうな笑顔に仁王の心臓がどきりと跳ねた。
「じゃあ、またね」
そう言って今度こそ踵を返して去っていくゆめこ。
そんな彼女の後ろ姿を仁王は黙って見送った。
(220714/由氣)→149
シリアス・・・だと?