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(たく、人の気も知らねーで/丸井)
「やべっ」
丸井が忘れ物に気付いたのは、部活が始まって1時間ほど経った頃だった。先程のレギュラーミーティングで決まったことを部誌に書いておいて欲しい、と柳に頼まれたことで、本日の部誌係である丸井は部室に戻り鞄の中に手を突っ込んだ。しかし漁っても漁っても出てこない。しまいには鞄をひっくり返して捜索したが、やはり無い。教室に忘れてきてしまった、と気付いたところで彼は冒頭のように声を漏らした。
丸井は部室を出ると、コートまでやってきた。ミーティングを終えたレギュラー達が、他の部員に混ざりアップをしている。今日はこれから試合形式の練習なので、みなその準備をしているようだった。
「なぁ、俺の試合ってすぐ?」
丸井は柳の近くまでやって来ると、全員の試合の順番を把握しているであろう彼に問いかけた。柳はそんな丸井を見て一間開けたのち涼しげに口を開いた。
「忘れ物か?」
「部誌忘れちまった」
多くを語らずとも見抜かれてしまい、丸井は苦笑を浮かべて正直に申告した。聞き耳を立てていた真田が「たるんどる」と小言を漏らし、丸井は助けを求めるようにもう一度柳に視線を送る。柳は仕方がないな、と言いたげな顔で「お前の試合はまだ先だ。今の内に取ってくるといい」と助言した。
「さんきゅ」
軽い口調でお礼を言い、丸井はコートから続く階段を駆け上る。
「なんだブン太、忘れ物か?」
「部誌取ってくる!」
「試合遅れんなよ」
「当たり前だろい」
階段ですれ違ったダブルスパートナーであるジャッカルと言葉交わし、丸井は足早に校舎へと向かう。
ついでに机の中に入れっぱなしにしていたお菓子も持って帰るか。腹減ったし、なんて考えながら、丸井は2ーJのプレートがぶら下がった教室の扉を勢いよく開けた。その瞬間、彼は思わず足を止めた。
誰もいないと思っていた放課後の教室には、一人の少女がいた。ゆめこだ。
なぜ帰宅部の彼女がこんな時間まで?と疑問が頭を過ぎる。しかし、そんなことは今はどうでもよかった。
「ゆめこ!」と普段ならば明るく声を掛けているところだが、丸井は声を発することができなかった。
ゆめこは自席に座ったまま、自分の腕を枕にしてすやすやと眠っていた。
「風邪引くだろい」
ようやく状況を受け入れた丸井は、静かに扉を閉めてゆめこの近くまでやってきた。
ゆめこの腕の下には日誌が広げてあり、そういえば今日一日彼女はせっせと日直の仕事をしていたな、と丸井は思い出した。
二人は席は隣同士だが、日直は出席番号順で組まれているので、二人が一緒に当番をすることはない。もう一人の日直は野球部の奴だったっけ?おそらく部活が忙しいという理由で帰宅部のゆめこが日誌を押しつけられたんだろうな、と丸井は推測した。
ゆめこを起こさないように静かに足を進め、丸井は彼女のすぐ左隣にある自席の机の中を覗く。お目当ての部誌はすぐに見つかった。
丸井はそれを取り出すと、もう一度ゆめこに目を向けた。
左耳を腕に預け、右を向くように寝ている彼女の顔はこちら側からは見えない。丸井はすかさずゆめこの右側に回り込んだ。
誰もいない教室でこんな無防備に寝ているなんて。とても気持ち良さそうだが、このまま放置する訳にもいかず、丸井はゆめこを起こそうと手を伸ばした。
あと少しで肩に触れる、という距離で丸井はぴたりと手を止める。
そのまま少しの間、丸井の手は宙ぶらりんと彷徨っていたが、次の瞬間にはその人差し指でゆめこの頬っぺたをつんつんとつついていた。それでも彼女は全く起きそうにない。
教室にやって来たのがたまたま自分だったから良かったものの。第三者にこの寝顔を見られていたら、と思うと心配と嫉妬で丸井の胸はざわざわとした。
「たく、人の気も知らねーで」
頬をつついていた指を滑らせ、ツーッと唇をなぞる。
ふかふかと柔らかい。丸井はゆめこの唇の感触を堪能するように弄りながら「おーい、起きないとキスしちまうぞ」と声を掛けた。
「まじで起きねーし」
「はぁ」大袈裟に吐いたため息が、静寂に乗って消える。目の前の思い人はいまだなお、呑気に夢の中にいるようだ。
ぽってりとした桜色の唇は少しだけ開かれており、その隙間から小さな寝息が漏れている。その光景を見ながら、毛利先輩とはこれまで何回キスしたんだろう。と、丸井はぼんやりと考えた。
二週間くらい前、二人がケンカをしていると聞いた時は少しばかり期待してしまったが、その後無事に仲直りしたとゆめこの口から聞かされた時はひどく落胆した。
もう二人が別れるのを待っているだけ無駄なのだろうか。そんな気持ちになることもあったが、ゆめこの顔を見る度にときめいてしまい毎日好きという気持ちが更新されてしまうのだ。
諦めることが出来たら楽なのに。
「おーい、いい加減起きろよい」
丸井はゆめこの体をゆさゆさと揺らした。
「ん・・・あれ?」
「あ、起きた」
「ブン太くん・・・、私寝てた?」
「おう。いびきかいてた」
「うっそ!」
「嘘だろい」
丸井の冗談にバッと両手で口元を覆ったゆめこは、からかわれたことに気付くと「もー」と文句を垂れた。
丸井はそんなゆめこの頭をわしゃわしゃと撫で回すと、「てかさ、無防備過ぎ」と苦言を呈した。
「なにが?」
「こんなところで一人で寝てたら誰かにキスされてもおかしくねーだろい」
「・・・もしかしてしたの?」
「してねーよ」
疑いの眼差しを向けるゆめこに、丸井は首を横に振る。その瞬間あからさまにホッとした表情になったゆめこを見て、丸井は少し複雑な気持ちになった。
してやればよかった。そんな気持ちにすらなる。
「で、ブン太くんはどうして教室に戻ってきたの?」
「これ忘れた」
持っていた部誌をちらりと見せると、ゆめこはなるほどと納得した顔をした。
「毎日えらいねぇ」
「まぁ、好きでやってるからな。日誌終わったんなら見ていくか?これから試合形式の練習だぜ」
「あー、たしかに。見てみたいかも」
そういえば久しく見学していないな、と思ったゆめこは丸井の提案をすんなりと受け入れた。ゆめみは家族行事で既に帰宅してしまっているし、今日はこれといった予定が無い。
それに、ゆめこは小学生の頃から柳の練習に付き合っていたので、元々テニスを観ること自体は好きな方だった。自分がやりたい、とまでは思わないが、戦略通りのコースにショットが決まった時なんかは見ていてスカッとするし、十分エキサイティングだ。
そうと決まれば、とゆめこは書き終えていた日誌をパタンと閉じていそいそと身支度をし始めた。
そんな彼女を見て、「めんどくさい」と断られる可能性大だな、なんて思っていた丸井は、自分が誘っておきながら少し意外そうな顔をした。
恋人である毛利がいるならまだしも、彼はもう引退してしまっている。部活の見学に来たところで会えないのに。だとしたら、一体何が彼女を突き動かしたのだろうか、丸井は悶々と考えた。
「私職員室に寄ってから行くから、先行ってて」
「いや、通り道だし。一緒に行こうぜい」
「そう?遅れない?」
「おう、俺の試合はまだ始まらねーから」
コートは3面しかないので、各コートで一試合目が終わらない限り自分の出番は回ってこない。そのことを理解していた丸井は慌てる様子もなくそう言った。
ゆめこは立ち上がって窓からテニスコートを見下ろした。確かに3面とももう埋まっていることを確認すると「じゃあ一緒に行こ」と振り返った。
鞄に日誌を入れ、ロッカーに入れていたコートとマフラーを手に持つと、ゆめこは丸井の横に並んだ。
それから職員室の前までやってくると、丸井には外で待っていてもらい、ゆめこは日誌を提出すべく一人で中へと入っていった。1分もしない内に「おまたせ〜」とゆめこが出てきて、二人はまた隣に並んで歩き出す。
「ねね、明日さ数学の小テストあるかもよ」
「なんで?」
「先生の机、ちらっと見ちゃった」
数学の担当教諭が何やらこそこそと問題用紙を整理していたのを、ゆめこは横目で目撃したらしい。
「まじかよ」としかめっ面をする丸井に、ゆめこは「めんどいねー」と相槌を打つ。そんなたわいも無いやり取りであったが、丸井はふと気付いた。
そういえば、同じクラスでいれるのもあと2ヶ月しかないのか。そうしたら、こんな風に授業の話をしたりすることもめっきり減ってしまうんだろうな、と丸井は少しセンチメンタルな気分になった。
今思い返せば、2年に進級してすぐにゆめこにフラれ、別に恋人を作ってみたり、別れたり、またゆめこに告白してフラれたり、本当にいろんな事があった。自分の青春の1ページにはいつも隣にゆめこがいて、これからも一緒にいて欲しいと、そう願うばかりだ。
「あー、やっぱりさっきキスしとけば良かったぜい」
「なにっ?急に」
突然爆弾発言をぶっ込んでくる丸井に、ゆめこは驚いて丸井を見た。
「ブン太くんってさ、たまにスイッチ入るよね」
「ん?なんだよい、それ」
「寿三郎さんもなんだよね〜。何なの?B型男子あるある?」
彼氏である毛利も突然スイッチが入ったように肉食系男子のようになってしまう節があるので、ゆめこは彼との今までのやり取りを思い出しながら小難しい顔で首を傾げた。丸井は「いや、俺毛利先輩のことよく知らねーし」ともっともなことを言う。もっと言うと、彼が自分と同じB型男子であることすらも初耳だった。
「二人とも心臓に悪いよ」
「はは、俺も?」
「うん、ブン太くんも」
「へー」
それって少しはドキドキしてくれてるってこと?
丸井はポジティブにそう捉えて口元をニヤつかせた。
それからテニス部レギュラーの血液型の話で盛り上がりながら歩いていると、二人はあっという間にテニスコートに到着した。
「スペシャルゲスト連れてきた」
「いえーい」
丸井と同様まだ試合の順番が回ってきていないのか、コートの近くで試合を見ていた仁王、柳生、ジャッカルに二人は声をかけた。
「おや、ゆめのさんじゃないですか」
「珍しい客じゃのう」
振り返った三人は少し驚いた顔をした後、見慣れた少女の登場にすぐににこやかな顔付きになった。ゆめこがこうして練習を観に来るのは久しぶりであったが、それ以外の場所では頻繁に会っている。レギュラーメンバーとゆめこ、ゆめみの9人はもはや親友の域なのだ。
今年に入ってからだけでも、真田邸での書初め大会に始まり、都合が合えばよく学食でも集まっているし、休日にはカラオケに行ったり幸村のお見舞いに行ったりと、もう何度顔を合わせているか分からない程だ。
「なんだよ、ゆめの。練習見に来るなんてどういう風の吹き回しだ?」
「ブン太くんに誘われたらなんだか見たいような気がしてきて」
「そうでしたか。それではいつも以上に張り切らないといけませんね、仁王くん」
「プリッ」
ゆめこへの気持ちを知っている柳生は、にっこりと笑って仁王を見た。仁王は相変わらずのポーカーフェイスでその視線をさらりとかわす。
「絶対みんなうまくなってるでしょー?」
ゆめこがそう問いかけると、4人は顔を見合わせた後揃って自信満々な顔付きになった。
「当たり前だろい」
芥子色ジャージを着てラケットを持つ彼らがいつも以上に頼もしく見えた、そんな冬の日。
(220728/由氣)→157