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(花食いおばけのかい?/幸村)
「はー、気持ちがいい」
冷たい空気が肺の奥に到達する感覚、体がピリリと反応する。
幸村は病院の屋上で、大きく息を吸った。
そして全てを時間をかけて吐き出す。
2月初旬の空気は気持ちがいいというより、痛いと感じるほど冷たかったが、その痛みが生を感じさせてくれた。
澄んだ空気が気持ち良い。
時折風が吹いて、植物達の葉を揺らしているのを幸村は眺めていた。
病院の屋上庭園は学校のに比べるとその規模は4分の1以下であるが、それでも幸村の心を癒やしてくれる場所であった。
病室は無機質で、どこまでも白い。
その狭い空間に長時間いると、自分と空間の境目がわからなくなるようだと考えるようになった。
病院特有の看護婦の足音やカラカラというワゴンやストレッチャーの移動音も、ノイローゼになりそうだし、消毒液の臭いも嫌いになった。
精神状態の不安定な患者の怒鳴り声や、鳴り響くナースコールにもうんざりしていた。
12月初めに入院した幸村は、入院生活も2か月を越え、さらに完治の見込みもたっていない。
入院のストレスは日に日に蓄積され、最近では無気力になる時間も増えてきた。
入院疲れというやつだろう。
今日も気持ちが塞ぎ込むのを止められずにいたが、ゆめみが『そんな時は好きなことに没頭するのがいいよ』と言っていたのを思い出し、幸村はデッサン用の鉛筆とスケッチブックだけを持って、屋上に出てきたのだった。
天気の良い日は水彩画の下書きに最適だと、幸村はさっそく良いアングルを探して、座ってデッサンを始めた。
風景と紙との間で視線を行ったり来たりさせながら、屋外用のイーゼルが欲しいな、なんて思った。
「ママ、来れなくてごめんね」
幸村はふと聞こえた声に、持っていたデッサン用の鉛筆を止めた。
少し離れたところに、6歳くらいの男の子と、生まれて1ヶ月ほどの赤ん坊を抱っこした母親が向かい合っていた。ピンクの帽子が被せてあるので、妹だろう。
幸村はその子を知っていた。
確か隣の病室に2週間ほど前に入院してきた子だ。父親や祖母はよくお見舞いに来ているのを見かけたが、母親らしき人を見たことが無かったので不思議だなと思っていたのだが、おそらく妹を出産したばかりで来れなかったのだろうと推測する。
男の子は何も言わずに黙っていた。
しかし、その表情は僅かに微笑んでいる。
「ちぃくん、ありがとう、お兄ちゃんだもんね、平気なんだよね」
母親はその笑みに安心したようにそう言った。
『本当に平気だと思っているのだろうか』
入院のストレスが溜まっているからだろうか、そんな風に思った。
ここでの生活の寂しさは、入院している者にしか分からない。白い部屋にかかる時計は、全く進まないし、一人だけ取り残されたような孤独感は気力を奪う。
幸村自身が、小さい頃は感情を表に出すのが苦手で何も言えなかったので、余計にそう思うのかもしれない。
なぜか他人事とは思えなかったが、声をかけるのも変な話だ。
幸村はただ彼らが手を繋いで屋上庭園の出口であるエレベーターホールへと入っていこうとしているのを見ていた。
小さい子が入院することはどんなに大変だろうと想像して、心が沈んだ。
しかし、次の瞬間、幸村の心は跳ねた。
その見ていた出口から、女の子が出てきたからであった。
その立海の制服に学校指定のマフラーを上品に着こなす彼女は、幸村と目が合うと、嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってくる。
「精市、やっぱりここだと思った」
満面の笑顔が眩しくて、ついつい目を細めた。春風のようだと幸村は思う。
憂鬱を全て吹き飛ばして、愛を感じさせてくれる、俺の春の妖精のようだとも。
そんなことを口にしたら、困らせてしまうだろうから言わないでおくけど。
「ゆめみ、早かったね」
「委員会が早く終わったの」
ゆめみはそう良いながら、幸村にマフラーを巻いた。おそらく屋上にいるのだと予想して、病室から持って来てくれたのだろう。それがお揃いの立海指定のマフラーだったので、幸村は少し嬉しくなって、大人しく「ありがとう」と言った。
「どんな風に描いていたの?」
ゆめみの問いに幸村は描きかけのスケッチブックを見せると、ゆめみの瞳はスケッチブックと庭園を何度か行き来した。
何かを想像するように少し目を閉じた後、完成が楽しみと微笑んだ。
ゆめみには完成図が見えているように思えて、それを上回る作品に仕上げたいと水彩画への情熱が湧き上がるのを感じる。
幸村はこの気持ちを形にしたいと、再び鉛筆を手に取った。
「精市、今日なんで委員会が早く終わったか知りたい?」
ゆめみはしばらくデッサンを続ける幸村を興味深そうに見ていたが、嬉しいことを思い出すように言った。言いたくて仕方ないといった様子に、幸村はなんだろうと想像する。今日は屋上庭園のメンテナンスの日だったはずだ。ゆめみの可愛がっていたバラが咲いたかな。
「なんだろう、思いつかないな」
幸村がわざと大袈裟に考えるそぶりをした後にもったいつけて分からないふりをすると、ゆめみは喜んで答えを話し出す。
「1年生の皆がね、活動日以外の休み時間とかに屋上庭園のメンテナンスをしてくれていたのよ」
ゆめみは嬉しそうに話すが、その瞳にはうるうると涙が溜まっていた。
「この間、精市が入院して頑張ってることを伝えたら、皆精市が戻って来るまで屋上庭園を守ろうって思ったんだって、だから今日集まった時には、雑草も1つも無かったし、剪定も必要なくて、何もすることがなかったの」
ゆめみは両手を胸のところで組んで、軽く目を瞑る。
「私、感動したわ、春に会った時は皆ガーデニングなんて興味無さそうだったのに、精市がたくさん教えてあげたから、皆適切に管理出来る様になって、その上で自主的に動いてくれてそれがとっても嬉しかった」
幸村も温かいものが胸に広がるのを感じた。
確かに成長してくれて自分のためにと動いてくれた後輩への感謝の気持ちもあったが、それ以上に思うところがあった。
美化委員会の庭園管理班に関しては、幸村がリーダー、サブリーダーをゆめみが担っていたわけであるが、幸村はテニス部部長の仕事もあったため、実務的なことはゆめみが対応していることが多かった。
更に11月以降はゆめみがリーダーの仕事も代行していたため、ゆめみは幸村のおかげという口ぶりで話すが、幸村から見れば、ゆめみのおかげだと思った。
「嬉しい知らせをありがとう」
幸村がいろんな意味を込めてお礼を言うと、ゆめみはこれ以上にない大きな笑みを浮かべた。
その笑顔が眩しくて、幸村は思わず鉛筆を手放して手を伸ばしたが、途中で止めた。
また抱きしめそうになるのを、幸村はなんとか我慢する。
真田家での書初めの日、仁王に言われた言葉を思い出す。
『ゆめだのこと、落とそうとしてるんか?』
あれから出来るだけ気持ちを抑えるように、と思っていたのに、最近はそれもなかなか難しい。
気持ちが溢れて溢れて仕方がない。
「精市?」
不自然に腕を止めた幸村に、ゆめみは不思議そうにその瞳を覗き込んだ。
「いや、それ、ラケットかな?」
幸村は伸ばした手を指さす形に変えて、ゆめみの肩にかけてあったラケットケースを指さした。
「あ・・・そうなんだ」
ゆめみは肩からケースを下ろして、丁寧に中からラケットを取り出す。
白くて軽い、女性用のラケットだ。
たまにしか使っていないこともあり、まだ新品のように綺麗だ。
ゆめみはそのラケットを右手に持ち、同じくラケットケースに入っていたテニスボールをガットの上に乗せる。そのまま、ぽんぽんとボールをバウンドさせる。3回くらいは上手く弧を描いたが、4回目には下に落ちた。
「なかなか難しいよね」
ゆめみは幸村の反応を見るようにそう言った。幸村は一生懸命なゆめみにフフと笑う。
「貸してくれるかい?」
幸村はゆめみからラケットを借りて、同じように面にボールを乗せる。
ポンポンと規則的なバウンド音を立てながら、ボールは空と幸村の持つラケットの面を行き来した。そのボールは落ちる気配が無く、まるで磁石でもついているようだとゆめみは思った。
最初は心配そうにしていたゆめみも、そのカウントが100を超えたあたりから笑顔に変わった。
「精市、さすがね!魔法みたい!」
幸村はラケットを持つのは久しぶりだな、と思っていた。ずっと病室の片隅に置いてあったのに、昨年のクリスマスに、『テニスなんか見たくない!』と大暴れしてから、家族が気を遣って幸村のテニスバックを家に持って帰ってしまった。
久しぶりなのに、そのラケットは自分の一部のように手に馴染む。
あぁ、やっぱりテニスがしたいなぁと思った。
テニスがしたくても出来ない、だからラケットやテニスボールを見るのは辛いはずなのに、ゆめみのラケットだからだろうか、ただ純粋に嬉しいと感じた。
ラケットを持って来たのが母親や真田だったなら、俺はまた怒っていたかもしれない。
ゆめみだって、俺がテニスを避けているのを知っているはずなのに。どうしてラケットを持って来たのだろう。
そこまで考えて、幸村はボールをバウンドさせるのをやめた。宙に浮いたボールは左手でキャッチする。
すると、そのボールには、女の子の顔が描いてあった。大きなリボンや柔らかな表情がゆめみに似ている。
「・・・嫌だった?」
ゆめみはポツリとそう聞いた。
「いや、思ったより平気で驚いているよ」
幸村が微笑みながらそう言うと、ゆめみは「良かった」と言った。幸村が不可解な顔でゆめみを見つめていると、ゆめみは言いにくそうに口を開いた。
「ラケットを握る感覚を忘れてほしくないなぁって思ったの」
江ノ島で幸村から『自分がテニスはもう無理だ』と言われたという話を聞いても、ゆめみは幸村がテニスを諦める気などないことを知っていた。
それは事実で、毎日のリハビリメニューをひたすらこなしているのも、全部テニスのためだった。
ラケットを握る感覚を忘れてしまうことは、確かに大きなブランクになる。
幸村はラケットを持ってきてくれたゆめみの考えをありがたく思った。
「このボール可愛いね、ゆめみに似てる」
幸村がお礼の代わりにそういうと、ゆめみは嬉しそうにもう一つボールをだした。
そちらには男の子が描かれており、「こっちは精市だよ」と言った。
「テニスボールを使ったリハビリをいろいろ考えてみたの、一緒にゲームみたいにしてやってみようよ」
楽しそうなゆめみに、幸村はまた抱きしめたくなったが、しなかった。
「勝負になると思うかい?」
と幸村がわざと首を傾げながら言うと、ゆめみはくすくすと笑って「ハンデをくれますか?」と言った。
「フフ、どのくらい必要なのかな」と言った幸村は少しSっ気のある表情をしていて、ゆめみは思わず見惚れてしまった。
「そろそろリハビリ室の予約の時間だ、ゆめみも来るだろ?」
幸村が荷物をまとめて出口に向かって歩き出したので、ゆめみもそれに続く。
最近幸村が、以前とは少し変わってきたことに、ゆめみは気が付いていた。
ただただ優しいだけだった幸村が、最近時おり見せる優しいだけでは無い、魅力的な表情をする。
それは少し高圧的で、支配的な大人の表情だ。
そして、ゆめみはそんな顔がかっこいいとも美しいとも感じていた。
『私って、もしかしてMなのかな・・・?』
そんな不安を抱えながら、幸村がリハビリをする様子を眺めていた。
「あれ・・・?」
リハビリの時間を終えて、幸村と一緒に幸村の病室に戻ってきたゆめみは、不思議そうに窓際まで駆け寄った。
正面に見える窓は出窓になっており、そこには花瓶が5つ飾られていた。1番右が新しいもので、そこにはゆめみが庭師の泰永さんから分けてもらった立海の屋上庭園に咲いていた椿がいけてある。
小ぶりの赤い椿がたくさん咲いており、蕾もあった。しかし、ゆめみは赤い椿と一緒に1本の白い椿も持って来たのだ。
「綺麗に咲いたね」
幸村は嬉しそうにそう言った。幸村は病室に戻ることなくリハビリ室に直行したので、ゆめみの持ってきた椿を見たのは初めてであった。しかしゆめみが黙っているので、伝染するかのように、シリアスな表情になる。
「ゆめみ」
ゆめみは幸村の声にビクッと幸村を見た。おかしいな、と思いながらも、自分の勘違いかもしれない。毎日この病室で過ごす精市にこの不可解な出来事を伝えていいのだろうか。
不安気なゆめみに、幸村は優しく顔を近づけた。そして、その肩に手を置く。
「当ててあげようか」
幸村の顔が近くて、ゆめみはその綺麗な瞳に吸い込まれそうだと思っていた。
「花が無くなったんだね?」
幸村の言葉に、鳥肌が立った。それが真実だったからだ。
怯える表情に変わるゆめみに幸村は「当たりだね」と言って続ける。
「実は2日前から同じことがあってね、気のせいだと思おうとしていたのだけど、さすがに3日連続とはね」
「それってもしかして」
「ああ」
「おばけの「泥棒のしわざだろうね」
息ピッタリに見えて、発せられた言葉が違ったので、幸村とゆめみは見つめ合う。
「え、泥棒?」
「おばけかい?」
幸村は次にフフと吹き出した。
「ゆめみは本当に純粋だな」と笑われたので、ゆめみは確かに子供っぽい発想だったかもと少し赤くなる。
「でもここまでされたらどちらかハッキリさせないと気が済まないな」
幸村は赤くなるゆめみの顔を覗き込んで「当然ゆめみも協力してくれるだろ?」と言う。
その表情が悪戯っ子のそれで、ゆめみは仕方ないなと思いながらも頷いた。
翌日の土曜日に幸村に協力をすることになった。
***
野次のような声援の中、幸村はひと回り大きな男の子とテニスコート上で向き合っていた。ネットを介して、向こう側にいる相手選手は叫んでいる。
『ガキが調子に乗ってんじゃねーぞバァロー!』
その場面に、幸村は思い出していた。
この日は確かDKN神奈川Jr.大会の2回戦のことだったな、と。
10歳だった俺が12歳以下の部を飛ばして14歳以下の部に出場していることが気に入らないようで、暴言を吐かれることがあった。
『聞いてんのかバァロー!』
いつも大きい選手とテニスで対戦するのは怖かった。
恐怖で一言も発することが出来なかった。
幸村は震える手で、しかししっかりラケットを握りながら、最後の一球まで絶対諦めないとそれだけを考えていた。
『ちっ気味悪い奴だぜ』
その後、相手選手はミスをし始め、俺は勝利を手にすることができた。
それから、俺はピンチの時こそ微笑むことにした。そうして、俺は五感剥奪の武器を手に入れた。
『神の子』
誰かがそう呟いた。
幸村ははっと目を覚ました。
飛び起きた、そこはいつもと変わらない病院のベッドの上だった。どうやらうたた寝をしてしまったようだ。
またテニスの夢か、と幸村は落胆する。
例え、対戦相手の五感を奪えても、テニスコートに立てなければ俺の負けだ。
あれから俺は対戦相手の五感を奪い続けて来た。
手足の感覚が無くなっていく病気、この病気になった時から思うことがあった。
これはもしかして、罰か、罪、なのだろうか、と。
でも、俺はただ・・・
そこまで考えて、病室をノックする音が聞こえた。幸村ははっとして、時計を見た。すでに10時を過ぎていた。今日は土曜日で、ゆめみが来る日なのに。慌てて繕った声で「どうぞ」と言った。
入って来たのは、期待通りの人物だった。
「ごめんね、起こしちゃった?」
うたた寝していたことは秘密にしたかったのに、ゆめみにはお見通しのようだ。幸村が寝癖がついていたかなと手で髪を撫でると、ゆめみはにこっと笑ってそっと手を伸ばして丁寧に幸村の髪を整えた。
「声でわかっちゃった、昨日も眠れなかったの?」
「否定はしないよ」
「そっか・・・でも大丈夫!今日きっと謎が解けるからね」
ゆめみは優しく勇気づけるように、幸村の手を握った。どうやらゆめみは連日花が無くなる事件を気にして寝不足だと勘違いをしているようだ。
幸村の睡眠障害は病気に起因するものであったが、わざわざ否定はしなかった。
幸村が小さく笑って「花食いおばけのかい?」と言うと、ゆめみも片目をつむって「お花泥棒かもしれないけど」と言って微笑む。
幸村はゆめみの回答に満足して「それだけ聞くとロマンティックだね」と言った。
ゆめみはソファーに置いた花束を持ち上げて、「今日はアネモネよ、お庭に咲いていたのを見つけたの」と幸村に見せた。
愛おしそうにそっと顔を近づけて香りを楽しむゆめみが可愛い。
赤のアネモネが4本に紫のアネモネが1本。咲き誇る姿はとても綺麗だ。ゆめみは丁寧に花瓶に挿していく。
『儚い恋、恋の苦しみ』
華やかな花なのに、意外と悲しい花言葉があるアネモネ。アネモネを愛でるゆめみを見ながら幸村はその花言葉を思い出していた。
「幸村くん、リハビリの時間ですよ」
担当ナースの天野川さんが、部屋に入って来て、リハビリの時間を告げた。ゆめみと幸村は2人寄り添って、部屋を出て行った。
その表情は真剣である。
そのほんの10分後、ゆめみと幸村はまた病室にいた。
今度はベッドの上やソファーの上では無く、ベッドの下に、2人は体を丸めた状態で密着していた。
花が消える謎を解明するため、2人はリハビリ室へ向かい、予約をキャンセルして、今度はいつも通る道と別の道を通ってまた病室に戻って来たのだった。
そして、隠れて花瓶を見守っているという状況だ。正確に言えば、ベッドの下にいるため、出窓に飾ってある花瓶を直接見ることはできないが、何か異変が起これば気がつけるはずである。
ベッドの下からは、ゆめみが昨日持って来たテニスボールが窓際に落ちているのが見えるだけだった。テニスボールには幸村とゆめみに見立てた顔が書いてあり、そのボールも今の幸村とゆめみの状況と同じように寄り添っている。
「よく考えたらおばけには足が無いから、気が付けないかも」
すぐ隣で小さい声でそう言うゆめみに、幸村は真剣におばけの可能性があると考えているんだなと可愛く思う。
「もしこのまま何も起きずにリハビリ時間が過ぎて、花が無くなっていたら、次は天井に張り付くしかないな」
幸村は冗談のつもりだったが、ゆめみは「忍者みたいね」とワクワクした声で言った。一体どんな顔をしているのか気になった幸村は、隣を振り向いてしまう。
想像以上にすぐ隣にゆめみがいたために、幸村は驚いて「わ」と声が出てしまった。あと数センチでキス出来てしまいそうな距離だ。
幸村が急に声をあげたので、ゆめみはびっくりしてさらに幸村に体を寄せる。
本当にキスしてしまいそうだ。幸村はやっとのことで最後の1センチを死守したが、赤面するのは止められなかった。
「ゆめみ、もう少し離れてくれないかい?」
よく考えると、こんな狭いところで男女が2人きりで密着しているだなんて、不健全すぎる。
幸村はなんとか平常心を保ちつつ、ゆめみに距離の確保をお願いする。しかしゆめみは小さく首を振った。
「やだ」
なぜだろう。幸村は困惑した。
よく見るとゆめみは涙目になっている。
「だって怖いもん」
可愛いすぎか。
幸村は深呼吸して、怯えるゆめみの手を握った。
「大丈夫、俺がゆめみを守るよ」
そう言った幸村の瞳は真っ直ぐだった。
整った幸村の顔がいつも以上にかっこよく見えた。
ゆめみはパチパチと瞬きした後、白い布が朱に染まるように、ゆめみの頬も赤くなる。
やっとの思いで、ゆめみは小さな声で「ありがとう」と言った。
幸村はその可愛い反応に、ゆめみから目を離せない。
お互いにドキドキしたまま、見つめあっていた。
どのくらい時が過ぎたのだろう。
見つめあっていた2人だったが、ガラッとドアが開いた音で、我に帰る。誰かが病室の中に入って来た。
足音が特徴的で、ドタバタと歩く音はまるで小さな子供のようだ。
決して音を出さないように、そのままの体勢のまま、目線だけを出窓下の床へと移した。
侵入者の足が見える。
その足は、想像通り大人のモノでは無かった。白い内ばきを履いた、子供の足だ。
間違えて迷い込んだのだろうか。
子供は内ばきのまま、ソファーの上に登った。足元より上は見えないが、おそらくソファーの上に立って花を見ているのだろう。
まさか、とゆめみと幸村は顔を見合わせた。
この後子供が出て行った後にここから出て、花の数を数えれば真実がわかる。
2人は子供が出て行くのをじっと待っていた。
子供は、ソファーから降りた。そのまま出口へ向かおうとして、足を止めた。どうやら足元に落ちているテニスボールに興味があるようで、テニスボールを掴もうとする手が見えた。
2つあるうちの、リボンのついたゆめみに似たテニスボールに手をかけた。
それはもう反射的なものだった。
そのボールに触られたくない、そう思った幸村が、その小さな手よりも先にボールを掴んでいた。
「わぁ」
急にベッドの下から伸びて来た手に驚いた子供は体勢を崩して、後ろに倒れた。
尻もちを着いた瞬間に、ゆめみと幸村と視線が同じになる。
「わああああ」
誰もいないと思っていた部屋のベッドの下に、2人も隠れていたのだ。
その驚きは相当なものだろう。トラウマになってしまうかも、と思ったゆめみは心から申し訳なく思った。
しかしその手には、しっかりと紫のアネモネが握られており、花泥棒はこの子で間違い無さそうだ。現行犯逮捕する形となったこの状況で、そのまま帰すわけにも行かない。
とりあえず、ベッドの下から出た後、驚いて腰を抜かしたままの子供を起こして、ソファーに座らせた。
その子は逃げる事はせず、大人しく座ったが、ぎゅっと花を握りしめて、俯いたままだった。
その前にゆめみと幸村は立っていた。
その子供は、6歳くらいの男の子だ。確か未就学児の場合は付き添いが必要なはずなので、小学校1年生だろう。
幸村はその子に見覚えがあった。
隣の病室に2週間ほど前に入院してきた昨日屋上で見かけた子だ。
確か母親に『ちぃくん』と呼ばれていた。
「どうしてこんなことをしたんだい?」
幸村は努めて優しく聞こえるように、ゆっくりとそう言った。しかしその子は俯いたまま、何も言わなかった。
少し待っていた幸村であったが、反応が無いため、ため息を吐く。そして、質問を変えてみた。
「ぼうや名前は?」
男の子はようやく顔を上げて、幸村を見た。口角は少しだけ上がっており、微笑んでいるようにも見えた。
見る人が見たら、舐めているように見えるかもしれない。しかし、僅かに震えていることから幸村は分かっていた。
きっと怖くて何も言えないでいるのだろうと。
自分も小さい頃は怖くて何も言えなかったのを思い出す。昨日も思ったが、その態度にどうしても自分を重ねてしまう。
『ちっ気味悪い奴だぜ』
俺はテニスの試合で何も言えずにそう言われていた。
幸村は過去のトラウマを思い出して、それ以上追求することが出来なかった。助けを求めるようにゆめみを見る。
ゆめみは幸村の視線を受け入れて、頷いた。
そして、男の子と同じ視線になるように、しゃがんだ。
「びっくりさせてちゃってごめんね、少し怖かったよね」
男の子の表情が僅かに緩む。
その優しくて温かい言葉は、過去の自分が言って欲しかったものだと幸村は思った。
なんだか泣きそうだ。
ゆめみも頻繁にお見舞いに来ているため、その子が隣の病室の子であること、母親がなかなかお見舞いに来ることが出来ずに寂しい想いをしていることを知っていた。
幸村の目的がこの子を責めることでは無く、この行動を止めることだとも。
「お花、綺麗でしょう、アネモネという花なのよ」
ゆめみは考えながら言葉を選んで、語りかける。
「綺麗だから、誰かにあげたくなったのかな?」
男の子は僅かに頷いた。ゆめみはにっこりと微笑んだ。
「お花には1つ1つ意味があるの、花言葉って言うんだけど、紫色のアネモネの花言葉はね」
ゆめみの言葉を男の子はじっと見つめて聞いていた。
「あなたを信じて待つ」
その言葉を聞いた瞬間、男の子はパッと立ち上がって、その花を持ったまま走り出した。
そして、あっという間に部屋を出て行った。
部屋に残されたゆめみと幸村は驚いた顔のまま、お互いに見つめあったが、すぐにどちらとも無く笑い出した。
ゆめみは「良かった」と言って、誰もいなくなったソファーへと座り込む。
「おばけじゃなくて?」幸村はゆめみの言葉の続きを言いながら、ゆめみの隣に座った。
ゆめみは自分で発した言葉の意味を考える。もちろんおばけとか悪い泥棒とか、怖いもので無くてよかったと思うし、それに男の子がおそらくはお母さんにあげるために花を持って行っていたことも、良かったと思う一因だった。気に入って持ってきた花だ、捨てられていたら悲しかった。そして解決出来て、自分が幸村の役に立てたことも良かった。
ゆめみはやっぱり良かったなぁと考えながら幸村を見ると、幸村がいたずらっぽい顔で「ゆめみは怖がりだなぁ」と言ったので、全て分かった上でからかわれていたのだと気付いた。
でもそんな幸村は嫌いじゃない。むしろ幸村らしいと思ってゆめみはくすくす笑った。
「よく花言葉、覚えていたね」
楽しそうなゆめみを見つめていたが、幸村は思い出したように言った。
アネモネ自体の花言葉は悲しいものだが、色によって花言葉が違うことを、ゆめみに言われるまで忘れていたのだ。
「もちろん、精市に教えてもらったんだもの」
一年生の同じクラスの時に、花言葉を2人で覚え合ったことを幸村は思い出した。
教えたというより一緒に覚えたという方が適切な気がしたが、そう言われるのはやっぱり嬉しい。
また抱きしめたくなったが、我慢した。気持ちを抑えないと。
そんなゆめみの後ろには、アネモネが笑っているように見えた。紫色のアネモネは先程男の子が持って行ってしまったので、残った4本のアネモネは全て赤である。
赤いアネモネの花言葉は『キミを愛する』。
ぴったりだな、と思った。
俺はゆめみを愛している。
もうこれは止められない事実だ。
ゆめみは気付いていないのだろうね、キミが俺にとってどれだけ大きな存在なのかを。
ごめん、柳生。
俺もう抑えられないみたいだ。
心の中で風紀委員の友人に詫びを入れた。書初めの時には、態度に出ないように気をつけると言ったからだった。
幸村は一度は我慢したのに、やっぱり出来なくて、そっと反対側に手を伸ばして、ゆめみの頭を自分に寄せた。
ゆめみが幸村の肩に寄りかかる格好となる。
「精市・・・?」
「少しだけこのままで」
不思議そうなゆめみに「疲れたから」と謎の言い訳をした。どう考えても意味不明なのに、ゆめみは「毎日頑張ってるもんね」とふんわり笑ってくれた。
その体勢のまま、幸村はふと話をしたくなった。昔話だ。
トラウマになって今でも夢に見る、DKN神奈川Jr.大会の2回戦の話。10歳の時に14歳以下の部に出場して、中学生に暴言を吐かれた時の話だ。
「昔話をしてもいいかい?」
「もちろんいいよ」
話し出すと、自分のことではないようにスラスラと客観的に話すことが出来た。もっと感情が入って辛いのかと思ったが、そんなことは無かった。
中学生に暴言を吐かれた話をすると、ゆめみは顔を歪める。
「怖くて声が出なくてさ」
自分の欠点を話すのは、勇気がいることだった。ゆめみは「そうよね」と同意した。予想通りの言葉に安堵する。それで満足するはずだった。
「あの試合はとても感動的だったわ」
まるで見ていたかのような言葉に、幸村はその体勢のまま、ゆめみを見た。律儀に肩に頭を乗せたままのゆめみが驚く幸村を見て楽しそうに微笑んでいる。
「・・・見ていたのかい?」
「うん」
同意されても意味が分からなくて、幸村は呆気に取られていた。
「思い出したのは最近なんだけど、それって6年生の夏の大会だよね?蓮二もその大会に出ていて、私も応援に行ってたんだ」
たしかにゆめみはよく柳の試合を観に行っていたと聞いていた。しかし柳は主にダブルスの大会が多かったから観られていた可能性があったことは思いつきもしなかったのだ。
「美しいテニスだった」
「そんなことないさ」
幸村はゆめみの言葉を否定した。あの試合は負けていたのに、ただただ諦めたくないと粘り強くボールを打ち返しただけだ。
ゆめみは起き上がって、幸村を真っ直ぐに見た。
「そんなことなくない、何回でも言うわ、精市のテニスは綺麗で美しい」
「だからみんな見惚れちゃうんだと思うよ」ゆめみはそう言って結論付けた。
「見惚れる・・・?」
「ほら、その時も相手選手が急に下手になったでしょう?」
おそらく五感剥奪のことだろう。ゆめみにはそんな風に見えていたんだと思うと、不思議な気持ちになる。
同時にバカバカしい気持ちになった。この病気が、五感を奪った罪とか罰とか、そんな風に思ってしまった自分が。
ゆめみ流の『見惚れてしまっていた』のなら、俺が悪い訳が無い。だって。
「美しいものに罪はない、よね?」
ゆめみは「自分で言っちゃう?」とくすくす笑った。
「違うのかい?」
「うんん、そうね、そうだよ、精市に罪は無いよ、だって精市はただ諦めなかっただけだもの」
『俺はただ諦めなたくなかっただけ』
テニスに純粋だった時のとこを思い出していた。
あの日もこれからも。理解者がいたんだなと思うと、救われたように心が軽くなる。
もうあの悪夢を見る事は無いだろうと幸村は思った。
既にあの試合の観客席にキミが座っているのを想像してしまったから。だから次に同じ夢を見たのなら、それはただゆめみに応援してもらって、テニスをしている幸せな夢になるだろう。
「小学生の俺がゆめみにありがとうと言っているよ」
幸村は心を込めてそう言った。
その日の午後、隣の部屋の男の子は母親と一緒に幸村の病室を訪れて、謝罪してくれた。
先程は一言も話せなかった男の子は、母親と一緒ということもあって、立派に経緯を教えてくれた。
予想通りなかなか会えない母親にあげたくてお花を取っていたらしい。たくさんあったので、特別に罪の意識もなかったそうだ。
先程は、自分が母親に伝えたかった言葉通りの花言葉を知って、すぐにでも母親にお花をあげたくなったらしい。
これをきっかけにこの子の寂しさに気付けなかったと母親はできる限り毎日お見舞いにくると言っていた。
(220910/小牧)→162
小さいキミに会いたかったな