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(魚じゃなくて気持ちの方です/徳川)

2月の最終土曜日。ゆめみは父親の運転する車の助手席に座っていた。
カーナビに表示された時刻は午前10時半。目的地として特定の場所をセットされている訳ではないため、ナビには現在地である東京都世田谷区が表示されている。

ゆめみの手には立海大付属中2年首席、柳蓮二編集のテスト対策用ノートが広げられていた。
来週火曜から期末テストなのだ。
常日頃から学校の勉強にたくさんの時間を使っている訳では無いが、柳のおかげでゆめみはいつも上位をキープ出来ていた。

「あれ、この辺じゃないの?」

いつも曲がることの多い交差点を通り過ぎたところで、ゆめみは不思議そうにノートから顔をあげた。
今日は母親が出勤の日だったので、珍しく父親と2人でランチに行くことになったのだ。
わざわざ東京のレストランに行くと聞いたので、てっきりいつも行く目黒区のレストランだと思い込んでいた。
ドレスコードにも対応できる上品なワンピース着ているゆめみ。父親は下ろしたてのスーツを身に纏っていた。

「今日は美味しいところにいくよ、期待しててね」

得意げな父親に、ゆめみは期待を込めて過ぎゆく景色を見ていた。
次第に緑が増えて来て、森の中に入るようにして進んでいくと、駐車場が見えてきた。

「ここって本当に東京?素敵なところね」
「東京ど真ん中の白金台だよ」

白金台、か。
ピンとは来なかったが、降りてすぐに感嘆の声を上げた。
正門の奥に広がるのは素晴らしい日本庭園だ。

早く見たいと飛び出そうとしたゆめみを父親はやんわりと止めた。

「料亭の予約があるから、庭園は帰りにしようか」


それからほんの30分後のことである。

ゆめみは鏡の中の自分をまじまじと眺めていた。
鏡の中のゆめみは、桃色の振袖を着ていた。
手毬や桜の綺麗な柄に、ゆめみは思わず「素敵」と呟いていた。

「えぇ、本当に素敵でお嬢様に似合っておりますよ」

髪を結い上げながら、着付してくれた美容師さんがそう言った。
この料亭は結婚式も執り行っており、こうして着付をしてくれるサービスがあったようだ。
料亭に着いて名前を伝えると、着付の部屋へと通された。
父親も着付に関しては把握していなかったようだが、期間限定のサービスとかなのだろうか。そんな父親は先に部屋に通された。

「髪飾りも映えますね、殿方も見惚れてしまうことでしょう」

にこにこ優しい美容師さんは和花の髪飾りをつけながらそう言った。ゆめみは心の中で『殿方って、父親なんですよね』と残念に思ったが、この姿で日本庭園を散歩することはどんなに幸せな気持ちになるだろうかと思い直す。

ゆめみはるんるん気分で、着付してもらった部屋から再び料亭へと向かう。
早く食べ終えて、日本庭園を散歩したいとそれだけを思っていた。

ふと、料亭の入り口のところに案内が貼ってあるのが見えた。
その中に見覚えのある名前を見つけて、ゆめみはピタリと動きを止める。

『徳川家、ゆめだ家、ご両家顔合わせ、桐の間』

自分と同じ苗字が珍しく、すごい偶然だなと思う。
両家顔合わせ・・・こちらのゆめださんは結婚が決まって、幸せの絶頂なのだろう。

入り口で名前を名乗ると、上品な女性スタッフがゆめみを案内してくれた。

向かう途中の渡り廊下もガラス張りになっており、日本庭園が本当に綺麗に見えた。

結婚、いいな。

とゆめみは素直にどこぞのゆめださんのことを羨ましく思う。
手塚との一件でもう恋愛はしなくていいかなと思ったゆめみであったが、結婚は別だ。
だって子供が欲しい。
それに、ドキドキするような恋はしなくて良いけど、尊敬できる人と穏やかな毎日を送れたら素敵だなと思う。

そんな虫のいい話は無いかな。

「お嬢様の準備が整いました」

仲居さんが丁寧に襖を開けてくれた瞬間、ゆめみはようやく何かがおかしいことに気が付いた。

きっかけは部屋の中から複数の声が聞こえてきたことだ。
父親は1人で待っているはずななのに。
ゆめみは慌てて部屋の横の立札をチラリと見た。

『桐の間』

それは先程見たどこかのゆめださんが使っているはずの部屋だった。
まさか、と思った時には遅過ぎた。

ドアは止まることなく開かれ続けて。

ゆめみは部屋の中の人物と目が合った。


つまり、それは徳川カズヤ、その人だった。


最初は戸惑ったゆめみだったが、軽くにこやかに挨拶をして着席した。すぐに料理が運ばれて来る。

渡り蟹、焼き鯖寿司、フカヒレと鯛、金目鯛とキャビア、伊勢海老と雲丹、黒毛和牛

運ばれてくる料理の美味しさにすぐにいろんなことがどうでも良くなった。

部屋も素晴らしく、2面がガラス張りで日本庭園の中にいるような気持ちになる。
掘りごたつの席のため、足も痛くならない。

ゆめみの隣には父親が、父親の向かい側には徳川の父である徳川カズユキ、その隣に徳川カズヤが座っていた。

昔から仲の良い父親同士がいろんな話を繰り広げ、場を盛り上げてくれた。
医者である父と、外交官である徳川の父の話は純粋に面白く、ゆめみと徳川にもわかるように噛み砕いて説明してくれるためゆめみは見識が広がるなと思った。

『ご両家顔合わせ』

なんて文字が書いてあったから、驚いたものの、ゆめみが部屋に入ってからこれまでにそんな話は出て来なかった。
そもそもよく考えたら父親から2人きりだと言われていた訳では無いので、本当にただ徳川家の2人とランチの約束をしていただけだったのだろうか。



ゆめみは完全に油断していた。

それは、デザートのケーキを食べている時であった。
これも絶品と思っていると、徳川カズユキが話を切り出した。

「ゆめみちゃん、失恋したんだってね」

父親から聞いたのだろう。ゆめみはすぐに非難の意味を込めてカズユキを見た。以前手塚との恋の話を酒の肴にされた恨みを思い出す。

しかし、徳川カズユキは、非常に真剣な目をしていたために、ゆめみも自然と姿勢を整えた。
何か大切な話があるのだろうと自然にそう思った。

「そんな中こんな話をするのは大変心苦しいが、今だからこそできる話でもあるので聞いてくれるかな」

いつものおちゃらけた面白いおじさんの面影は無く、その人の心に入り込むような声色に、この人は優秀な外交官だったなと思いだした。

ゆめみは「はい」と返事を返した。

「まずは謝らせて欲しい、この間は失礼なことを言ってしまった、悪気は無かったんだが・・・あの後カズヤにも怒られたよ」
「いえ、謝らないでください」

素直に謝られると恐縮する。一言そう言われてしまえば、飲みの席でのひと言にそんなに固執した自分も悪かったと思えた。

「そこで、今日はそんなお詫びも兼ねてこの場を設けさせてもらったんだ、楽しんでもらえたかな?」
「そうだったんですね、お料理もとても美味しかったですし、楽しい時間をありがとうございました」
「振袖もとても良く似合っているよ」

振袖の着付を予約したのは、カズユキだったようだ。

「嬉しいです、ありがとうございました」

ゆめみが笑顔になったのを確認すると、カズユキは心から嬉しそうに笑った。
その表情はまるで我が子を見ているようだ。

「本題に入らせてもらおう、徳川家はゆめみちゃんがカズヤの生涯の伴侶になってくれたらと考えている」

ゆめみは少しだけ首を傾げた。
はんりょ、とな。
空耳かしら。

ここにいるのがいつめんだったのなら、確実に『はんにゃ、ですかね?』ととぼけ倒すところであるが、もはや高級料亭のフルコースを頂いた後である、ゆめみは思慮深い娘のふりをして黙ってみた。

伴侶・・・ゆめみの中の辞書柳蓮二が『伴侶とは、一緒に連れ立っていくもの、この場合配偶者のことだな』と解説をしてくれた。

つまり、徳川カズヤと結婚してほしいという意図で合っているだろうか。
それならば、もちろんNO一択なのであるが、もしそう言う意味で無かったらどうしよう。海外経験の長い彼らのことだ、伴侶に友達の意味が含まれている可能性はないのだろうか。
ここで変な勘違いをしてしまっては、末代までの恥と言うものだろう。

しかし、場はゆめみの反応を伺っており、ゆめみは仕方なく「カズヤくんはどのようにお考えでしょうか?」と言ってみた。
責任転嫁だ。

すると徳川カズユキはいきなり豪快に大きな口で笑った。

「ありがとう!考えてくれると言うことだね、後は若い2人で話し合ってくれ!」

カズユキは同時にベルを鳴らす。
するとすぐに仲居さんが現れた。

「日本酒の来福を升で頼む!祝い酒だ!」

嬉しそうなカズユキに対して、ゆめみ以上にゆめみの父親はショックを受けていた。
まさか結婚とまでの大きな話になるとは思っていなかったのだ。

「ゆめみ、本当に良いのか・・・?パパはまだ心の準備が・・・」
「ゆめだくんも飲もうじゃあないか、来福を2つで!」

カズユキはゆめみの父親を励ましつつ、仲居さんに「若い2人は庭園を散歩するそうだ、案内してもらえるかな」と流れるように依頼した。






あれよあれよという間に、ゆめみは気がつけば日本庭園のど真ん中に立っていた。








ゆめみはぼーっと綺麗すぎる日本庭園の池を眺めていた。

鯉が優雅に泳いでいる。
テーマパークにいる鯉は人が来るとエサ欲しさに寄ってくるのに、ここの鯉はそんなことには興味が無さそうだ。
やはり良いものを満足に食べているのだろうか、なんて考えた。

池にひらひらと白に近い桃色の花びらが落ちて、それが池にも映っている梅の花だと気が付いた。
梅見たさに振り返れば、こちらをまっすぐに見ていた徳川カズヤと目が合った。

そこで現実逃避していたことを思い出す。

「鯉が好きなのか?」

同じように池の中を覗き込んで徳川が聞いた。
ゆめみの答えは「別に」だった。
それに続けてなんと言っていいのか分からず、ゆめみはもう一度池を眺める。
今度は自分の隣にいる徳川も池に映っていた。

今日はただ父親とランチに行こうと思っていただけだった。
それがなぜか婚約する話になってしまった。
まるで狐につままれた気分だった。

先に高級なご飯をご馳走して、非を認めることでこちら側の警戒心を解き、料理のお礼を言わせることで断りにくい雰囲気を作って、あたかもその方向で同意したかのように振る舞う・・・カズユキの一連の行動を思い出して、ゆめみは日本の外交は安泰だな、なんてピント外れなことを思った。

風が吹いた。

ぶわっと梅の花びらが一斉に舞った。

目の前の景色も池に映った景色にも、白桃色の花吹雪が降り注ぐ。そのあまりの美しさに、ゆめみは「綺麗」と呟いた。

空を見上げて思わず笑顔になったゆめみ。

そんなゆめみをただただ徳川は見つめていた。
ピンク色の着物を身に纏うゆめみと、この景色に、この世のものとは思えない美しさだと感じた。
梅の花の妖精のようだとも。

「ゆめみちゃん」

徳川に名前を呼ばれて振り向けば、上から徳川の手が降ってきて驚く。
その大きな手は、丁寧にゆめみの髪飾りについた花びらを取った。
そして、少し屈んでゆめみに目線を合わせる。

「寒くはないか?」

確かにまだ2月。風は冷たかった。
ゆめみは「少しだけ」と返事を返した。
徳川は、自分の着ていたスーツを脱ぐとゆめみの肩にかけた。そして「あちらに東屋がある」と振袖姿のゆめみを気遣いながら誘導した。

客観的に見て、いい男だなと思う。

徳川カズヤ。
彼は見た目も良く長身で、生徒会長、そして外交官の息子で、スポーツも万能。

きっとたくさんの女の子たちが彼との恋を夢見たりするのだろう。

それでも、今は誰との恋も考えられない、とゆめみは思った。

手塚との一件もあったが、大親友であるゆめこの失恋もゆめみの恋愛観に大きな影を落としていた。
バレンタインの日に別れたとゆめこから聞いた時、最初は信じられなかった。
一方的に毛利先輩がゆめこを振ったらしい。
理由も告げずにいなくなったと聞いて、ゆめみは憤りと共に男性不信に陥った。
あんなにゆめこが好きだと言っていた人でさえ、心が移ろうのだ、生半可な恋心はいつか消えてしまうのだろう。

私はやっぱりもう恋はしたくない。

裏切られるのも、裏切ってしまうことになるのも、どっちも嫌だ。

恋なんかしなくたって、仲のいい友達がいれば毎日楽しく幸せに過ごせるのだから。

「ここに座るといい」

東屋に到着すると、徳川はポケットからハンカチを出して、椅子の座るところに敷いた。
そんな気遣いに、改めて素敵な人だと思う。

「ありがとうございます」

ゆめみは心を込めて言った。
「気にしなくていい」と徳川は言って、ゆめみの隣に座った。

「先程の質問に答えようと思うがいいか?」

徳川の言葉に、ゆめみはさっきの質問がなんだったかすぐに分からなかった。
しかし、徳川が真剣な表情をしているので、ゆめみは彼を見上げながらこくんと頷いた。
立っている時は、かなり上を見上げないといけないが、座ると少し見上げるだけでいい。

「俺はこの婚約に好意的だ」

そう言い切った徳川。
その言葉に、徳川カズユキの『カズヤの伴侶になって欲しい』の問いに苦し紛れに『カズヤくんの考えを聞きたい』と言ったことを思い出した。

「ごめんなさい、私さっきは曖昧な回答をしてしまったのですが、私今は恋をしたくないの」

慌てて否定したゆめみであったが、徳川は一切表情を変えなかった。

「恋をする必要は無い」

ゆめみは首を傾げた。意味が分からなかった。
近くの池で鯉が跳ねる音がした。

「恋ですよ、魚じゃなくて気持ちの方です」
「そっちの恋の意味で合っている」
「・・・好きにならなくても良いんですか?」

上目遣いで聞いたゆめみに、徳川は頷いた。

「嫌いで無ければ構わない、結婚は気持ちとは関係無く出来るだろう」

新しい考えだとゆめみは思った。
恋愛至上主義の塊のような、最近のティーンエイジャーには思いつかないアイディアだ。
もっと詳しく知りたいと思った。

「その考えに至った経緯を聞いても良いですか?」

徳川は、考えを丁寧に話してくれた。

今彼はあるスポーツに熱中しており、ある人物を倒すことしか頭に無い。いずれはそのスポーツのプロを目指している。
生まれてから今まで、女性に惹かれた経験が無く、交際についても考えてみたことがない。
しかし、スポーツのプロとして世界を舞台に戦うことになった際には、献身的な妻のサポートが必要と考えており、早めに結婚を考えていた。
結婚するためには、交際が必要で、更にどんな女性か見極めるために時間を使わなければならない、非常に非効率な行為だと考えている。
一方ゆめだゆめみであれば、出生や育ちが良いことも分かっているし、性格的にも問題が無いことがすでにわかっている、海外に興味もあるようで、海外遠征や海外生活にも順応出来るだろうと考えたと言うことだった。

徳川の話を聞くうちに、ゆめみはものすごく納得した。
条件だけで行けば、自分は相当な優良物件なのだろうと。

相手にとってもメリットがあるのは、ゆめみにとって嬉しいことであった。

「あの、つまり、カズヤくんは私を好きにはならないということで合ってますか?」

ゆめみの質問に、徳川は今日初めて動揺するそぶりを見せた。

「語弊があるようだが、俺はあなたを好いている、だが、正直に言うと、この感情は好意であって恋では無い」

徳川は困ったような、申し訳ないような顔で説明を続ける。

「俺は今後も誰にも恋をすることはないだろう」

ザァッと風が吹いた。
徳川はゆめみにショックを与えてしまったと思ったが、ゆめみにとっては逆だった。

ゆめみ自身ももう恋をしたくないと考えているのだから、相手に恋されないというのは、気楽でいいと思った。

「すまない、恋はできないが、浮気をするという話では無い、ゆめみちゃんだけを大切にするし、2人の時間も確保しよう、記念日には宝石や花を送るよ」

一生懸命に弁解する姿も可愛いと思えた。

ゆめみは改めて、徳川カズヤという男を見てみた。
綺麗な顔立ちをしていると思う、その目標にまっすぐな姿勢は尊敬できるし、優しい気遣いが出来る点は結婚生活に置いて高ポイントだろう。

このお見合いが始まる前は『ドキドキするような恋はしなくて良いけど、尊敬できる人と穏やかな毎日を送れたら素敵だな』と考えていたではないか。
自分にとっても申し分の無い提案だとゆめみは思い直した。

ゆめみは「もう少し条件を教えてください」と言った。完全にビジネスだ。

「子供は産んでもいいですか?」
「もちろん、おれも欲しいと思っている」
「何人まで?」
「そこはゆめみちゃんの体調と相談して、何人でも」

真顔でそんな話を詰める2人。
童貞と処女の会話である。

「仲のいい男友達がいるんですが」
「気にはならないよ」
「どこからが浮気ですか?」
「性行為からかな」

真顔でそんな話を更に進める2人。
童貞と処女の会話である。

「それに、もしその片想いをしていた相手と両思いになったとしたら、婚約破棄で構わないよ」
「なんだか申し訳ないです」
「そのかわり結婚後は勘弁してほしいな」

ゆめみはものすごく迷っていた。
条件だけでいけば、これ以上無いのに、
なぜか即答出来なかった。

誰かの悲しげな顔が思い浮かぶ気がしたのだ。

でも、ずいっと徳川が顔を近づけて来たので、ゆめみは深く考えられなかった。

「すぐに決めるのは難しいだろう、まずはお試しで定期的にコンタクトを取ってみるというのはどうだろう」
「・・・そうですね」

ゆめみは勢いに押されて同意した。
徳川はふぅと息を吐いた。

「用意してきたことがあるんだ、1番景色の良いところに行かないか?」

徳川が先に立ち上がり、ゆめみに手を差し伸べた。ゆめみはその手を掴んで立ち上がる。

徳川の手はひんやりとしていた。
何にも動じないように見えて、緊張していたのかも、とゆめみは思った。

2人で手を繋いで、庭園の中を歩く。

さっきまでとは違い、お互いにリラックスしていた。
ゆめみが花や鳥の名前を教えると、徳川はその度に屈んで話を聞いてくれた。

とても穏やかな時間だと思った。
池の周りを歩いて行った反対側に、展ゆめこスポットがあった。先ほどまでいた建物や、日本庭園の全貌が見えて絶景だ。

「ここが好きです」

ゆめみはそう言って斜め後ろを見上げた。
しかし、徳川の顔があるはずのところには、誰もいない。
ゆめみは不思議に思って、完全に振り返った。

すると徳川が片膝をついて、何かを突き出していた。
それが光り輝くダイヤのついた指輪だと言うことに気がつくと同時に、徳川の凛とした声が空間に響く。

「俺と結婚を前提に付き合ってくれないか」

花びら舞う、鶯が鳴く初春の日本庭園で、ゆめみは人生初の告白を受けた。

まるでドラマみたいだと思う。
ゆめみは気づけばその指輪を受け取っていた。

母親のダイヤの指輪を見たことはあったが、外の光を受けて光り輝くそれは、初めて見たような気がした。
人類を魅了し続ける理由がわかった。
綺麗すぎる。

「ありがとうございます」

ゆめみは最大級の笑顔でそう言った。
徳川も立ち上がって照れたように微笑んでいた。
さっきまでは、ビジネスだとすら思っていたのに、はにかむ徳川を見ていたら、もしかしたら好きになれるかも知れないとゆめみは思った。

「驚きました、まだお試しですが、本当に受け取って良いんですか?」

徳川は迷うことなく、ゆめみの左手薬指にダイヤの指輪をはめた。
その指輪はぴったりだった。

「ああ、お見合いの時には必ずこれをしなければならないと教えてもらってね」

徳川は満足気だったが、ゆめみはそれは誰かに騙されているなと思った。
そんな話は聞いた事がない。

「本当に結婚する時には、好きなデザインを一緒に選ぼうか」

もう1つ買ってくれるという意味だろう。
でもゆめみはその時にはまたこのダイヤを使ってもらいたいと思った。
今日この日のことを忘れたくない、とそう思った。

また仲良く手を繋いでレストランへと戻った。
徳川カズユキは大喜びで、ゆめみの父親は大号泣だった。






「みよちゃんから電話があったわよ、あなた」

飲みすぎてへべれけになってしまった父親とゆめみが代行を使ってようやく神奈川の家に着いた時には、すでに3時を過ぎていた。

本日は午前中のみの勤務だった母親は帰ってきており、般若の如く怒っていた。
そうはんりょではなくはんにゃである。

「私に一言の断りも無しに・・・どういうことなのか説明してもらうわよ」と父親に凄む一方で、ゆめみには「おかえり、ゆめこちゃんの家に行くならこれを持って行ってね」と微笑んで、焼き菓子の入った紙袋を持たせた。

ゆめみは父親を心配しつつも、早くゆめこと遊びたい気持ちが強く靴を履いたまま「いってきまーす」と、小走りで出て行った。

バタン、と玄関ドアが閉まると同時に母親は低い声で迫る。

「みよちゃんが、徳川さんがカズヤくんとゆめみの婚約を迫ったと言っていたわ、そんな約束したのかしら」

みよちゃんとは、カズヤの母親である徳川美代子のことである。
母親とはドイツで知り合い、今でも連絡を取り合うくらい仲の良い友人だ。美代子自身も今回の話は、今日旦那と息子の帰宅後に初めて知ったらしく、驚いてゆめみの母親に電話をかけてきたらしい。

父親は小さくなりながらも、徳川さんにゆめみの失恋の話をしたら、以前ゆめみの恋について冗談を言ったことを謝りたいから場を設けてほしいと言われたと説明した。
父親自身も婚約の話は知らなかったのである。全て徳川カズユキの策略だった訳だ。

「徳川さんには気をつけないと!とりあえず婚約まではいかなかったと聞いてはいるけど・・・」
「ゆめみもカズヤくんとの関係を考え出したようだし、結果良いのではないか?一生独身でも困るだろう」
「全然良くないわよ!あなたは知らないでしょうけど、ゆめみはね、今上手くいきそうな恋がいくつもあったの!」
「そ、そうだったのか」
「特にこれがきっかけでゆめみがカズヤくんと婚約でもしちゃったら、柳さんちになんて説明すればいいの?」

父親は隣の家の柳の父親栄一のことを思い浮かべた。確かに彼はゆめみと蓮二との仲を応援している節がある。

「いつもお世話になってばかりなのに・・・それに私は蓮二くん派なのよ」

珍しく怒っている母親に、父親はゆっくりと「それは悪いことをしたね」と言った。

その後「全てゆめみが決めることだよ」と母親を慰めながらも、そんなに悪いことだったかな、と父親は腑に落ちなかった。

だってゆめみは、行く時は落ち込んでいるようにも見えたのに、帰りは少し楽しそうだったのだ。





その日の夜。
夕食後は蓮二の部屋でテスト勉強をしていたが眠くなったので、ゆめみは自室に戻って来た。

電気を消して、布団をかけた後、思い出した。
徳川との取り決めで、夜寝る前に先に寝る方が電話をかけることになったことを。
彼は『生存確認のため』と言っていた。

教えてもらったばかりの番号を押すと、発信音が鳴った。

プルルルル

思った以上にドキドキする。

「はい、徳川だ」

彼の低い声が耳元で響いて不思議だ。

「ゆめみです、どこにいるんですか?」

ざわざわと音がしたので聞いてみた。

「ランニング中だよ、東京タワー横の1号線を走っている」
「頑張ってくださいね」

徳川は「ああ、おやすみ」と言って。
電話が切れた。

ツーツーツーと切れた音をゆめみは珍しく聞いていた。
本当に生存確認のみなんだな、と驚いた。

甘い言葉の一つも無い。
でもそれが居心地が良いと思った。

ゆめみは目を閉じた。
彼と結婚することになるのかな。
そう考えると、もやがかかったように、また誰かが思い浮かんだ。
しかし、また眠くて深く考えられずに、ゆめみは夢の中へと落ちて行った。





(220926/小牧)→168

夢見ていた愛の告白は、想像以上に素敵だった。
Location 八芳園、壺中庵



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