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(あなたは鬼ですか?/丸井)
週末が訪れた。
渾身の告白を断られ、ああやっぱりフラれちゃったんだ私。なんて再確認をさせられた金曜日。
帰宅して部屋に入るなりわんわんと泣き喚くゆめこを、母は心配そうに見守っていた。食事も思うように摂れず憔悴していたゆめこだったが、土曜日はゆめみと会うことも出来て少しだけ元気を取り戻していた。
そして今日は日曜日。
あいにくゆめみは先約があるとのことだったので、ゆめこは朝起きるなり「とことん家でゆっくりしよう」と、そう心に決めて部屋着に着替えていた。
そうして昼前にようやく一階に降りてきたゆめこを見て、母成留美は「おはよう、ご飯どうするー?」と声を掛けた。いつもなら「休みの日だからってだらだらしてたら生活リズム狂っちゃうわよ」なんて小言を漏らすくせに。やはり気を遣わせてしまっているのだろうか、とゆめこは少し申し訳ない気持ちになる。
「ご飯、食べたいな」
「はいはい、じゃあブランチってことで」
時刻は10時半。朝食でも昼食でも中途半端な時間なので成留美はそう言った。キッチンで準備を始める母を見ているだけというのも気が引けて、ゆめこは箸を並べたりお茶を淹れたりと簡単な手伝いをして食事ができるのを待った。
「はい、出来たよ」
ゴトン、とプレースマットに置かれた大きな器。梅干しやとろろ昆布、ほぐした鶏のささみなどが乗った温かいうどんはゆめこの大好物だった。
食欲も本調子ではないので消化に優しいうどんは有難い、なんて思いつつ席に着くと、向かい側の席で同じように母も食事を始めようとしていて、
「あれ?ママも食べてなかったの?」
とゆめこは尋ねた。成留美はにこりと笑って頷いた。
もしかして待っていてくれたのだろうか。いつもは能天気でミーハーなママだけどやっぱり優しいな。とゆめこはほっこりした。それと同時にママがいなくなるなんて想像も出来ない、とも思った。
寿三郎さん、辛かっただろうなぁ。とまた彼のことを思い出して、ゆめこの胸はちくりと痛んだ。
「はぁ」と知らず知らずのうちに漏れたゆめこのため息を聞いて、成留美はちらりと顔を上げる。
彼女には娘に元気が無い理由に心当たりがあった。
ほぼ毎日聞かされていた「それでね、寿三郎さんがね〜」というフレーズをここ1週間程耳にしていないし、あんなに大事にしていた指輪やブレスレットもつけていない。ケンカか、はたまた別れたのか。いずれにせよ、毛利と何かあったことは明白だった。
本人の口から説明があるまで言及する気は無いが、やはり愛する娘のことなので心配になってしまう。
さりげなく話題を振ってみようかな、なんて考えていたところで
「ママはさぁ」
と、しばらく無言でうどんをつるつる啜っていたゆめこが口を開いて、成留美は「ん〜?」と努めてなんでもないといった調子で返事をした。
「おじいちゃんが死んじゃった時、やっぱり悲しかった?」
思ってもみない話題に、成留美は目をぱちくりさせる。
彼女の父親、ゆめこにとっては祖父に当たる人物は、成留美がわずか5歳の時にこの世を去っていた。そのためゆめこは写真でしか見たことが無かった。
「急にどうしたの?」
「んー、なんとなく気になった。で、どうだったの?」
ゆめこの質問に、成留美はうーんと考え込む。
幼かったためほとんど記憶に無い、というのが本音だったが、それはゆめこが欲してる返事ではないだろう。
「そうねぇ・・・」なんて首を傾げる成留美をゆめこはじっと見つめる。
「多分寂しかったとは思うけど、」
「けど?」
「それよりも、落ち込んでるおばあちゃんやお兄ちゃんを見てる方が辛かったかも」
しばらくの間残された苦しみに絶望していた母や兄を思い出し、成留美はそう答えた。「そっか」なんて俯いたゆめこは今にも泣きそうで、成留美は「でもね」と慌てて付け足す。
「残されたみんなで乗り越えたよ」
「・・・すごいね」
「そう?」
「うん。私、ママがいなくなっちゃったら生きていけない」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
真顔でそんなことを言う娘に、成留美はふふっと笑みを溢す。
「あ、それからね、パパに出会えたのも大きかったかな?」
「そうなの?」
「うん。パパと結婚するって決まった時、初めて胸を張って墓参りに行けた気がしてね。
その後、拓哉やゆめこが産まれて自分の家族が出来た時、本当の意味で吹っ切れた気がしたの」
当時を思い出して穏やかに笑う成留美に、ゆめこはまた「そっか」と返事をしたが、その表情は心なしか柔らかいものになっていた。
「実はね、寿三郎さんもお母さんを亡くしてて」
「えっ!?」
「びっくりだよね。私もこの前知ったばっかりで驚いちゃって・・・。今まで呑気に過ごしてた自分に急に腹立ってさ」
だからここ最近元気が無かったのか。と成留美は合点がいき、納得したような顔付きで「そうだったのね」と相槌を打った。
「無神経なこともいっぱい言っちゃってたと思うし、私咄嗟に謝っちゃったの。そしたら寿三郎さんなんて言ったと思う?ゆめこが謝ることじゃない、ゆめこには感謝してる。なんて言うんだよ。余計に凹んだわ」
はぁ、と項垂れるゆめこ。
しかし成留美は「毛利くんの気持ち、分かるな」なんてくすくすと笑った。
「まぁ、彼女としてサポートしてあげてね」
「もう彼女じゃない。フラれた」
しれっとそんなこと言うゆめこに、成留美は「・・・は?」と目を見開く。しかし言葉の意味を理解した次の瞬間、「えええっ?!」と成留美は大声を上げるのだった。
その後、ブランチを終えたゆめこはリビングのソファに座りぼーっとテレビを見ていた。ここ1週間は一人部屋で過ごすことが多かったゆめこだったが、母親に事情を話したことで少しスッキリしたのだろう、彼女が自室に引き篭もることは無かった。
そういえばバラエティ番組なんか久しぶりだな、なんて思いながら過ごしていると、ピロンとスマホが音を立てた。
『今なにしてる?』
丸井からメッセージが届いていた。
『テレビ見てるよ』と正直に答えると、『んじゃ暇だな』とすぐに返ってきた。もしかして呼び出される感じ?そんな気分じゃないのに。なんて思っていると、案の定
『DD集合』
と来て、ゆめこは「やっぱり」と声を漏らした。
ちなみ"DD"というのはゆめこと丸井の家の近くにある海沿いのカフェレストランだ。スイーツメニューも豊富ということでいつメンでも何回か訪れたことがあり、彼らはレストランの名前の頭文字を取って"DD"と呼んでいた。暗号みたいでかっこいいという中学生のノリである。
この時ゆめこは失礼ながら何て言って断ろう?なんて思案していたが、次に届いた写真を見て少しだけ気持ちが変わった。
写真に写っていたのはテーブルの上に開かれたテキストの山だった。映り込んだテーブルの雰囲気からして、おそらく彼はもう既にカフェにいるのだろう。
『期末、やばい』
その一言でゆめこは全てを察した。週明けの火曜日から期末テストが始まってしまうことを、ゆめこも今の今まで忘れかけていた。毛利との一件があったせいで、今回全くと言っていい程テスト勉強をしていなかったし、なんなら範囲すら曖昧だ。自慢の記憶力も範囲が分からないなら役に立ちようがない。
『勉強教えて』という丸井に
『代わりに範囲教えて』
と返せば、今更過ぎると思ったのだろう『笑』とだけ返ってきた。
部屋で私服に着替え、各教科のテキストワークとペンケース、スマホ、財布、鍵、を大きめのトートバッグに突っ込んだ。毛利とデートする時はあんなにも身なりに気を遣っていたのに。コーディネートを決めるのがめんどくさいという理由で、今日のゆめこの格好はゆるっとしたニットワンピース一枚だ。髪も巻いてないし、アクセサリーも着けていなかったが、「まぁいいかブン太くんだし」と割と失礼なことを思うと、そのまま部屋を出て玄関へと向かった。
「どこか行くの?」
玄関でブーツを履いていると、母親がリビングから顔を覗かせた。
「ブン太くんとテスト勉強してくる」
「あら」
口元に手を当てわざとらしいリアクションをする母親にゆめこは思わず苦笑を漏らす。
「次の恋探せそう?」
「無理だよ、ブン太くんだもん」
またしても本人が聞いたら泣いてしまうだろう失礼極まりないことを言いながら、ゆめこは小さく首を横に振った。成留美は「残念」とだけ言うとまたリビングへと戻っていった。
自宅から自転車を走らせることおおよそ5分。目的のカフェに到着したゆめこは、奥の席でポテトをつまみながらテキストと睨めっこしている丸井を見つけて近付いた。
人の気配を感じたのか、ワイヤレスイヤホンを付けていた丸井はゆめこの姿を見るやいなや「おっ」と嬉しそうな声を出した。英語のリスニングでもしていたのだろう、カチャカチャとイヤホンをケースにしまいながら、丸井は「来てくれてサンキュ」と口にした。
「いや、私もブン太くんから連絡もらわなかったら期末の存在忘れたままだったから。助かったよ」
コートを脱ぎながら、ゆめこは丸井の向かい側の席に腰を下ろす。「範囲教えてはさすがに笑うわ」と言う丸井に、ゆめこもつられるようにとけらけらと笑った。
「昼食った?なんか頼む?」
「うん、ブランチ食べちゃった。ブン太くんはランチセット?」
半分ほど減っているアボカドハンバーグをちらりと見て、ゆめこはそう尋ねた。
「おー。あっ、昼食ってきたならこっちの方がいいか」
丸井は近くにあったデザートメニューをゆめこに手渡した。食欲の無いゆめこはドリンクだけ頼もうと思っていたが、当たり前のようにデザートを勧めてくる丸井に、せっかくだから何か頼んでみようかな。と気持ちが傾いた。
ここのフレンチトーストや自家製ケーキは本当に美味しい。舌がその味をよく覚えていて、メニューの写真を見ている内に本当に何か食べたくなってきた。
「シナモンアップルパイにする」
「良いチョイス!」
メニューを閉じて言うと、丸井は満面の笑みで親指をぐっと突き出した。「あったかいパイにアイス添えてあんのまじうまいよな〜」と話す丸井。
いつも通り、生き生きとした顔で食べ物のことを語る丸井に、ゆめこはなんだか安心感のようなものを覚えた。
注文を済ませた後、ゆめこは早速テキストを広げた。「とりあえず全教科の範囲よろしく」なんて言うゆめこに、丸井は「ウケる」と言いつつもしっかり教えてくれて、ゆめこは言われた通りに付箋紙を貼っていった。
1時間ほど勉強に熱中していると、「はぁーーー」と声を出して丸井が大きく伸びをした。集中力が切れてしまったのだろう。ゆめこも顔を上げると、丸井は案の定「休憩」と言った。
「だね」
ゆめこもそろそろ休みたいと思っていたので、パタンとすんなりテキストを閉じた。
雑談をし始める二人を見て、店員はすかさずテーブルの上にカップを置く。突然目の前に現れた頼んでいないココア二つに、ゆめこと丸井は目をぱちくりさせて店員を見た。
「マスターから差し入れです」
その言葉にキッチンにいるマスターに目を向けると、彼はにこりと微笑んでいた。常連である彼らがテスト勉強に励んでいる様子を見て、サービスで出してくれたようだった。ゆめこと丸井が「ありがとうございます!」と声を揃えて言うと、「勉強頑張ってね〜」と返事が来た。
「あったまる〜」
両手でココアのカップを持ってのほほんとした顔で言うゆめこを丸井はちらりと盗み見る。そうして彼女がカップを置いたタイミングで
「でさ、いい加減教えてくんね?」
と丸井は切り出した。
ゆめこはすぐに丸井が言わんとすることが理解できて「やっぱりそうなります?」と苦笑を浮かべた。
「これでも我慢した方だろい」
一週間も黙って見守っていたのだ。丸井は「俺らの間で隠し事しようたってそうはいかねーからな」と、ゆめこの額をツンとつついた。唇を突き出して不貞腐れたような顔をしている丸井はいつもより少しだけ幼く見えた。
「寿三郎さんと別れた」
観念したゆめこが端的に言うと、丸井は「ふーん」と相槌を打った。が、しばらくの沈黙の後
「・・・え?」
と目を丸くした。
「え、待った。えっ?別れた?ケンカしただけじゃなく?」
どうやら丸井は今回も二人はケンカをしたのだと予想していたらしい。さらに上を行く展開に、彼は信じられないと目に見えて狼狽えていた。
「まじです。フラれた」
「フラれた?!いつ?!」
「バレンタインデーの日」
「なんで?」
「それは・・・」
ゆめこは悩んだ。
フラれた理由はおそらく彼との約束を破って仁王へのバレンタインチョコを用意していたのがバレたからだ。しかしこれを話すとなると・・・。ゆめこはそこまで考えてちらりと丸井を見た。
『はぁ?!俺にはチョコくれなかったのに?!』
と怒り出す丸井の幻影が見えて、ゆめこは口を閉ざした。言うのはやめよう。代わりに「分かんない」と答えると、丸井はなんで分からないんだよ、と言わんばかりに大袈裟に溜め息を吐き捨てた。
「毛利先輩、あんなにゆめこのこと好きだったのに」
「あはは・・・」
腑に落ちない顔をする丸井に、ゆめこは乾いた笑いを返すことしかできなかった。
「一時的に怒ってるだけとかじゃねーの?」
「それはないよ。実はさ、一昨日届け物をしに寿三郎さんの家に行ったんだけど、私そこで『まだ好きです』って頑張って言ってみたの。でも『ごめん』だって。惨敗、無理、立ち直れない」
「まじかよぃ・・・」
思い出してまた苦しくなったのか、ゆめこはわっと机に突っ伏した。丸井はそんなゆめこをしばらく心配そうに見つめていたが、「ん、待てよ?」と我に返った。
これってもしかしてもしかしなくてもチャンスじゃね?なんて、丸井の瞳に希望の光が宿る。落ち込んでいるゆめこには悪いが、これで彼女は晴れてフリーだ。あんなにも二人が別れることを祈っていた丸井にとっては喜ばしい事実だった。自然とニヤつく口元。腕に顎を乗せたまま顔を上げたゆめこは、そんな彼の表情の変化に目ざとく気付いてしまった。
「なんか笑ってない?」
「まぁ、嬉しいからな」
「あなたは鬼ですか?」
恨めしそうにそんなことを言うゆめこに、丸井は堪えきれずあははと笑った。
「こんなに・・・、こんなに苦しんでるのに・・・!」
「おー、よしよし。かわいそうなゆめこは俺が慰めてやるからな!」
潔くそんなことを言う丸井に、ゆめこは「遠慮しときます」と手の平を突き出した。明らかに拒否されているというのに、既に2回もゆめこにフラれている丸井は耐性が出来ているのか「遠慮すんなって」と明るい声で返した。
毛利先輩がなぜゆめこをフッたのかは分からない。でもそんなことはもはやどうでも良かった。
「テスト終わったらデートでも行くか」
「ブン太くん、私の話聞いてる?」
とことんポジティブな丸井に、ゆめこはじっとりとした視線を向けた。
「そろそろ帰るか」
店の外が暗くなり始めていることに気付き、丸井はそう声を掛けた。休憩の後は割と集中して勉強に励んでいたこともあり、気付いたら夕方になってしまっていた。ゆめこは窓の外に視線を移し「そだね」と返事をした。
それからお会計を済ませマスターにお礼を告げて店を出ると、ゆめこは乗ってきた自転車に跨った。丸井は近所だからと徒歩で来たらしい。
「送ってくぜ」
「あはは、いいよ。近いし」
「だーめ。危ないだろい」
真顔で言う丸井に、ゆめこは素直に「ありがとう」とお礼を言った。
「荷物カゴに入れていーよ」
「おっ、さんきゅ」
「なんだか懐かしいね」
「ん?」
「一年生の時、ブン太くんとニケツしたことあったでしょ」
「あー、あったな!あん時俺すげー緊張してた」
「あっはは、そうなの?」
初めて聞く丸井の本音にゆめこはおかしそうに笑った。
たまたま道端で遭遇してそのままニケツで丸井の家まで行ったあの日。当時は当時で十分仲が良いと思っていたが、今思い返すとあの頃はまだそれなりに遠慮もあったのかな、とゆめこは思う。
2年に進級して同じクラスになった今、丸井はすっかり親友と呼べる存在になったので、良くも悪くもそんな遠慮は消え去っていた。ゆめこにとって丸井は、幼馴染である柳と同じくらい余計な気を遣わなくていい相手なのだ。
「どうする?またニケツする?私が漕ごうか?」
「ははっ、ゆめこじゃぜってー無理だろい。つーか、歩きでもええ?」
「ん?いいけどなんで?」
「チャリだとすぐ家着いちまうだろい」
丸井の意図が分からず、ゆめこは頭上に疑問符を浮かべる。丸井はゆめこから自転車を奪うと、それを引きながら歩き出した。置いていかれると思ったのか、ゆめこも慌てて丸井の横に並んだ。歩きながらも不思議そうに自分を見つめるゆめこに、丸井は「鈍過ぎ」と鼻で笑う。
「もっと一緒にいたいってこと。ふつー分かるだろい」
「えっ、あっ・・・そういうこと」
不意を突かれたゆめこは、少し照れ臭くなって俯いた。うっすらと赤らむ頬に丸井の胸がトクンと高鳴る。
「ちょ、その反応可愛い過ぎ。やばい」
「あんまり見ないでよ」
急に恥ずかしくなったゆめこはタタッと小走りで先を行く。
「あっ!待てって!」と丸井は慌ててゆめこを追いかけた。しかし追われると逃げたくなるのが人間の本能だ。
「ねぇ!追いかけてこないでよー」
「いやいや、ゆめこが逃げるからだろい」
二人のやり取りはいつのまにか追いかけっこに変わっていた。途中から面白くなったのかゆめこはきゃははと笑い声を上げていて、それはすぐに丸井にも伝染した。彼はニヤニヤと笑みを浮かべながら本気でダッシュすると、
「はい、捕まえたー」
とゆめこの手首を掴んだ。
さすがは現役運動部。自転車を引くというハンデを持ってしても、ゆめこに追いつくのは容易かった。追いつかれたゆめこは「あーあ、捕まっちゃった」と笑いながら悔しがった。
必死に逃げていたからか、ゆめこはすっかり息が上がってしまっている。これ以上走るのも無理そうなので観念して歩こうとするも、丸井がなかなか手を離そうとしないのでゆめこは「ブン太くん?」と彼を見上げた。
さっきまであんなに笑っていたのに。急に視界に入って来た丸井の真剣な顔つきに、ゆめこの心臓がドキリと跳ね上がる。
そこからは一瞬の出来事だった。
ちゅ、と唇に何かが触れたと思った時にはすぐ目の前に丸井の顔があって、"キスされてる"と気付いた時にはもう既に彼の唇は離れていた。
「・・・わり、我慢出来なかった」
切なそうに眉を顰める丸井に、ゆめこは言葉を失う。
いつもみたいな軽いノリだったら、彼女も少しは反応出来ていたかもしれない。目を丸くしたまま固まってしまったゆめこに、
「でも、マジで、中途半端な気持ちじゃねーから」
と丸井は追い打ちをかけた。
呆然とするゆめこはやっとのことで「あ、うん」と返事をする。しかしすぐに、これはスルーしていいことじゃない!と気付いたのか、
「一応確認なんだけど、今キスしました?」
とゆめこは尋ねた。
「分かんなかったならもっかいする?」
「いや、いい!やめて」
「やめては傷つくだろい」
両手を顔の前でぶんぶんと振り拒否するゆめこに、丸井は苦虫を噛み潰したような顔になる。
ゆめこは「だってこのくらい言わないとブン太くん本当にしそうなんだもん」と頬を膨らませた。それを聞いた丸井は『確かに』と内心納得してしまった。
「私、キスとかそういうのはちゃんとお付き合いしてからしたいタイプだったのに」
再び歩き出したタイミングで、ゆめこはぼやくようにそう言った。去年の海原祭では雅治くんにも不意打ちでキスされたし。とゆめこは心の中で付け足す。
「じゃあ俺と付き合えば解決するんじゃね?」
「しないよ」
ゆめこが即答すると、丸井は「ちぇ」と唇を尖らせた。
「私、まだ寿三郎さんのこと好きだもん」
「うん、知ってる」
「あーあ、失恋がこんなに辛いなんて」
「それ、俺の前で言うか?」
今まで散々人のことを振って、今だってばっさりと切り捨てたくせに。丸井が物言いたげな視線を向けると、それに気付いたゆめこは「ごめんって」と苦笑いをした。
「まぁ、これでゆめこも失恋組の仲間入りだな!」
「あはは、やだなその仲間入り。ちなみにあと誰がいるの?」
「俺と・・・、あと柳とか?」
「いやいや、蓮二別にフラれてないから、やめたげて」
口では柳を庇っているくせに、けらけらとお腹を抱えて笑うゆめこに、「お前も大分失礼じゃね?」と丸井は笑いながらツッコんだ。
(220927/由氣)→169
来たるべきチャンスを狙っていた男
新テニで丸井くんの"柳くん"呼びが話題になってましたが旧テニでは"柳"と呼んでいたのでエトワールではそちらを採用してます。でも呼び名って気分で変わるもんね。