171
(おもてなししてあげるよ/幸村)

幸村の誕生会の3日後の土曜日。
ゆめみはゆめこと藤沢にある洋食屋さんに来ていた。ここは平日はパンの食べ放題のみだが、土日はケーキ食べ放題も開催されていると柳から聞き、2人でやってきたのだ。
柳はゆめみのためにスイーツ情報を絶えずチェックしている。

まだまだ元気の無いゆめこを元気付けたいというねらいと、恋愛経験でリードしているゆめこに相談したいこともあった。

「どちらのケーキがお好みでしょうか?」とトレイに乗せられたケーキを見て、ゆめみとゆめこは目を輝かせる。

「きゃーっ美味しそう」
「やっぱりケーキだよね」

そして3秒ほど真剣に悩んだ後、ゆめみとゆめこは声を揃えていった。

「マンゴーショートケーキ、ガトーショコラ、チーズケーキ」
「洋梨とラズベリー、もんぶらん、フルーツタルト」
「ゆめこ3つも食べられる?」
「うん、ケーキなら行ける」

ゆめこの食欲が低下していることを知っていたゆめみは心配してそう言ったが、ゆめこは力強く頷いた。
毛利と別れてから1か月、ゆめみといる時限定かも知らないが、少しずつ笑顔になることも増えてきて、ゆめみは良かったと思った。

ウエイトレスが去った後、2人は一口目を食べて「美味しー」と顔を見合わせた。
そしてアールグレイティーを一口飲むと、ゆめこから先に切り出した。

「で、何かあったんでしょ?」

ゆめみは目をパチクリさせて「気付いた?」と聞いた。ゆめこはにやりと笑って「もちろん」と言う。
ここ数日、ゆめみの様子が少しおかしいと思っていた。ふわふわそわそわそんな感じ。
ゆめみは少しもじもじした。

「キス、しちゃったんだ」

ゆめみが頬を染めながらそう言ったので、ゆめこは思わず「えー」と驚きの声をあげた。
ゆめこにとっても予想斜め上であった。

「ちょっと待って、ファーストキスだよね?」
「うん」
「誰と?待って、当ててみるから」

ゆめこは腕を組んでうーん、と考えた。その姿は百面相で可愛く、ゆめみはクスクス笑う。

「蓮二でしょ、アイツついにやっちゃったか」

ゆめこの導き出した答えに、ゆめみは「違う違う」と手を振って否定した。
ついに我慢出来なくなったのか、と不憫な幼馴染のことを全力で疑ったゆめこは、また少し考えた。

「・・・不二くん?」
「ありえそうだけど、違う」
「まさか徳川さん?」
「ふふ、それも違う」

手塚?と一瞬思ったゆめこだったが、失恋したことを知っているので、違うと思った。
もしそうだとしたら、ゆめみのことだからすぐその日の内に大喜びで教えてきただろう。
ゆめみはなんでもゆめこに話しているので、徳川のことも当然知っていた。

「ダメだ、迷宮入り」

ゆめこがギブアップして、またケーキを一口食べた。ゆめみはまた少しもじもじしたが、意を決したようにゆめこを見た。

「精市だよ」

ゆめこが驚きのあまり元々大きな目が大きくなりすぎて、落ちてきそうだとゆめみは思った。

「びっくり、一番真面目でそういう順番守りそうなのに!まだ真田くんだよって言われた方が信じられたかも」
「だって私からしたんだもん」
「・・・まじで?」
「うん」

少しの静寂が訪れて、ゆめみもゆめこもまた一口ケーキを食べた。

「何味だった?」

無邪気な笑顔でそう聞いたゆめこにゆめみは「気になるのそこかよ」と珍しく突っ込んだ。
2人は顔を見合わせてくすくす笑う。
ガールズトークは楽しい。

「ゆめこ、私、どうしてキスしちゃったんだろうね?」

思わず「それは私が知りたいわ」と突っ込んだゆめこ。また2人は顔を見合わせてくすくす笑った。

「それで、上手かった?」

興味深々なゆめこの中学生らしい瞳をゆめみもまっすぐに見つめ返す。

「うん、すごく」

自分から聞いたのに、ゆめみの答えにゆめこは動揺した。ゆめみはまた頬を染めながら「世の中の男女がキスする理由がわかっちゃった」と言った。
それってもう答えが出ていると思ったのだ。
だって、好きじゃない人とのキスでそんな風に思うはずがない。

「大人の階段登っちゃったね」

ゆめこの言葉に、ゆめみはにこにこケーキを食べた。

『ゆめみは幸村くんが好きなんだよ』

その言葉は、飲み込んだままでいた。






時は進み、3月13日、水曜日。
幸村精市の退院の日が訪れた。

幸村の病室は、全て綺麗に片付けられ、大きなトランク1つと手荷物1つにまとめられていた。花瓶や壁に飾られたものは昨日のうちに家に持って帰ってもらっており、何も無い。

母親は精算のために、一階の受付に行っており、病室には幸村ただ1人。
幸村は病室のソファーに座って、ぼんやりと宙を見ていた。
その指は自然と唇に当てられていた。

幸村はまた考えごとをしていたことに気づき、手を下ろす。
そんな仕草はもう何回目だろう。

油断すると、思い出してしまう、ゆめみとのキス。
甘くて柔らかくて、この世の喜びという喜びを全部敷き詰めたかのような、幸福感。

キスがこんなに良いものだったなんて、知らなかったな。
世の中の男女が、みんなキスをしたがるわけだ、と幸村は思った。

カラカラとドアが少しだけ開いた。
その隙間からぴょこんと顔を見せたのは、ふわふわの髪をハーフアップにした、ゆめみだ。
俺と目が合うと、にこりと微笑んだ。
丁寧にドアを完全にあけて、全身の姿が見えた。ゆめみはきちんと制服を着こなしている。
客観的に見たらまるで優等生だな、なんて思った。
俺の前で見せる無邪気な笑顔やおっちょこちょいなところとのギャップを感じる。

優等生はこんな時間にこんな場所にはいないはずだけど。
時刻はまだ11時半だ。

「もう片付けちゃったの?手伝おうと思ってきたのに」

ゆめみは全て片付けられた病室を見渡しながら幸村の方へと歩いてくる。そして隣に座ると「えらいね」と言った。

「昨日も手伝ってくれただろう?」
「ふふふ、この部屋に10人はさすがに狭かったよね」

昨日の夕方は最終日ということで、部活帰りに仲良し9人が揃って幸村の病室を訪れた。
明日退院なのに、赤也がお見舞いに縁起の悪い鉢植えを持ってきたりと相変わらずのハプニングはあったものの、片付けながらいつもの楽しい時間を過ごしたのだ。ゆめみは昨日のことを思い出しながら「私たちって仲良しすぎるわよね」と笑う。

「午前中は仁王も来てくれたよ」
「まぁ、仁王くんまたサボったの?」
「それは誰かさんもだろ?」

ゆめみはくすくす笑って「私はちゃんと断りを入れて来たわ、4限目はフランス語、5限目は数学、6限目は書道」と指折り数えた。
フランス語はお馴染みのレアル先生、数学は幸村の担任でもある山大嵐先生、書道の先生は優しい初老の先生だ。確かに事情を話せば全員納得してくれそうだと理解した。

ゆめみはもう一度病室を見渡して「なんだか一緒に帰りたかったから」と言った。
その瞳は遠いところを見ているようで、昔を思い出しているような、懐かしんでいるような雰囲気だ。

幸村はそっとゆめみに寄り添うと「嬉しいよ」と言った。

幸村の誕生日から、ゆめみと幸村の関係に大きな変化は無かった。相変わらずゆめみは幸村のお見舞いに来て、授業の共有をしてくれる親切な友人であり、リハビリメニューを一緒に考えてくれる専属マネージャーであった。
穏やかな雰囲気は何も変わらない。

2人きりでいても、あの日のキスの話は一度も出なかった。
お互いにあの日のキスを無かったことにしたい訳では無い、ただ2人だけの秘密にして、心の一番澄んだところに置いておきたい、そんな気持ちだった。

大きな変化は無さそうに見えて、2人を纏う雰囲気は、確実に変わってしまった。

もう昔の純粋な友人だった13歳の2人には戻れないと感じていた。
お互いを異性として認識した、14歳の男の子と女の子だった。

「いろんなことがあったね」

ゆめみが目を閉じた。

「そうだね」

幸村も同じように目を閉じる。
思い出す、ここで過ごした辛い日々。
苦しい時間。そして、そんな中での安らぎだったゆめみとの時間。

キミはいつも花を携えてきてくれたね。
にこにこ笑って「頑張ってるね」と言ってくれた。
泣いてくれた。
自暴自棄になって傷付けてしまっても、ずっと側にいてくれた。

俺の力になりたいと言ってくれた。

それにどれだけ救われてきたか、キミは想像さえ出来ないだろう。

『精市、帰っておいで』

ふと思い出した。この部屋で最初に目覚めた時のことを。
夕日に照らされて金色に見えた、ゆめみの泣き顔を。

幸村はゆっくり目を開けた。
ゆめみはすでに目を開けていて、幸村を優しく見つめていた。そして、その瞳にはまた涙が溜まっている。

「泣き虫だね、ゆめみは」

とても綺麗だ、幸村はそっとゆめみの涙を拭った。この半年で、この仕草が上手くなってしまったと幸村は思う。

「ここに来た時のことを思い出していたよ、目を開けたらキミがいた、今と同じように」

幸村の言葉にゆめみは不思議そうな顔に変わる。

「誇張では無く、ゆめみがいてくれたから乗り越えられた・・・ありがとう」

ゆめみの顔に笑顔が広がる。真っ白い部屋に大輪の花が咲いたようだ。

「どういたしまして」

入院前にはもう戻れない、と幸村は思った。もうあまり思い出せないが、入院前はこんなにゆめみと時間を過ごすことは無かった。
でも今やそれは耐えられそうに無い。

1日会えないだけで会いたくて仕方ない。

「お礼をしたいんだ、だからこのまま俺の家に一緒に行ってくれないかい?」

幸村の提案に、ゆめみはゆっくりと頷いた。





それから。
ゆめみは幸村の母親の車に乗って、幸村の家を訪れた。
当然のように出てきた手作りのグラタンを食べて、幸村は「準備があるから寛いでて」と言い残して部屋を出ていった。
手持ち無沙汰になる時間も無く、すぐに妹の菜苗(ななえ)が帰ってきて、ゆめみがいることに大喜びした。今年小学校3年生だ。

そして今は、その菜苗とアイロンビーズで遊んでいるところである。

菜苗の提案で、今小学生の間で人気があるという『はしっこぐらし』のゆるキャラをビーズで再現しようとしていた。一つ作り上げて、ビーズにアイロンをかけながらゆめみは己の行動が常識的に考えて良いのだろうか?と疑問に思っていた。

3ヶ月半も入院していた幸村の退院日である。
さすがに部外者である自分がこれ以上ここにいるのはどうなのだろう。
家族の大切な時間を奪ってしまっているのではないか。

帰りますと言おうにも、幸村はまだ離席したままであるし、目の前の菜苗は一生懸命で楽しそうで可愛すぎるので、言い出しにくい。

「うわぁ、かわいい!ゆめみお姉ちゃん上手!」

どうしようかな、と思っていると、ゆめみが完全したことに気付いた菜苗が目を輝かせた。

「コロッケできたよ、これは菜苗ちゃんにプレゼントするね」

ゆめみがビーズでできた人形を手渡した。コロッケとははしっこぐらしの人気キャラクターの内の1つである。菜苗は目をキラキラさせて「ありがとうー!宝物にする!」と言った。可愛すぎて悶えるレベルである。

とその時、ダイニングに幸村が戻って来た。

「ゆめみ、またせて悪かったね」

急いで来たのか、髪が乱れている。ゆめみは直してあげたいと思ったが、菜苗の前であるし、オープンキッチンの向こう側には幸村の母親百合子がこちらをにこにこと伺っているので出来なかった。
そんなたまに抜けているところも可愛いなと思ってしまう。

「やだぁ、ゆめみお姉ちゃんはまだ私が遊んでるの!」

菜苗が全力で抗議したが、すぐ百合子に「菜苗、そろそろバレエの準備をなさい」と言われていた。どうやらこれから習い事があるようだ。

幸村はそんな菜苗を横目に見ながら、「さあ、おいで」とゆめみを手招きした。珍しくテンションが高い幸村に、ゆめみも嬉しくなって立ち上がる。
そのまま幸村の後を追っていくと、庭に着いた。庭に出るためのサンダルを借りて外に出た。

ゆめみは庭を見て一瞬立ち止まる。
やはり幸村精市という有能な庭師が不在だったためか、昨年の冬に訪れた時より少し寂しく感じた。

幸村は更に庭の奥にゆめみをリードしようとして、はっと動きを止める。
そしてゆめみを見て、少し考えた後「驚かせたいから目を閉じることはできるかい?」と言った。
ゆめみは「いいよ」と言って素直に目を閉じた。
最初は手を繋いで数歩歩いたが、幸村は少し危ない気がして、ゆめみを抱き上げることにした。

ふわっと抱き上げられ、お姫様抱っこされる。ゆめみは思わず目を開けて幸村を見た。
あまりに顔が近くてゆめみの頬は照れたように赤くなる。

「これって必要なの?」
「嫌かい?」
「嫌じゃないけど・・・恥ずかしいよ」

抗議するゆめみに、幸村は不思議だなと思う。先日公共の場でもっと恥ずかしいことをして来た人のセリフでは無いと思ったからだ。
しかしそれには触れずに、幸村は優しく「目はいいっていうまで開けてはいけないよ」と言った。
ゆめみは大人しく目を閉じた。

幸村は素直なゆめみに満足して、大切な宝物でも運ぶように、丁寧にゆっくりと歩き始める。

庭の更に奥に幸村は大股で歩いていく。

少し行くと、どこかの建物に到着したようだ。
幸村がガチャとドアを開ける音がして、暖かい空間へと入った。
サンダルを脱がせてもらい、幸村はようやくゆめみを地面に下ろした。
ゆめみは不思議だと思った。
ここは暖かくて、床もふかふか。室内であることは間違いないのに、感じる明るさは屋外のものと全く同じなのだ。
一体ここはどこなのだろう。

ドキドキした。

「目を開けてもいい?」

待ちきれずゆめみがそう聞くと、幸村は「いいよ、開けて」とワクワクした声で言った。

目を開けると、たくさんの光が飛び込んで来て、ゆめみは思わず目を細めた。
しかしすぐにその瞳は大きく見開かれる。

夢のような空間だと思った。

目の前には天井までガラス張りの部屋に、冬にも関わらず色とりどりの花々が咲き誇っている。
シクラメン、カランコエ、サイネリア、セントポーリア、ゼラニウム、ルクリア。
室内で、かつ十分に陽の光が当たるからこそ咲いている花々だ。

そして、部屋の半分はガラス張りではなく普通の部屋だった。
部屋の真ん中にはイーゼルが2つ置いてあり、くつろげる革張りの白い椅子も2つ。
それぞれに水色とピンクのひざ掛けが置いてある。

そして、後ろの方に目を向けて、ゆめみはついに飛び上がりたくなった。
そこには机が2つ並んでいた。椅子のファブリックの色は同じく水色とピンク。そのうちのピンクの椅子の横の棚には、フランス語の詩を作る上で欠かせない辞書や詩集が何冊も置かれていた。
その1つ下の段にはフランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語の語学習得のための本や参考書が並んでいる。
更にその下の段にはリバティ柄の布が重ねて置かれており、その横には真新しい裁縫箱が置かれている。

まるで自分の趣味に特化したような、そんなまさに夢のような空間だと思った。

勘違いでなければ、この席を使っていいと言うことだろうか。

ゆめみは嬉しさで涙目になったまま、幸村を見た。幸村はゆめみの反応を愛おしそうに見つめていたが、ゆめみと目が合うと、ポケットから鍵を出した。
水色とピンクの2つの色が入ったリボンのついた鍵だ。

「このアトリエをゆめみにプレゼントするよ」

思わず手を広げてしまい、そこに乗せられた鍵を見ながら、ゆめみの頭は高速回転していた。
幸村の言った意味が理解できない。
ただ使って良いだけでなく、プレゼント?どういう意味だろうか。
不思議そうに再度幸村を見つめていると、幸村は説明を始めた。

「退院後もゆめみと過ごせるようなアトリエがほしくてね、古い温室を改造してもらったんだ、気に入ってもらえたようで良かった」

「ピンクの方がゆめみの席で、水色が俺だよ」

「裏口から入って来て、その鍵を使えばここに入れるから、正面玄関から入る必要は無いからね」

「家族の許可はすでにとってあるから、俺の許可も誰の許可もいらないよ、好きな時に来て、好きな時に帰っていいからね」

幸村は上機嫌に説明するが、ゆめみは何も言えなかった。
この空間は素敵すぎると思った。
でも、ここはあくまで幸村のアトリエだ。
いくらなんでもその鍵を受け取るというのは、不相応だろう。

幸村の気持ちは嬉しかったので、ゆめみは言葉を選びなから切り出した、

「ありがとう精市、とっっても素敵なところね、私ここが大好き」

「でも受け取れないよ」ゆめみは鍵を返そうとした。

「精市がいる時に、一緒に使わせてもらえるだけで十分だよ」

幸村は手を後ろに組んで首を横に振る。

「これは俺の感謝の気持ちで、俺のまたこれからもゆめみとの時間を過ごしたいという俺のわがままだから受け取ってほしい」

幸村はまだどうしようか迷っているゆめみの肩をそっと押して、真ん中に置いてある大きめの椅子に座らせた。
真新しいふかふかの椅子は、ゆめみをふわっと受け止めた。

「おもてなししてあげるよ」

幸村は楽しそうにゆめみの膝にピンクのひざ掛けをかけると、部屋の奥へと歩いて行った。
チラリとそっちを見ると、簡易キッチンがついており、お茶を淹れたりちょっとした料理ならできそうだ。

ゆめみは幸村から目を離して、光が降り注ぐ花々を見た。
ポス、と背中を椅子に着けると、リラックスした体勢になって、このまま眠れそうだとも思った。

なんて最高で幸せな部屋なんだろう。

これからはここでゆっくりとした時間を過ごせるんだ。
水彩画を描く精市を眺めながら、私は隣でフランス語の詩を作ったり、ハンドメイドしたり、花を眺めながらうたた寝したり。
精市と一緒に学校の勉強や語学の勉強もできる。
一緒に花々のお世話をして、その後花を見ながらガーデニングの話をしてもいい。

そんな夢のような時間を想像して、嬉しさで胸がいっぱいになった。
退院した後は、幸村と2人の時間を過ごすことはほとんど無くなるだろうと思っていた。
母親が働く病院と違って、幸村の家に来るのはハードルが高い。

ゆめみは自分も幸村との時間を大切に思っていて、これからもこんな時間を続けていきたいと願っていたことに気が付いた。

「お茶をどうぞ」

椅子の横に置かれたテーブルに、幸村はティーカップを2つ置いて、自分も隣に置いてあった1人用の椅子に座る。
ゆめみが手に取ると、ローズのかおりがふんわりと香る。一口飲むと口の中にまでローズの香りが広がった。

「ありがとう、美味しい」

素直にそう言えば、幸村は嬉しそうに笑う。
この素敵な空間のせいか、幸村がいつもよりかっこよく見えた。

「このプレゼントはホワイトデーのお返しでもあるんだ」

その言葉に、明日はホワイトデーだとゆめみは思い出した。幸村は続けて「チョコレートをあげた人は、お返しとして渡されたものを必ず受け取らないといけないはずだよ」ともっともらしく言った。

あんな少しの手作りチョコレートのおかえしがこのアトリエだなんて。
何を言っても幸村は鍵の返却に応じることはないだろうとゆめみは思った。

「ありがとう精市」

ゆめみは観念して、プレゼントを受け取ることにした。

幸村はさっきよりも更に嬉しそうに笑って「どういたしまして」と言った。

「じゃあ、さっそく始めようか」
「何を?」
「お互いに好きなことを」
「そうね」

幸村はワクワクしながらそう言って、お気に入りのデッサン用鉛筆を出して、水彩画の下書きを始めた。
ゆめみはそっと幸村の椅子にかけられた薄水色のひざ掛けを幸村の肩にかける。そのついでに、気になっていた髪の乱れを整えた。
ゆめみの手が肩に髪に当たると幸村はくすぐったそうにフフと笑った。

「ゆめみがいてくれたら俺は安心できるよ」

幸村がまた描き始めたのを見届けて、ゆめみはまたソファーに座った。沈むところまで沈んだ後、体を横にして楽な体勢でデッサンを続ける幸村を見つめていた。
そして考えていた。

こんな関係は、普通じゃないのかもしれないと。

時々こちらを確認する幸村の視線も、自分が幸村を見つめる目も、友達と呼ぶには過ぎたもののようにも思えた。

それはまるで

『だから私は恋をするのはやめる』

考えの途中で、大都会東京の星空を見ながら、自分で言った言葉が浮かんできた。

そう思って宣言したのは、たったの2週間前だ。
ゆめみは意図してそれ以上のことを考えるのはやめた。

今は幸村が無事に退院出来て、これからも楽しい2人の時間がある、
それが今は一番嬉しいことだと思うことにした。








(221013/小牧)→173

きっと気のせいだわ、きっとそう。

Location 幸村のアトリエ(テニパ参照)





未完成のエトワールtopへ

hangloose