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(帰ってくれないか/手塚•柳)
「蓮二から何もらったか教えてね!」
ゆめこはにかっと笑って、手をひらひらさせて言った。ゆめみも同じように手をひらひらさせながら「うん、またね!」とめいいっぱい笑った。
今日は3月14日ホワイトデー。
放課後、美化委員会の活動の後、ゆめこに会ったゆめみは狼狽した。ゆめこの目が真っ赤で明らかに大泣きした後だったためだ。
その原因が、ゆめこの元カレ毛利がゆめこの教室までわざわざ来て、ネクタイを渡して来たと聞いた時、ゆめみは怒りで頭がどうにかなりそうだと思った。
モウリ、マタナカセタノカ!
毛利はゆめこのチョコを受け取らなかったのに、卒業だからと一方的に使用済みのネクタイを渡して来るなんて、どんな神経をしているのだろう。
ネクタイをもらうと夢が叶うという立海ジンクスからだろうと憶測は立ち、もしかしたら良かれと思っての行動だったのかもしれないが、それでもゆめみは許せなかった。
ゆめみは毛利がゆめこを一方的に振った理由が、元カノ璃々果とよりを戻したからだと勘違いしているため、自分勝手な行動に映っていた。
怒りで顔色が悪くなったゆめみに、ゆめこは「カラオケ行こうよ!パーっと歌いたい気分!」と言い、2人で行きつけの藤沢のカラオケに入ると、ゆめこは失恋ソングをゆめみは呪いの歌を熱唱した。
またゆめこの元気が無くなったらと心配したゆめみだったが、ゆめこは少し吹っ切れたようで、帰り道では笑顔を見せてくれた。
そして、今は帰り道のちょうどゆめみの家とゆめこの家の分岐点だ。
別れて数区間でお互いの家があるという近さであるが、ゆめみはゆめこの背中が見えなくなるまで見送った。
ちょうどゆめこが見えなくなった時だった。
ポタッと何かが頭に落ちたと思ったら、ポタポタポタポタッと続けて地面を濡らした。
それが雨だと気付いて走り始めたゆめみだったが、雨が振るスピードの方が早く、家に帰る頃にはびしょ濡れになっていた。
「お菓子大丈夫かな?」
玄関に入ったゆめみが真っ先に心配したのは、真田からもらったバレンタインデーのお返しだった。今日の昼は柳がホワイトデーのお菓子を配りに行ってしまったので、ゆめみは真田と2人きりだった。
その時にもらった紙袋だ。
中身を開けて見ると、最高級和菓子とらやの羊羹だった。しかも2本。
食べるのが楽しみすぎる。
さすが弦一郎。ゆめみは嬉しくなってにこにこした。
「っくしゅん」
3月半ばとは言え、雨に濡れたら寒い。
ゆめみは震えながらシャワーを浴びるために、お風呂場までつま先歩きで歩いた。
シャワーを済ませると、ゆめみはもう外に出る予定は無かったので、マショマロのようなふわふわ素材の部屋着に着替えた。
室内は暖かいので、上は長袖だが、下はショートパンツだ。
部活終わりに柳がホワイトデーのプレゼントを持って来てくれる予定だが、部屋着で問題ないだろう。
ゆめみは髪の毛をタオルで拭きながら、リビングの1番大きな掃き出し窓の前に立って外を見た。
ザーッと降る雨はさっきよりも強く激しくなっている。
きっと蓮二は予定より少し早く帰ってくるだろうな、とゆめみは思った。
コートでの練習は続けられないだろう。
ピンポーン
玄関のチャイムの音がした。
ゆめみは宅急便だと思った。両親は夕方まで仕事だし、柳が来るには早すぎる。
「はーい」とゆめみは玄関のドアを少しだけ開けた。
いつもその隙間から出された伝票にサインをするのだ。
しかし、その隙間から見えた整った顔に、ゆめみは硬直した。
結論から言うと、彼は配達員では無かった。
左になびく髪に、細い眼鏡の奥の誠実な眼差し、整った顔。
「突然すまない」
そしてその低く心地よい声。
「く、国光くん・・・!?」
手塚国光が玄関の外に立っていた。
ゆめみは突然の出来事に大パニックだ。
予想斜め上どころか、予想さえしていなかった。
しかも突然の雨に濡れてしまったようで、びしょ濡れだった。
「早く中に入って」
とりあえず手塚を中に入れて、タオルを手渡そうとしたが、「ハンカチを持っているから構わないでくれ」と言われる。
しかし、手塚がポケットから出したハンカチも明らかに濡れていたために、ゆめみは背伸びをしてタオルで顔と髪の毛を拭いてあげた。
改めてカッコいい。
濡れてるイケメンの殺傷能力高すぎるとゆめみは思った。
一瞬意識を飛ばしそうになったが、玄関は寒く、このままだと風邪をひかせてしまう。
ここでリビングに通せば良かったのに、なぜかテンパったゆめみは、手塚を2階の自室へと招いた。
大人しくついてくる手塚。
暖かい部屋に入れて一安心したが、バタンとドアを閉めた瞬間、手塚国光と密室で2人きりになったことに気がついて、ゆめみはまたまたパニックになった。
急に自分がブラジャーをしていないことがものすごく気になった。
ゆめみの胸は1年生の時はほとんど無いに等しかったが、2年生で急成長をとげ、今では小さな谷間ができるくらいには大きくなっていた。
ふわふわ厚手の部屋着であるため、透けることは無いだろうが、そわそわする。
「何かあったかいもの持ってくるね!」
とゆめみは宣言して、手塚が返事をする前に、ドアをバタンと閉じた。
手塚国光を部屋に閉じ込めた。やった!
謎の達成感。
ゆめみは階段を降りて、何かに着替えるべきだと思ってバスルームへと向かったが、残念ながら服は自室のクローゼットに全てかけてある。
とりあえず母親が晩ごはん用に準備したほたてスープを90度に設定して温めながら、濡れた髪をドライヤーで乾かす。マルチタスクをこなしながら考えてみた。
しかし、果たしてこの後どうすればいいのか分からない。
まだパニックの最中である。
先ほど別れたばかりの親友ゆめこに、急いで『国光くんが家に来ちゃったどうしよう』と送る。
すぐにピロンと返事が来た。
『押し倒しちゃえ!』
ゆめこの過激な発言に、クスッと笑った。
冷静になれた。
国光くんのことだから、何か目的があるはずだ。
よし!とゆめみは気合いを入れて、父親のスープカップに並々温まったほたてスープを注いで、大急ぎで2階への階段を登る。
ゆめみがドキドキしながらそっと部屋のドアを開けると、そこには手塚国光が座っていた。
ゆめみの部屋はフレンチカントリー風で、奥に天蓋付きベッドがあり、その前には2人掛けの小さめのソファーとコーヒーテーブルが置いてある。
そのソファーに微動だにしていないのではないかと思うくらい、先程座らせた時のままの姿勢で手塚が座っていた。
ゆめみが両手でスープを持っているのを確認すると、まるでゆめみが落とすのを心配するかのように立ち上がってドアを押さえてくれた。
「ありがとう」とゆめみはほっとして微笑む。
そして、手塚の座ってた席の前のテーブルに「おまたせ」とスープを置き、手塚がまた着席したのを見て、ゆめみも隣に座った。
「ありがたく頂くとしよう」
手塚は丁寧にスープカップを手に取ると、それに口付けた。
あっという間にスープを飲み干した手塚は、少し顔色が良くなった気がした。
じっと手塚がスープを飲む様を眺めていたゆめみは、ついに『何か私に用事?』と言おうと決意して、手塚の顔を覗き込んだ。
手塚も同じようにゆめみを見る。
見つめ合う形になると、ゆめみは気になった。
手塚の眼鏡に水滴がついていたのだ。
「国光くん、眼鏡が濡れてる」
ゆめみは良かれと思って、そっと手を伸ばして、手塚の眼鏡を外した。
そして眼鏡の水滴を拭こうとしたが、そのあと更に気づいてしまった。
手塚の上着が濡れてることに。
「国光くん、上着も濡れてるよ」
これではいくら室内でも寒いだろう。
ゆめみは眼鏡をテーブルに置いて、そっと脱がせるようにリードすると、手塚は大人しく上着を脱いだ。
「大変、中も濡れてる」
手塚はその中にロングTシャツを着ていたが、それも濡れていた。
「問題ない」
さすがに手塚はそう言ったが、ゆめみは「風邪をひいてしまうわ」と言った。
ゆめみがあまりに真剣だったので、断りきれずに手塚は大人しくTシャツを脱いだ。
するとどうだろう。
ゆめみが全く予測していなかったことが起きた。
手塚はTシャツの下に何も着ていなかったのだ。
突如として現れた手塚の肉体美に、ゆめみは一瞬理性を失って、凝視してしまった。
なんて素晴らしい筋肉だろう。
数秒凝視した後で、ゆめみははっと我に帰る。
そして大慌てで誤解を解こうとした。
これでは部屋に連れ込んで脱がせたただの変態である。
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの」
慌てて距離を取ろうと立ち上がったせいで、ゆめみはソファーの端に足をもつれさせた。
そのまま足を滑らせる。
倒れる、と思った瞬間、手塚に少し背中を持ち上げられて、ベッドへと誘導された。
倒れた先が床からベッドへと変更されたことにより、ゆめみの体は床に叩きつけられることは無かった。
ゆめみは衝撃に備えて目をぎゅっと閉じた目をそろりと開けた。
すると、すぐ目の前に手塚がいた。
あまりに近くて最初何が起こってるのかわからなかった。
手塚の吐息さえ顔にかかる距離。
その眼鏡の無い素顔が真っ直ぐにゆめみに向けられていて、一度瞳を覗き込んだらもう離すことが出来ない。
手塚の首にかけられた、ゆめみがプレゼントしたネックレスが揺れている。
ゆめみは手塚に押し倒されていた。
手塚の息づかいは荒く、上半身裸という特殊な状況でのこの体制である。
「ゆめみ、大丈夫か?」
そう言った手塚の声は熱を帯びていた。
その瞳には嵐のような荒々しさがあった。
何か反応を返したら、そのまま食べられてしまいそうな、そんな予感がして、ゆめみは体を硬直させたままでいた。
手塚との距離が更に近くなる、ゆめみは少し怖くてまた目を閉じた。
その瞬間だった。
「何・・・をしている」
ガラッと窓が開く音がした。
ゆめみが慌てて上を見上げて、頭の上窓へと視線を移すと、そこには柳が立っていた。
ゆめみの部屋の窓も、柳の部屋の窓も全開である。
柳は怒りを抑えるのに精一杯という様子だ。
その額には数本の青筋がハッキリと立っている。
柳の登場により、手塚はハッとしたように姿勢を正した。
体の自由を取り戻したゆめみは起き上がって、柳を見た。
「蓮二おかえり、早く練習が終わったんだね」
正直言って、助かったと思った。ドキドキ死しそうだった。
ゆめみは努めて普通に振る舞ったつもりだったが、それはほとんど失敗していた。
なぜならゆめみの頬は紅潮していたし、何より手塚の上半身が裸なのが不自然過ぎる。
柳はゆめみの挨拶を聞いた後でも、全く態度を軟化させることは無く、手塚を睨んでいた。
ゆめみは慌てて手塚と柳の間に入る。
「蓮二の洋服貸してくれないかな?国光くんの服が雨で濡れてしまったの、それでね、今着替えてる途中だったの」
手塚は全く悪くないと擁護する姿に、柳は更にイラついた。
しかしゆめみの頼みである。柳は「承知した」と短く返事をすると、おもむろに押入れからロングTシャツを出して、投げて来た。
ゆめみが「ありがとう」と言ってキャッチする。
「体温の低下は万病の元だ、今すぐ着るべきだろう」
あくまで親切を装ってはいるが、まだ青筋は消えておらず、相当怒ってるなとゆめみは思った。
「この柳蓮二との約束、忘れてはいまいな?」
遠回しの嫌味に、ゆめみは「もちろんだよ」と答える。すると柳は素早く部屋を出て行った。
元々柳と約束をしていたのだから、おそらく玄関を回ってこちらに来る気なのだろう。
柳の本当の気持ちを知らないゆめみは柳がなぜ怒っているのかいまいち分かっていなかった。
柳の手塚に対する失礼な態度に少し思うところはあるものの、服を貸してくれたのでいいかと思い直す。
しかし、そのロングTシャツを広げて、ゆめみは2秒ほど固まった。
紫色の下地に、墨のような黒で裸の女性が描かれている。しかもTシャツは無地ではなく、下に行くほど色が薄くなっている。
『ダサすぎる・・・』
柳がこのTシャツを着ているところを見たことがなかったので、おそらく姉の一風あたりから嫌がらせでもらったものだろう。
「どうかしたか?」
そのTシャツを見つめて硬直したゆめみに、手塚は声をかけた。
「あの、これ・・・ちょっとパパの服も探してくるね」
さすがにこれでいい?と提案してみる勇気がなく、ゆめみがそう言うと、手塚は不思議そうに「俺は何でも構わない」と言った。
「え、でも、これだよ?」
「サイズは問題無さそうだが」
「本当にいいの?」
「柳の好意を受け取ろう」
手塚は服のセンスに疎いため、本気で何が問題なのか分からなかった。
ゆめみもどうせ服が乾くまでここで着るだけだしと思い直して、その服を手渡した。
躊躇することなく、それを着た手塚。
しかし、想像より全然悪くなかった。
顔の整った手塚が着ると、変な墨の絵もアートな雰囲気になった。
「イケメンってすごい」と思わず呟いていた。そして、だからこそ髪型が少し違う。
ゆめみは手塚をまたソファーに座らせた後、ドレッサーに置いてあったヘアワックスを少し手に取ると、手を伸ばし、手塚の髪に触れた。
手塚はされるがままになっている。眼鏡をかけていない彼は、少し優しく甘い印象だ。
ゆめみは咎められないのを良いことに、全体的に空気を入れるように揉み込んだ。
左にまっすぐ流れた髪に少しだけ動きを足して、毛束はほぐさず少し大きめにまとめて、ランダムに外はねとニュアンスを組み合わせると、今風なふんわりナチュラルな雰囲気になる。
代官山、歩ける・・・かも??
「かっこいいよ、国光くん」ゆめみは仕上がりに満足して、最後に拭いた眼鏡をそっとかけてあげた。
にっこり笑ったゆめみに、手塚は少し照れたように目を逸らす。
「先程は驚かせてしまったようだな、すまなかった」
急に謝られて、ゆめみはものすごく恐縮した。
だって今思い出しても手塚に非があることなど1つも無く、全部自分のせいなのだ。
「国光くんは1ミリも悪くないよ、あの、倒れそうになった時に助けてくれてありがとう」
ゆめみは恥ずかしそうにしながらもそう言った。
「ゆめみ」
手塚に呼ばれて、ゆめみは顔を上げた。手塚が何かを言おうと口を開いた、その時だった。
ガチャとゆめみの部屋のドアが開いて、柳が入ってきたため、ゆめみの視線は柳へと移った。
柳はいつもはノックをするのに、今日はそれが無かった。しかし先程のような青筋は立っておらず、落ち着きを取り戻していた。
情報を整理する時間が出来たことと、2人の会話を廊下で盗み聞きしたことで、先程のことがただのハプニングだと確信出来たからであった。
「蓮二、いらっしゃい」
ゆめみは柳の顔色を伺いつつ、声をかけると、柳は軽くうなづいただけであった。
無言で部屋に入ってくると、ゆめみと手塚が座っている反対側に正座した。
それが彼の一番楽なスタイルだとはわかっているものの、ここは和室では無いのでなんだか気まずい。
「先に国光くんの服を乾かしてくるね」
その気まずさに耐えきれず、ゆめみは手塚の服を持ってパタパタと部屋を出て行った。
出て行く直前にゆめみは「2人とも、ケンカしちゃダメよ」と言い残す。その顔が可愛いと柳は思った。
しかし立ち上がったことでその白くて細い脚が露わになり、男の前でなんという格好をしているんだと忌々しく思う。
バタン、とドアが閉まると、手塚と柳の2人きりだ。
手塚は無表情で真っ直ぐ前を向いて、微動だにしない。
柳の存在など自分には関係ないといった様子だ。柳への挨拶も服を貸してもらったお礼も無かった。
ゆめみと話している時の印象とは全く異なるが、こちらが彼の素なのだろう。
柳はそんな手塚を興味深く眺めていた。
手塚国光。
中学テニス界の至宝(カリスマ)。
弦一郎さえも負かす実力者であり、全盛期には精市と互角の勝負を見せた。
今は怪我で本調子では無いようだが、それでも唯一関東大会でうちの先輩を負かした。
精市の病気がある今、
おそらく中学テニス界最強の男。
そんな男がなぜゆめみの部屋にいるのか。
柳はいろんな意味でそう思った。
ゆめみの前では落ち着いていた柳であったが、手塚と2人きりになると、どうしても先程の手塚がゆめみを押し倒す場面がフラッシュバックしてしまう。
あのまま俺が乱入しなかったら、どうなっていたのだろう。
最愛の女の子の純潔を奪ったかもしれない。
その憎しみから柳は手を震えさせた。
「帰ってくれないか」
平然を装うつもりが、口から出た声は明らかに怒っていて、柳は自分でも少し驚いた。
手塚がようやく柳を視界に入れた。
「用事を済ませたら帰るつもりだ」
手塚の声には何の感情もない。機械的な態度であり、柳から怒りの感情を向けられてもムッとする様子もない。
自分はこんなに手塚を意識してライバル視しているのに、手塚にはそのつもりが無い、その事実が柳を更に激昂させた。
それが表に出ていないだけで、実際は手塚も気にしているのだが。
柳は考えた。
この理性的な男をどうやってここから追い出そうか。
そして、その頭脳が導き出した答えは1つだった。
「このように来られるのは、ゆめみにとっても迷惑な話だ」
手塚はチラリと柳を見たが、何も言わなかった。その表情は『お前には関係ない』とでも言いたげだ。柳はついに言った。
最終兵器。
「ゆめみは我が立海大付属中テニス部のマネージャーになった」
「・・・あれ?」
ゆめみが手塚の服を浴室乾燥にかけて部屋に戻ると、そこには柳だけがいて、手塚はいなかった。しかも鞄まで無くなっている。
「国光くんは?」
不思議そうに言ったゆめみに、柳は「急用を思い出したようで帰った」とだけ言った。
ゆめみは「本当?」と柳の顔を覗き込む。
柳は明らかに目を逸らした。嘘が下手すぎる。
柳は普段はポーカーフェイスが得意なのだが、ことゆめみのことになるとそれが発揮出来ない。
ゆめみは手塚を追いかけようとくるりと後ろを向いた。
しかし、その腕は柳によって掴まれる。
「蓮二、離して」
「離さない」
その言葉があまりに必死だったので、ゆめみは振り向いて柳の顔を覗き込む。
「ねぇ蓮二、私まだ国光くんの用事を聞いていなかったの、東京からわざわざここまで来てくれたのよ、それをこんな形で追い返すなんて」
続きは言えなかった。
柳がゆめみの頭を自分の胸に押しつけたからだった。
柳は小さく震えていた。
何かに怯えている?
「この柳蓮二と手塚国光、どちらが大切だ?」
ゆめみは抱きしめられた状態のまま、ぱっと柳の顔を見上げた。
その必死な表情に、心が潰れそうになる。
「なんで、そんなこと聞くの・・・?」
ゆめみはか細い声でそう言った。
「私が他の誰かと蓮二を比べることが出来ないこと、わかってるでしょ」
ゆめみの目に涙が溜まった。
「蓮二が一番大切で、大事で、大好きだよ」
ゆめみの言葉にやっと安心した柳は、「すまない」と言って、ゆめみの頭を撫でた。
柔らかい雰囲気に変わる。
ゆめみが少し安心してにこっと笑ったのを確認して、柳はその柔らかい頬をむにっと掴んだ。
「どこかの誰かさんは同様の質問をしてきたのでは無かったか?」
ゆめみはその言葉に、柳の家での年末の大掃除の際に『乾貞治と私、どっちが好き?』と聞いたことを思い出した。
その時は、確かにそうだ。
でもゆめみに言わせてもらえば、乾と自分は幼馴染と言う共通点があるため、不安に思う気持ちも当然だろう。今回のケースとは別次元だと思う。
でも言い争っても仕方がないので、ゆめみは「じゃあお互いに一番ってことで、おしまいでいいよね」と終わらせることにした。
柳も柳でゆめみには言いたい小言がたくさんあったが・・・例えばそもそも手塚を部屋に入れたことなど、全て飲み込むことにした。
柳もここからケンカしても仕方ないと思った。
「ゆめみにプレゼントがあるんだ、受け取ってくれるか?」
いつもの調子に戻って切り出した柳に、ゆめみはにこにこと笑った。
「うん、楽しみにしていたよ」
その時、手塚は江ノ島電鉄に乗っていた。
雨はすっかり止んで、電車の窓から見える湘南の海は夕陽に照らされキラキラと輝いている。
絶景とも言える景色であるが、手塚の心は全く晴れなかった。
『ゆめみは我が立海大付属中テニス部のマネージャーになった』
その言葉は、手塚を失意のドン底に突き落とすには十分な言葉であった。
ゆめみの通う学校が立海大付属だと言うのを知ったのは、1年生のゴールデンウィーク明けのことだった。
病院に行くと、主治医でありゆめみの父親でもあるゆめだ先生からあるお願いをされた。
『国光くん、嫌じゃなかったら、娘に国光くんの名前や学校を伝えてもいいかな?先日の一件で娘は国光くんのファンになったようでね』
先日の一件とは、道に迷って高校生に絡まれていたゆめみを手塚が助けたことだった。
それがきっかけで2人は出会った。
『構いませんよ』
簡単に同意すると、申し訳なく思ったゆめだ先生が、聞いてもいないのにゆめみのことを伝えてきた。
『娘の名前はゆめみ、立海大付属中学校に通っている国光くんと同じ中学1年生だよ、部活は・・・料理部?それは小学校の時の話だったかな、あとはテニスを観るのが好きみたいだよ隣に住んでいる幼馴染がテニス部だからその影響かも知れないけどね』
立海大付属中学校。神奈川県の私立中高大一貫校。
その時はピンと来なかった。
しかし、関東大会にやっと行けた青学に対して、全国大会優勝を果たしたのは、立海大付属だった。
2年生になり、ゆめみの存在感が増すにつれて、ゆめみが立海大付属であることが気になるようになった。
関係ないと思っていたが、ずっと気にしないふりを続けていただけなのかもしれない。
柳にゆめみがマネージャーになることを告げられた時、手塚は自分の中にある恐怖に気が付いてしまった。
ゆめみがもし対戦相手を応援したら、俺は実力を出し切れるのだろうか。
という不安。
昨年の関東大会準決勝、立海大付属VS青学の試合では、ゆめみの姿は見えなかったが、その時からずっと怯えていた。
このままでは青学を全国に導くという使命に支障をきたすことになる。
と手塚は思った。
『手塚君、キミには青学テニス部の柱になってもらいます』
『俺達の代では絶対に青学を全国へ導いてやろうぜ』
いつかの先輩との約束、友人との約束を思い出す。
ずっとその約束を果たすためにここまで1日も休むことなく努力を続けてきたというのに。
『国光くんのテニスは海みたいだったよ』
ゆめみの一言を思い出す。
東京の住宅街で隣を歩きながら言った彼女の言葉。
『広い広い海、気付くと国光くんに浮いてるみたいな気持ちになった』
その一言で、練習の辛さや苦しみ、その全てが報われた気がした。
愛おしい、抱きしめてしまいたい。
心からそう願う。
手塚は先程のことを思い出しながら、柳の中断が無ければ止まらなかったかも知れないと思った。
ゆめみとは距離を置こう。
それは苦しい決断であったが、同時にゆめみも同じことを考えているのだろうと思えた。
2月に会った時の『バイバイ』と『好きだった』はこれからライバルになるために、言った言葉だったのだろうと、手塚は1ヶ月越しに答えを見つけた気がしたのだ。
実際にはゆめみはまだマネージャーを完全に承諾した訳では無いし、2月の言葉も失恋したと思って言った言葉だったのだが、手塚はそれを知らない。
全国大会が終わったら。
その時は、想いを伝えよう。
だからその日までこの気持ちは封印しよう。
手塚はぎゅっとネックレスを掴む。
ゆめみにもらった、ドイツ語で勝利と書かれたネックレスだ。
『終点鎌倉ー』
距離を置くと決意したばかりなのに、電車が鎌倉駅に到着すると、またゆめみを思い出した。
今日のゆめみも可愛かったと思い出しては口元が緩む。
いつも白うさぎみたいだと思ってはいたが、また白い服、さらにモコモコの服を着ていた彼女は、いつにも増してうさぎみたいだった。
ゆめみの部屋は良い香りがして、暖かかった。
俺に何度も触れたその指は細くて滑らかで気持ちが良かった。
手塚は思い出しながら、今日の想い出があれば、半年くらいは頑張れると思った。
鎌倉駅でJRに乗り換える。
バカンス気分の江ノ電とは異なる、東京に続く電車は自分の戦場のように思えた。
手塚の顔つきが変わった。
この日から手塚は今まで体のためにセーブしていたことを忘れたかのように、厳しいトレーニングに身を置くことになる。
その日の夜、母親と父親が帰って来て、珍しく家族3人での夕食となった。
ホワイトデーと言うことで、ハート型のお皿に乗せられたグラタンと、ハート型のにんじんが乗ったサラダと、ホタテスープでささやかなパーティーをした。
ほたてスープが少なくなっていたことについては、お腹空いてちゃってさ、と苦しい言い訳をした。
夕ご飯の後、自室に戻ったゆめみは、机の上に乗せられたマカロンタワーケーキを眺めてにこにこした後、スマホを出して撮影した。
それはホールケーキの上にマカロンで出来たタワーが乗っており、とにかくめちゃくちゃ可愛い。しかしどうやって食べたらいいかわからない品物だった。
カシャ
そしてゆめこに『蓮二からのホワイトデーのお返し、マカロンタワーだった!食べきれないから明日手伝ってね』とハートを添えてメッセージを送る。
ゆめこからは『蓮二、相変わらずズレてる・・・』と返事があり、ゆめみはどう言う意味だろう?と疑問に思った。
ゆめこからしたら、ホワイトデーはせっかくプレゼントをあげられる機会なのだから、もっとテーマパークのペアチケットとかそういう想い出つくる系か、せめてアクセサリーなどの形に残るものにすれば良いのにと思っていたのだった。
『手塚くんは何の用事だった?』
ゆめこから続けてメッセージが送られて来て『用事を聞く前に蓮二が来てさ、どうやら蓮二が追い返しちゃったみたい』と送ると、ゆめこからまたすぐに『ま、じ、で!?修羅場じゃん』とウキウキするスタンプが送られて来て、ゆめみはふふふと笑った。
太陽みたいに明るいゆめこに、今日のハプニングを伝えたら大笑いしてくれるはずだと思って、楽しくなる。
とその時、テーブルの下に小さな箱が置いてあることに気がついた。
丁寧にラッピングされたその箱にはピンク色のリボンがついている。
確認せずに開けるのもどうかなと思ったが、自室に置いてあったものだ。
もしかしたら父親からのプレゼントかも知れないと思って、リボンを解いた。
中に入っていたのは、スノードームだった。
スノードームではあるが、中は冬ではなく、花畑だ。
小さな女の子と森の動物達が花束を持っており、振ると小さな花とキラキラの粒が舞う。
その粒はまるで花びらのよう。
「綺麗・・・」
まるで春が来たような、温かな気持ちになる。
そのスノードームはオルゴールになっていた。クルクルとぜんまいを回せば、音楽が流れ始めた。
その曲は、エリーゼのために。
ドイツ人のベートーヴェンが作曲した、誰もが知るメロディである。
明るくて愛らしいテンポが続くが、途中で緊張感のある低音の部分もある、二面性のある曲でもある。
その曲を聞きながら、これは国光くんからの贈り物だなとゆめみはストンと確信した。
きっとこれを届けるためにわざわざ来てくれたのだろう。
バレンタインのお返しのつもりで、きっと私がスノードームと花が好きだからと選んでくれたのだろう。
律儀な彼を思い出して、ゆめみはくすりと笑った。
少し揺らせばまたたくさんの花びらがスノードームいっぱいに舞う。
「綺麗だな」
クリスマスにもらった粉雪舞うスノードームを見ていた時は、悲しい気持ちになったのに、この春そのもののようなスノードームは、ただただ嬉しい気持ちになるなと思った。
次に会った時には、大切な友達として、きっとまた普通に笑えるだろう。
ゆめみはお気に入りの良い香りのする花柄の便箋を出して、手塚にお礼の手紙を書いた。
完成した後、どうやって届けようか迷った果てに、母親に手塚が来たことを打ち明けることにした。
お風呂に手塚の服が干してあったので、すでに怪しまれていた。
母親の手によって、手塚の服は綺麗に洗濯され、家に送り届けられた。
(221019/小牧)→175
花びらいっぱいのスノードームが春を届けてくれた。