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(まだ花も恥じらう乙女なのに/徳川)
「もう、本当にやめてください・・・」
ゆめみは頭のてっぺんから、足のつま先まで赤くなっている気がした。
恥ずかしさから顔を覆いたいのに、そうしてばかりもいられないので、顔を隠した指の合間からまたチラリと徳川を見た。
しかしすぐに「きゃあっ」と悲鳴を上げた後、目を閉じて「やっぱり私には無理です・・・」と小さな声で言った。
ゆめみの拒絶反応に、徳川カズヤはショックを受けた。しかしそれを悟られないようにいたって普通の声で問う。
「俺の裸はそんなに醜いのか?」
ゆめみはふるふると首を振った。
「その逆です!素敵な筋肉過ぎて直視出来ません!」
ここは都内のパーソナルジム。
完全個室のため、徳川とゆめみの2人きりだ。
ゆめみはトレーニングウェアを着用していたが、徳川は上半身裸であった。
恥ずかしがって縮こまるゆめみに、徳川はそっと近付いた。
「ゆめみちゃん、俺を見ろ、全てはそこからだ」
ゆめみは頑張って手を降ろした。
目の前に徳川の鍛え抜かれた上半身、筋肉がドーンと現れて、また顔を手で覆いたい衝動に駆られる。
しかし今度はその手を徳川に繋がれて出来なかった。徳川の手は優しくも強く、全く動かすことが出来ない。
「カズヤくん・・・お願い・・・」
ゆめみは潤んだ瞳で徳川を見上げたが、徳川は首を左右に振った。
「私、まだ花も恥じらう乙女なのに・・・」
ゆめだゆめみ、14歳、ただいま大ピンチです。
なぜこんな状況に陥っているのか、それを説明するには、ゆめみが祖父の家に到着したその日に遡る必要がある。
ゆめみは祖父からスポーツ医学を学ぶため、東京に来ていた。金曜日の祝日に移動し、金曜日の夜は祖父と祖母、父親の兄夫婦と息子の弓弦(ゆづる)と歓迎の夕食を取った。
今考えると、それが『最後の晩餐』になったワケだが。
その翌日から、鬼先生(祖父)による地獄のような日々が始まった。
5時起床、7時まで休まずスポーツ医学の本を音読、7時から21時まで祖父による指導とテスト。
その後は30分間入浴の時間が入るものの、21時半から深夜まで、勉強したことの復習。
食事をとる時間は無く、朝、昼、晩はおにぎりと少しの漬物が学習中に回ってきて、それを掴みながら授業に取り組んだ。
覚えることが膨大すぎて、トイレの時間さえも惜しいと思えるほどであった。
人間の筋肉の筋を表した人体模型ハベリエットくんと毎日一緒にいるようにと指示された。授業中は隣に、寝る時も一緒だ。
最初は不気味でしかなかった人体模型も、だんだん愛着が沸いてくるから不思議だ。
そんな日々が丸2日続いた週明け、月曜日のこと。
「次!」
ゆめみは祖父の家の和室で、祖父の授業を受けていた。
目の前にはプロジェクターが降りており、そこに筋肉のイラストが映し出される。
ゆめみが正座したまま「はい!」と手を上げてそのまま間髪入れずに「回旋筋腱板!」と言った。
見事言い当てたようで、祖父は満足気な表情を浮かべる。
反対にゆめみの隣に座っていたゆめみの従兄弟の弓弦は悔しそうに顔を歪めた。
しかしすぐに立ち上がり、スクワットをし始める。
「炎症朱、損傷緋色の断裂は紅(くれない)、痺れたんぽぽ、疲労すみれ」
謎の歌を歌いながらスクワットを10回しなければならないという罰ゲームである。
ゆめみと弓弦は、この最悪な状況の唯一の同志であり、同時にライバルでもあるのだ。
次に映し出されたスライドに、今度は弓弦が「大腿四頭筋!」と先に答えて、今度はゆめみがスクワットをする番であった。
2人の知識はほとんど拮抗しており、後はいかに早く言うかという世界に突入していた。
その後筋肉の働きについての問題に変わりはしたものの、同じようなことを2時間ほど繰り返した。
その後に、ついに祖父は立ち上がった。
「では次のフェーズに行くぞ!!」
この日もまたお昼ご飯はおにぎりであった。
ゆめみはガッカリしながらもせめてもといくらおにぎりを選んで食べた。
それを頬張りながら、向かったのは、港区にある私立の学校だ。
中等部と高等部に分かれている歴史のある学校で、祖父の母校であり、弓弦の通う学校でもある。
「よくいらっしゃいました、ゆめだ先生」
学校に着くと、理事長自らが出迎えてくれた。ゆめみが不思議そうにしていると、弓弦が「じぃちゃんが毎年かなりの額寄付してるからさ」と耳打ちして納得する。
ゆめみと弓弦は祖父について、応接室へ通された。上座から祖父、ゆめみ、弓弦の順に並んで座る。
「先日の発表は拝見させて頂きました、お孫さんにご自身の知識を伝授されるとのこと、誠に素晴らしいと思います」
「これから数日の間、孫たちが自由に高等部の部活動を見学出来るよう計らって欲しい」
「もちろんでございますとも!今案内係の生徒が参りますのでお待ちください」
理事長と祖父が話をしている中、ゆめみは部屋の中を見渡した。歴代の校長がズラリと並び、生徒たちが獲得したトロフィーやら表彰状やらが所狭しと並んでいる。
その中で、ゆめみは見つけてしまった。
『徳川カズヤ』と書かれたペナントの付いたトロフィーを。
「テニス・・・?」
それはテニスの新人戦の優勝トロフィーであった。
ゆめみは驚いた。
まさかあの徳川のしているスポーツがテニスだったなんて。そして、新人戦優勝するくらいの実力者だったなんて。
夜電話するといつもトレーニング中のようだったので、相当熱を入れているスポーツがあるんだろうなとは思っていたものの、それがテニスだということをゆめみはこの時初めて知ったのだ。
このことを誰かに伝えたい。
ゆめみは弓弦の方を見た。
すると、コンコンとドアがノックされ、ゆめみの今まさに考えていた人物が入ってきた。
綺麗な漆黒の髪をなびかせて、高い身長にスラリとした姿勢のいい佇まい。
育ちが良いと一目でわかる彼は、ゆめみは見ると僅かに目を見開いた。
徳川カズヤ。その人だ。
「彼は高等部生徒会長の徳川くんです」
理事長は祖父にそう説明した後、徳川に「彼の願いは極力叶えてあげてくれたまえ」と耳打ちした。
そして、理事長は部屋を出て行った。
徳川カズヤは何も動じず、一礼すると席についた。高校一年生のはずだが、その振る舞いはまるで最高学年のようだ。
まっすぐに祖父を見つめる。
祖父は「キミが徳川カズヤ、徳川大使の息子だね」とニヤリと笑う。
徳川は怯むことは無い。
「目的は何でしょうか?部活動を見学したいとは聞いておりますが、目的を教えて頂ければより良い提案が出来るかと」
徳川の質問には答えず、祖父は品定めするようにジロジロと徳川を見た。
そして「良い体してるね、キミ」と言う。
それはまるでセクハラのようで、困惑する徳川を前に、ゆめみの方が我慢ならなかった。
「おじいちゃん、カズヤくんに失礼だわ」
急に声を上げたゆめみに、祖父は驚いてゆめみを見た。
「お前達、知り合いなのか?」
祖父の問いにゆめみはまた困ってしまう。前回もこんなことがあった気がするが、ゆめみは徳川を説明する言葉を持ち合わせていなかった。えっと、とすぐに答えられないゆめみに、弓弦がさらりと答えを言った。
「婚約者らしいよ」
前回ゆめみと徳川の関係を疑った弓弦は、ゆめみの父親経由で2人の関係を突き止めていた。
ゆめみも徳川もこれには言葉が詰まる。
なぜならそれはまだ正式に決まったことでは無い。
「ほっほっほ!そりゃーいい!」
ゆめみと徳川が否定しなかったことを同意と捉えた祖父が大喜びでそう言った。
「徳川大使の息子よ、お前その体はプロの選手を目指しているな、それもテニスの」
徳川は「はい」と返事をした。
「テニスは怪我の多いスポーツだ、多くの選手が怪我を原因に第一線から退いておる」
祖父はそう良いながら、ゆめみの肩に手を置いた。
「この娘、ゆめみはお前さんにとって金の卵になるかもしれん」
「具体的に俺は何をすれば良いのですか?」
「頭の回転が速い、気に入った、これから3日間、ゆめみに裸を見せるのだ」
ハダカ・・・?
ゆめみは完全に空耳だと思った。
「本物の筋肉の動きをゆめみに見せてあげて欲しいのだ、お前さんのその素晴らしい筋肉をな」
「わかりました」
すぐに承知した徳川に、ゆめみは空耳で無いことに気がついた。
裸とは恥ずかしすぎる。
「わ、私にはハベリエットくんがいるから大丈夫だもん」
ゆめみはそう言ってみたが、祖父にすぐに「阿呆か、動く筋肉を見せてもらうのだ、どんな動作をした時に筋肉がどう動くのか、それを知る必要がある!」と喝を入れる。
徳川は1人「ハベリエットとやらの筋肉はそんなにすごいのか・・・?」と勘違いしていたので、弓弦が「人体模型だよ」と教えてあげていた。
混乱しているゆめみを横目に、弓弦は立ち上がって、応接室のドアを開けた。
「筋肉を観察すれば良いんでしょ、俺は水泳部と新体操部を当たるよ、野郎の体を見ててもつまらないしね」
そう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。
ゆめみは徳川に連れられて、パーソナルジムに行くことになった。
そうして、冒頭のシーンに戻るわけだ。
「カズヤくん・・・お願い・・・」
ゆめみは潤んだ瞳で徳川を見上げたが、徳川は首を左右に振った。
「私、まだ花も恥じらう乙女なのに・・・」
ゆめみは気がつけば壁際に追い詰められていた。
これは正真正銘の壁ドンである。
しかも、徳川とゆめみの身長差は30センチ近くあるため、徳川の胸板がゆめみのすぐ目の前にくる。
綺麗な筋肉だ。
うっかり見惚れてしまうがすぐにまた恥ずかしくなって目を閉じた。
本当は手で顔を覆いたいが、両手首を徳川に抑えられているため、それはできない。
オーマイゴット。もうだめだ。
「こんなハレンチなことしたら、結婚出来なくなっちゃうよ」
ゆめみは消え入りそうな声でそう言った。
徳川がそんなゆめみの耳元で囁いた。
「俺の嫁になればいい」
徳川はいつでも真面目だ。大真面目だ。
ゆめみはかぁぁと顔がさらに赤くなるのを感じた。
そして、へなへなと座り込む。
いつのまにか手は離されており、自由だ。
座り込んだゆめみの頭を徳川は屈んでポンポンと撫でた。
「いい子だね、ちゃんとお勉強をするんだよ」
・・・真面目、だよね?
徳川の口角は少し上がっており、もしかしたらからかわれたのかも知れないと思った。
とりあえずちゃんと勉強しないといけないのは事実だ。
夕方から夜にかけてはまた祖父の家でテストなのだ。年下の弓弦に負ける訳にはいかない。
ゆめみはもういろいろ諦めて、徳川を見つめることにした。
セクハラだと言わずに、見せてくれるというのだから、見てあげようじゃないか。
さっこい、素晴らしい筋肉。
座り込んだ体勢のまま、体育座りをした。
じーっと見ていると、改めてすごい筋肉だなと思った。昨年新人戦優勝するだけのことはある。
男の人の裸なんて、こんなに凝視したことはもちろんないが、それでも徳川の体が特別の中の特別なのは一目で分かる。
ゆめみが見ている。
徳川はストレッチをしながら、全身にゆめみの視線を感じていた。
チラリと見ると、壁際に追い詰められたゆめみが小さくなって自分を一心に見つめているのが見えた。
可愛い。
その姿はまるで子リスだなと思った。
大きな瞳と、ポニーテールにした髪も子リスっぽさを掻き立てている。
トレーニングに他者など不要で、むしろ邪魔な存在だと思っていた。
しかし、今はどうだろう。
ゆめみがそこにいることで、今まで感じたことのないやる気が溢れてくるのを感じる。
女の子って可愛いんだな、不思議な力があるのかな、と思っているとどこからともなく「ぐー」と音が聞こえた。
この可愛い音はまさか。
徳川が振り向いてゆめみを見ると、ゆめみは泣きそうな顔になる。
「ゆめみちゃん、お腹が空いているのかい?」
徳川の言葉にゆめみはコクンと頷いた。
恥ずかしながらも、ゆめみはここ数日の酷い食生活について話をした。
「そうか、それはあまり良いことではないな」
徳川はスマホを出して、ツータップで何かを注文した。
そして、ゆめみにスマホを渡して「すぐに到着するからね」と言う。
スマホ画面を見ると、バイクに乗った男の人のアイコンがこちらへ向かってくるのが見えた。
これが流行りのアーバンイーツか。
渋谷からここ白金台までは本当にすぐだ。
ピロンと画面が変わった。
どうやらもう到着したようだ。
「ゆめみちゃん取りに行けそうかい?」
「はい!」
ゆめみは嬉しくなって、パーソナルジムの一室を出た。どうやらすでにジムのトレーナーさんが受け取ってくれたようで、ゆめみに手渡してくれた。
それは出来立てほかほかの鷄ハム丼だった。
嬉しい。
スキップしたいくらいの気持ちで部屋に戻ると、徳川がテーブルとソファーをセッティングして待っていた。
『PARIS』と書かれたTシャツを着ている。
ゆめみはほっとした。
「これ、食べてもいいんですか?」
念のため確認すると、徳川はクスリと笑って「もちろんいいよ、奪ったりしないから」と言って、ゆめみを席へと促した。
相当必死だったのかもと思う。
ソファーに座って、鷄ハム丼を袋から出す。
両手を合わせて「いただきます」と言って、食べ始めた。美味しい。
こんな普通のご飯はひどく久しぶりな気がした。
徳川はゆめみの隣に座って、ゆめみが食べるのを少し見守っていたが、ふと何かを思い出したかのように、カバンから大きな筒状の何かを出した。
「何ですか?」
「プロテインだよ」
「・・・筋肉ムキムキになるやつですよね?」
ゆめみの率直な意見に、徳川はハハと笑う。
「プロテインはタンパク質だ、タンパク質はゆめみちゃんにも必要なものなんだよ」
徳川はゆめみの左手を触って「ゆめみちゃん手を握って」と言う。ゆめみが素直に握ると徳川は
「これが一食に必要なタンパク質の量だ」と言った。
ゆめみは驚いた。そんなこと考えてみたことが無かったからだ。
学校の授業や、母親との食事の中で、栄養バランスについては知っていた。
タンパク質が体を作ることも知ってはいたが、その量までは意識したことがなかった。
「パスタ食べたい日はどうしたらいいんだろう」
ベーコンや海鮮が使われているものもあるが、自分の握りこぶしほど入っているものは珍しいだろう。
徳川は少し考えて「一緒に鶏ハムサラダはどうだろう」と提案した。その後鶏ハムの素晴らしさについて話し出した徳川に、ゆめみはカズヤくんは鶏むね肉が好きなんだろうなと思った。
ゆめみのために注文したのも鶏ハム丼だった。きっといつも食べているおすすめを注文してくれたのだろうと思うとほっこりした気持ちになった。
「それでもなかなかタンパク質を摂取出来ない時もあるだろう、そんな時にプロテインがおすすめだよ」
徳川はいつのまにかプロテインシェイカーでプロテインを作っていた。
「飲んでみるかい?」
ゆめみは中身を確認したが、それはドロリとしていて、美味しくなさそうだ。
「今日はいいかな」
遠慮すると、徳川は「そうか、たしかに初めてだと抵抗があるかもしれないな」と少し考え込む。
「料理にかけてみるのはどうだろうか?」
ものすごく良い考えを思い付いたという顔でゆめみを見る。
「味、変わりませんか?」
「そんなには気にならないよ」
「じゃあ、少しだけ」
徳川の勢いに負けて承諾すると、徳川は嬉々としてゆめみの鶏ハム丼の一部にその白い粉をかけた。
ゆめみは食べてみて驚いた。
不味すぎる。
ゆめみがあまりに『不味い!』という顔をしたので、徳川は「どうやら口に合わなかったようだね」と言った。
その後、徳川のトレーニングは再開された。
その日の夕方、ゆめみと弓弦はまた祖父の家の和室に戻って来ていた。
目の前にはプロジェクター。
昨日までは、筋肉のイラストを見てその部位を当てるものであったが、今日はさらにレベルが上がり、実際の人間が走ったりスポーツしたりする動画に変わっていた。
その動画で動かされている筋肉の名前を当てると言うもので、ゆめみと弓弦も最初は苦戦したが、それも2時間もすればほとんど早押し競争のような形で言い当てることが出来るようになる。
またここでもゆめみと弓弦の知識量は拮抗していた。
「今日はここまで!2人ともよくやった!」
祖父は珍しく誉めてくれた。
「また明日は次のステージに進めそうだな、明日は動画を見て、その体に何が起きているのかを言い当ててもらう」
ゆめみはその言葉に驚いた。そんなことがわかるようになるのか疑問だったからだ。
覚えた筋肉の部位を答えるのとは訳が違い、いきなり難易度が上がった気がする。
しかしそう思ったのは、ゆめみだけだった。
「じぃちゃん、俺もうできるよ」
弓弦がそう言ったのだ。
「ほぅ」と祖父は試すような顔をした。そして「やってみなさい」と言い、先程見たアスリートがスポーツをしている動画を再度流した。
「大臀筋の痺れ」
「内側広筋の炎症」
「外腹筋の疲労」
ゆめみには何のことか分からない。
しかし、次々と変わる動画に、弓弦は迷うことなく淡々と答えのみを答えていく。
そして祖父はそれに対して何も言わなかった。
それは正解の意味だとゆめみは理解した。
何が起こっているのかわからないが、弓弦は何らかの方法で筋肉の状態を正しく判断しているのだ。
全ての動画が再生されたあと、祖父は「他言無用だ」とだけ言った。
その表情は満足気であり、そして少しだけ寂しそうだった。
解散の流れとなり、祖父に続いて弓弦が立ち上がる。
「ゆづ、ちょっと待って」
ゆめみの言葉に、弓弦は振り返った。
弓弦はゆめみをまっすぐに見つめる。「どうして分かったの?」とゆめみが聞いた。
「"見た"んだよ」
弓弦の言葉にゆめみは首を傾げる。
「これ以上は言えないんだ、ごめん、でも姉さんも持っていると思うよ」
弟のように思っていた従兄弟を遠く感じた瞬間であった。
その翌日も、ゆめみは徳川をただ見つめていた。
これは何の罰ゲームかご褒美か。
ここは学園内の屋内テニスコート。一面しかないコートで、徳川が貸切にしてくれたらしい。
昨日とはうって変わって広い空間ではあるが、相変わらず2人きりだ。
その理由はもちろん、徳川が上半身裸でいるためである。
『ここは海だ、砂浜だ』
ゆめみは頑張ってここがテニスコートでは無いと思い込もうとした。
ちょうど明日から親友のゆめこがハワイなので、ゆめみはハワイのビーチを想像してみる。
そうすれば、上半身裸の彼も特に違和感が無いはずだ・・・たぶん。
ずいぶんと長い時間、彼は1人でサーブの練習をしていた。
しかも何故か1球では無く、10球同時に打って、その打球は同じ場所に痕を残した。
徳川のテニスを見たのはこれが初めてであったが、もはやゆめみの知っているテニスの概念を覆すほどの実力だと思った。
全国優勝した立海大附属のテニスがおままごとのようにさえ思える。
学年差があることに加えて、それだけ徳川のテニスが群を抜いていた。
しかしゆめみには、何がすごいのかは分からない。ただただ見惚れているだけであった。
手塚のテニスを『海』、幸村のテニスを『世界の理』と表現したゆめみだったが、徳川のテニスは何と言えばいいのだろう。
静けさと荒々しさが共存する、圧倒的な何かである。ゆめみはそれを知ってる気がするのに、すぐに言葉が出てこなかった。
それがまるで喉に引っかかる小骨のように感じた。
徳川は籠いっぱいだった全てのボールを打ち込んだ後、ゆめみの座るベンチへと戻って来た。
ゆめみは慌ててベンチに置かれてあったタオルとドリンクを手渡す。
「お疲れ様です」
徳川は「ありがとう」と受け取ると、ゆめみの座るベンチの隣に座った。
ゆめみはカバンからバスタオルを出して徳川の肩にかけてあげた。
「体を動かしていない時に冷やすと良くないですから」
そう言ってにこっと微笑むゆめみ。
ほんわかした不思議な気持ちになるなと徳川は思った。
徳川は少しだけゆめみを見つめていたが、そんな自分に気が付いて慌ててドリンクを飲んだ。
昨日から何かがおかしい。
ジャージ姿の、子リスのようなこの子が可愛く見える。
徳川は慣れない感情に振り回されていると感じていたが、なぜか悪い気分ではない。
自分から視線を外した徳川だったが、少しするとまた隣に座るゆめみを見た。
彼女はもう徳川を見てはいなかった。どこか空を見て考え込んでいるようにも見えた。
そう言えば、昨晩安否確認のための電話の時も声が落ち込んでいるようだったな。
「何か悩みごとでもあるのか?」
徳川はどう励ますのが適切かあれこれ考えた結果、素直に聞くことにした。
人の顔色を伺うのは、海外生活が長かったせいか苦手だという自覚もある。
ゆめみは徳川を見て、パチパチと瞬きをした。
少し驚いたようだ。
「私もよくわかんないのですが聞いてくれますか?」
頷いた徳川に、ゆめみは少し安心したように話し出した。昨日の夜の話だ。
一緒に勉強してきて、同じレベルだと思っていた弓弦に先を越されてしまったことだった。
「負けたことが悔しいのか?」
「私も最初はそう思ったんだけど、ちょっと違う気もしていて」
ゆめみは考え込む。
ちょっとの差で負けたのなら、悔しいと思うのかもしれないが、弓弦の昨日のアレは次元の違う能力であった。
なぜ分かるだろうと不可解で、それから。
「羨ましかったのかも・・・?」
ゆめみは徳川と話しながら、自分の本当の気持ちに気付いた。
「ゆめみちゃんはどうして医学を学んでいるんだい?」
ゆめみは徳川の目を見た。
徳川の眼差しは優しく、まるで導くようだった。
考えがまとまらず何も言えないゆめみに、徳川はそっと手を伸ばして、くしゃっとゆめみの頭を撫でた。
「そんな不安そうな顔はしなくていい、ゆめみちゃんは到達できる予感がする」
徳川はそう言うとラケットを持って立ち上がった。
今度は壁打ちをするようだ。
この屋内テニスコートの一面は壁打ち用に壁が高くなっている。
ゆめみはそんな徳川を見ながら、自分の頭を触った。徳川に触られたところがまだ暖かい気がした。
本当に頼れる人だな、と思う。
彼ができると言うのなら、できる気がする。
ゆめみはふぅと息を吐いて、立ち上がった。
なんだか全身で呼吸したいと思った。
『ゆめみちゃんはどうして医学を学んでいるんだい?』
徳川の言葉を心の中で反芻する。
私は、どうして医学を学んでいるんだろう?
医学を学びたいと思ったのだろう?
医者にはなりたくないとずっと思っていた。
だから、医者になりたくて学びたい訳では無い。
今回の件は強制的だったけど、憂鬱だなとは思ったけど、絶対嫌だとは思わなかった。
それは、私の知識が、能力が・・・
屋内なのに、風が吹いた気がした。
ブワっと前からまっすぐ風が吹いて、そして、誰かの後ろ姿が見えた。
それは知ってる後ろ姿だった。
この冬中ずっと見つめてきた、祈ってきた、懸命に運命に抗おうとする彼を。
あぁ、そうか、私。
『精市の役に立ちたいと思ったんだ』
ゆめみの頬を一筋の涙が溢れる。
それはすごく、すごく強い願いだった。
ゆめみは目を閉じた。
なぜ今まで気づかなかったのか、不思議だと思うくらい。
ずっとそう思ってたから、昨日弓弦の力を見せられて、羨ましかったのだろう。
『あの力があれば精市の願いを叶えてあげられるかも知らないのに』
そのためなら、なんだってできる、ゆめみはそう思った。
生まれて初めて、力が欲しいと思う。
ゆめみはもう一度だけ深呼吸をして、目を開いた。
真っ先に徳川が見える。
そして、ゆめみは世界が変わっていることに気がついた。
「カズヤくん!」
不思議そうにする徳川に、ゆめみは言った。
「私、わかっちゃった」
「外に出てもいい?もっとたくさんの人を見たいの!」走り出しながらそう言ったゆめみに、徳川は慌ててTシャツを着た。
ゆめみは屋内テニスコートの建物を出た。
外には人工芝生のグランドが広がっている。
あっちの生徒はサッカーをしていて、こっちではテニスの練習をしている。
それを応援する演奏楽部の人々。
全身に鳥肌が立った。
分かる。
たくさんの人の筋肉の動きに合わせて、色がチラチラと見えた。
『炎症朱、損傷緋色の断裂は紅、痺れたんぽぽ、疲労すみれ』
ゆめみは祖父から教え込まれた謎の歌の理由がようやく分かった。
それは色を表しており、色が状態を表していた。
「うぇーん」
ゆめみは思わず大声で泣いた。
徳川が慌ててゆめみを抱き寄せる。
ゆめみは涙が止まらなかった。
嬉しかった。
この能力があれば、きっと彼の役に立てるだろう。
ゆめみはしばらくの間泣き続け、徳川はそんなゆめみをあやすのに一生懸命だった。
(221026/小牧)→180
ゆめだ家に伝わる『天彩葉の目』(あまいろはのめ)、その能力が開花した瞬間であった