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(熊狩りでも行くんか?/君島・3強)

「・・・あれ?」


ゆめみは足を止めた。
いつのまにか、住宅街へと迷い込んでいた。

都会ってラビリンス。


3月最後の金曜日。
1週間の祖父の家での医療修行を終えたゆめみは、幸村の家へと向かうため、湘南行きの電車に乗ろうとしていた。
なので、この状況は何かがおかしい。

徳川に地下鉄の改札に続く階段の前まで送ってもらって、ゆめみは確かに六本木駅の改札へ向かう階段を降りたはずだ。
しかし、チャットや電話に夢中になるうちに、改札を通り過ぎて違う出口の階段をまた上ってしまっていたのだ。

いつもはJRを使って移動していたので、メトロに乗り慣れていなかったゆめみは、駅の構造を全く理解していなかった。

「えっと・・・?」

ゆめみはもう一度きょろきょろと辺りを見渡してみるが、改札らしきものは見当たらない。
高級そうなマンションが立ち並ぶ住宅街だ。

道行く人に道を尋ねようにも、誰も歩いて来ない。
ゆめみはスマホで地図アプリを開きながら、とりあえず1番近いマンションの建物名を確認しようと、マンションの入り口の階段を登った。そして、そっとガラス張りのエントランスの中を覗き込む。

マンションのエントランスは広く、ゆったりとした歓談スペースと、輝くシャンデリア、趣味よく配置された植物。
さすがは六本木のマンションである、思わずその豪華な設備に見惚れた。
ぼーっとしていると、奥に控えていたコンシェルジュが明らかに不思議そうにこちらを見ていて、ゆめみは慌てた。

よく考えたら不審者かもしれない。

思わず後向きに後退りしたゆめみ。
と、その時。
なんと左足のヒールが地面を踏み外した。

後ろに倒れる・・・!!

ゆめみはなんとか踏み止まろうと右足を回転させて、なんとか前を向いた。
しかしそこは階段を数段上がった先のことである。ゆめみの右足のハイヒールは、地面を踏めずに宙に浮いた。

もうだめだ、落ちる。
ゆめみは衝撃に備えて目を閉じた。

普段履き慣れない12センチヒールがカランカランという音を立てて階段を落ちていった。
しかし、ゆめみが同じように落ちることは無かった。
力強い腕に支えられていた。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

耳元で聞こえた男性の声に、ゆめみは恐る恐る目を開けた。
誰かの胸がドアップで見えて、どうやら通りすがりの親切な男性に助けてもらえたようだと理解した。

まだ心臓がドクドクしていた。
間違いなく受け止めてもらえなければ大怪我した場面である。

「どこかお怪我でも?」

親切な彼は、顔を上げないゆめみを気遣って下を向く。ゆめみは慌てて顔を上げた。

その瞬間。
意地悪な神様の仕業だろうか。
彼が下を向くのと、ゆめみが上を見るタイミングがちょうど重なった。

ゆめみの唇と、その彼の唇が重なった。

つまり、ゆめみはキスしていた。

「ご、ごめんなさい」

ゆめみは慌ててきちんと自分の足で立とうとした。しかし、右足が裸足であるためによろける。また彼に抱きつく形となり、ゆめみはもう一度「ごめんなさい」と言った。

穴があったら入りたいとはこのことだ。

申し訳無くて仕方ないが、ゆめみは確認するために、ついに見上げることにした。

男の人だった。
17歳くらいの高校2、3年だろうか。
ホワイトアッシュの髪を左に流し、白いフレームの中の瞳は、ゆめみを見定めるように揺れていた。
肌が透き通るかのように滑らかだ。

その人は、同じ人間だろうかと思うくらいに綺麗な人だった。
思わず見惚れる。

カシャ。

・・・カシャ?
シャッター音が聞こえて、ゆめみはそっちの方を見る。すると、興奮した中年男性が、続けてシャッターを切っていた。

明らかにこちらにレンズを向けている。
不思議に思う間も無く、目の前の彼の雰囲気がどんどん悪くなるのを空気で感じた。

「なるほど、そういうことでしたか」

そう呟いた彼の声は、先程の気遣うような言葉と同一人物が言ったものだとは思えないくらいに冷たいものであった。

明らかに怒らせてしまったようだ。

ゆめみは慌てて左足のヒールも脱ぐと、彼から離れた。

「申し訳ありませんでした!」

そしてそのまま立ち去ろうとしたゆめみだったが、後ろから捕まえられた。

「ひゃっ、あの」
「逃しませんよ」

抵抗するゆめみを、彼は肩に抱えた。
そして、そのままマンションのエントランスの中へと入って行く。
少しジタバタと抵抗したゆめみであったが、彼が耳元で「度胸がありますね、静かにしないと交渉もしてあげませんよ」とドスの効いた声で言ったので、ゆめみは怯えて身動きを止めた。

ゆめみは君島の肩に抱えられたまま、少しだけ顔を上げると、先程のコンシェルジュが深々とお辞儀をしているのが見えた。

ゆめみはなす術も無く、エレベーターへ乗せられて、22階の一室へと連れて行かれた。









「さぁ、教えてください、一体いくらで私とのスキャンダルを請け負ったのですか?」


ゆめだゆめみ、14歳、またまたピンチです。

ゆめみは目の前で腕を組んでいる綺麗な人に凄まれながら、ただただ小さくなっていた。

「いえ、だから、あの、違うんです、ただ道に迷っていただけで」

小さい声で言い返すも、全く信じてもらえない。
目の前の青年は小さくため息を吐くと「これはあなたにとっても悪い話では無いんですよ」と言う。

「依頼主がカメラマンか週刊誌かは知りませんが、その倍額をお支払いします、あなたにとってはただプラスになる話のはず」

どうやらこの綺麗な人は芸能人で、事故とは言え抱きついてきたゆめみをハニートラップを仕掛けてきた犯人だと思い込んでいるようだった。
ゆめみが自分とのスキャンダルを写真に撮らせ、それを週刊誌に売るのだと思われていた。

「そんなことを言われても・・・本当に道に迷っただけなので・・・」

怒られても脅されても、それが事実なので、それ以上に言えることは何もない。
初対面の男の人に連れてこられ、知らない部屋で訳の分からない尋問をされる、ゆめみは怖くてついには「家に帰してください」と泣き出した。

しくしくと泣くゆめみは、「泣いても無駄ですよ!」と怒られることを予想したが、彼はそうはしなかった。
泣き出したゆめみを見て狼狽し、結局自分のハンカチをそっと差し出してくれた。
そのハンカチを受け取りながら、そんなに悪い人じゃないのかも?と思った。


「遅くなりました」

ゆめみが泣き止むと、マンションのリビングのドアが開いて、スーツの男の人が入って来た。
30代前半、といったところだろうか、柔和な雰囲気で優しいお兄さんと言ったところだ。

「育斗くん、話は聞きましたが落ち着いてください」

「僕はとても落ち着いているよ、吾妻」

口ではそう言うものの、イライラしていることを隠せないでいる彼を通り越して、吾妻と呼ばれた男は、ゆめみの前にやって来た。

「初めまして、私は君島育斗のマネージャーをしております吾妻と申します」

渡された名刺を受け取ると、そこには有名な事務所の名前が印字されてあった。
それに、今『君島育斗』と言っただろうか。

「・・・キミ様、なんですか?」

芸能界に明るくないゆめみでさえも知ってる超有名人だ。吾妻はすぐに肯定する。

「はい、そちらに座っているのが君島育斗、本人ですよ」

その言葉に、ゆめみはすごすごともう一度目の前の男性を見た。
相変わらず整った綺麗な顔と、カリスマ性のオーラも感じる。
君島育斗。
子供の時から芸能活動をしてきて、今も5社のCM会社との契約がある、生粋の芸能人である。

ゆめみも途中からもしかしてキミ様なのかなぁと思ってはいたのだが、CMに出ているただただ爽やかな彼とのギャップを感じて確信できずにいたのだった。

「あの、チョコパイ食べました、美味しかったです」

ゆめみの第一声はそれだった。君島が最近CMしているお菓子のチョコパイ。
『攻めるキミ様、大人のビターチョコパイと甘えるキミ様、スイートストロベリーチョコパイ』のCMで大ヒットしている。

「そうでしたか、この部屋にも確かありましたよね」

君島が声をかけると、吾妻が部屋の片隅に置かれた箱の中から、チョコパイを出して来てゆめみに差し出した。
パッケージはピンクのストロベリー味だ。

「ありがとうございます、こっちは甘えるキミ様ですよね、CM可愛いと思いました!」

にこにこと思わず微笑んだゆめみ。
その笑顔を見て吾妻は「一般人のようですね」と君島に耳打ちする。

「そんなはずはないでしょう、どこにカメラマンが待ち構えるマンション前で道に迷って、足を踏み外してキスまでしてくる、全身ブランド服の女がいるんですか」

君島はそう抗議したが、結局はまた泣きそうになるゆめみを前に「と思うのが普通だが、まぁそうなのだろうね」と言い直した。
ハニートラップを仕掛けた本人にしてはクレバーさに欠けるのだ。

「仮にそうだとすれば、事態はよりやっかいだ」

もしゆめみが本当にハニートラップでお金で動くような女であったなら、お金で解決することが出来たのに。

「取り急ぎ会社の方には、僕のスキャンダル写真は事前に買い取るように伝えてくれ、それと外にいるネズミ共の駆逐も」
「わかりました・・・ところで、彼女はどうしますか?」

君島はゆめみを見た。
ゆめみは不安そうな瞳で君島を見つめている。

「可哀想だが、帰すわけにはいかない、まだパパラッチがいる可能性がある以上、これ以上のスキャンダル写真を撮らせる訳にはいかないな」

ゆめみが君島に連れられてこのマンションに入ったところを撮られた以上、このマンションを出て行く写真を撮られるだけで、たとえ1人きりだとしてもここで君島と時間を過ごしたという証拠写真となってしまうのだ。

「今晩はここに泊まってもらいますよ」

ショックを受けたゆめみを畳み掛けるように、君島はそう言った。






ゆめみがミーハーな女の子だったのなら。
もしくは芸能界を目指していたりしたのなら、もしかしたらこの状況を楽しめたのかもしれない。

残念ながら、ゆめみはそうではなかった。

純粋にキミ様のことは綺麗だともかっこいいとは思うが、軟禁されるのにはもちろん抵抗があった。

無抵抗で従順な演技をしながらも、2人の隙を見てこの部屋を出て、湘南行きの電車に飛び乗りたいと思っていた。

しかしそこは君島育斗の交渉術の方が一枚上手であった。


君島は、ソワソワするゆめみに対し、自分の芸能界での立ち位置や、経歴、熱意を丁寧に解説し、ここでのスキャンダルがいかに自分の人生をも変えてしまうものになり得るかを力説した。

その結果、心優しいゆめみは君島に同情し、脱出を諦めたのであった。

「ご理解頂きありがとうございます、異論が無いなら交渉成立です」

君島の営業スマイルが炸裂した。

「今会社の方から圧力をかけていますから、あの外で待ち構えるパパラッチもすぐに諦めることになるでしょう」

君島の実家は君島コンツェルンという財閥らしい。
マネージャーの吾妻がゆめみのために、夕食のお弁当やパジャマなど必要最低限のものを用意してくれた。
ゆめみは基本リビングにいるようにと言われた。隣の部屋が仕事部屋のようで、君島はそこで忙しそうに仕事をしている。

夜までは吾妻がゆめみの話し相手となってくれたが、彼にも家庭があるようでさすがに宿泊まではしてくれなかった。

「暇でしょうがご了承ください、リビングにある本なら何も読んでもいいですよ」

そう言い残して帰ってしまった。

バタンとリビングのドアが閉じて、完全に1人になる。

ゆめみはとりあえず脱力して、ソファーに倒れてみた。
ふぅーと息を深く吐き出す。

大変なことに巻き込まれてしまった。

君島も吾妻も危害を加えてくるような様子は無かったが、なにが起こるかわからない不安に、ずっと気を張っていた。

ゆめみはふと唇に手を当てた。

君島さんと、キス・・・しちゃった。

この状況で最初に思ったのはそれだった。
自分自身がものすごくショックを受けていることに気づき、考えていた以上に、幸村とのキスを大切にしていたことに気づく。

あれだって事故みたいなものだったけど、それでも嬉しかった。
思い出すと、甘い甘い砂糖菓子を初めもらって食べた時のような気持ちになる。

それが上書きされたことになる気がして、とても悲しい気持ちになった。

後悔ばかりだ。

どうして道に迷ってしまったのか、
どうしてよりによってこのマンションの前で転んでしまったのか、
そして、転んだ先が芸能人の君島さんだったのか。

そんなことを悶々と考えた。
何か1つでも回避出来ていたなら、今頃精市の家で・・・
と考えて、ゆめみは彼に連絡をしていないことを思い出して立ち上がった。

駅で電話をした時にこれからアトリエに行くと約束をしてしまった。
きっと今頃、いや随分と前から心配をしてくれているのでは無いだろうか・・・

ちなみにスマホは没収され、吾妻さんが持って行ってしまったので、慌てたところでゆめみにできることは何も無いのだが。

ゆめみは一通り部屋をウロウロして、でも結局何もできることはないと悟った。
とりあえずできることをしようと考えたゆめみは、吾妻さんがシャワーは自由に使っていいと言っていたのを思い出し、シャワーを浴びて、用意されたパジャマへと着替えた。
どこで調達したものかは分からないが、生地が滑らかで明らかに高級品だ。

お金ってあるところにはあるんだなぁとそんなことを考える。
今日1日で1年分くらいの贅沢をした気がする。

時計を見ると、夜の9時を少しすぎたところだ。
疲れていたのでもう寝たい気もするが、勝手に寝て良いものか判断もできず、ゆめみは君島のマンションの中を観察した。

ここは君島の仕事用のマンションなのだろう。
仕事関係のものがほとんどだ。
読書が趣味なのだろうか、本棚にはぎっしりと本が並んでいる。
読んでいいとも言われたが、どれも難しいタイトルで、心惹かれるものは無かった。

それよりも・・・ゆめみの目が止まったのは、キャビネットだった。
棚いっぱいに紅茶の缶が並んでいる。
ほとんど日本では見たことのないメーカーだ。
ラベルは全てフランス語で書かれているため、おそらくフランスからの個人輸入品だろう。

そのうちの1つは、ゆめみも見覚えがあった。
パリに留学中、幸村と寄ったフランス紅茶店でおすすめされたものだった。

可愛いすみれ色の缶に入った、すみれがブレンドされた香り高い紅茶だ。
西フランスのトゥールズ地方の名産で、飲めば一面のすみれ畑にいるような気持ちになれる。
普段はトゥールズ地方に行かないと買えないが、期間限定でパリで取り扱っていると聞いて、ゆめみと幸村も購入した。
ゆめみは早々に飲み切ってしまったが、幸村の家にはまだ残っているだろうか。

「Noir Violette・・・」

ノワールヴィオレットとフランス語読みをする。
理由はわからないが、先程からずっと幸村のことばかりを考えている自分がいた。

今思えば、この1週間もずっと彼に会いたかった気がする。
なんでだろうと考えて、本当は考えたくないなと思った。
だって会えないのに、ただただ寂しくなるだけだ。


「フランス語がわかるのですか?」

ふと後ろから聞こえた声に、ゆめみは控えめに振り返った。
君島が仕事部屋からようやく出て来たところだった。

「フランスが好きなだけです」

ゆめみがにこりと微笑んで答えると、君島は少しだけ嬉しそうな反応を返した。

「そうでしたか・・・淹れて差し上げましょうか、Noir Violette」
「えっ、いいですよ」

ゆめみは恐縮して断った。しかし君島は「そう言わずに、人の好意は素直に受け取るべきですよ」と言ったので、ゆめみはすこし迷った末に頷いた。

「では、お言葉に甘えてCamomilleをリクエストしても?」

今Noir Violetteを飲んだら、きっと泣いてしまうとゆめみは思った。安眠効果のあるカモミールならば、お互いにとっていいだろう。フランス語読みはカモミーユだ。

「勿論です、お嬢さん」

君島は流れるような手つきで紅茶を淹れてくれた。茶葉を直輸入しているだけあって、技術も道具も超一流だ。

紅茶を飲みながら、ゆめみは心からほっとした。
一緒に飲む相手が芸能人の君島だと言うのが不思議な気がするが、親切にしてくれている分には怖くは無い。

でもなぜだろう。

今飲んでるのはCamomille でNoir Violetteでは無い。この紅茶は幸村と一緒に飲んだことがあるものではないのに。

それでもゆめみの頭に浮かぶのは、幸村のことばかりだった。

彼の心配そうな顔が頭から離れない。

ゆめみの頬をほろりと一粒の涙が溢れた。

「おやおや、こんなことは初めてですよ」

目の前にハンカチが差し出されて、ゆめみはそれを受け取らずに「大丈夫です」と言った。
しかし君島はそのままゆめみの頬をハンカチで優しく拭う。ついでに顎を優しくあげて、ゆめみの顔を自分へと向けた。
君島はにこりと微笑む。

「ようやく私を見てくれましたね」

ゆめみはなんと返していいのか分からなかった。

「見てましたよ?」
「いえ、あなたはずっと他の誰かのことを想っていましたね」

ドキリとした。その眼鏡の奥の瞳は見透かすようにゆめみを見ている。

「全く、初めてですよ、この私を前にして堂々と他の男のことを考えられたのは」

君島はそう言いながら、ゆめみのカップにカモミールティーを継ぎ足した。

「正直、あなたが私のファンである可能性を捨てきれずにいました、好意が転じてあのような行動に出た可能性もあると」

君島は少しだけ頭を下げた。

「初めの失礼な態度をお詫びします、あなたは本当にただ巻き込まれただけだったのですね」

これにはゆめみが恐縮する番であった。

「いえ、私が悪いんです、あと、倒れそうになったところを救ってくださりありがとうございました」

ゆめみが深々とお辞儀をすると、君島はにこりと微笑んだ。

「では、お互いに誤解が解けたところで、良かったら少し話をしませんか?」
「話ですか?」
「私は職業柄あなたのような女の子とこのような機会を持つことがありません、あなたとの機会が私のインスピレーションに繋がるかもしれません」

そんな風な言い回しをする君島は、優しいなと思った。ゆめみは頷いて穏やかに話し出す。

「私と話をすることで何かが得られるか分かりませんが・・・そうですね、ではフランスの話はどうでしょうか?君島さんもフランスが好きなんですよね?」
「ええ、そうですね」
「私はパリしか経験が無くて、君島さんはどこに行ったことがあるですか?」

ゆめみと君島は、フランスの話をした。
お互いに好きなことを話すのは楽しい時間となった。




その後、ゆめみは寝る運びとなり、君島は大きなソファーにシーツをひいてくれた。そこに横になって、ふわふわの上掛けをかけてもらった。

ゆめみはそっと目を閉じた。
暗闇が訪れると同時に感じる孤独。


そんなゆめみを、君島は少し離れたダイニングテーブルに座って観察していた。
手には今度オーディション予定の台本が握られているが、今は全く役に入り込めない。

すぐ近くで丸くなって震えている女の子が気になって仕方が無かった。

職業柄、たくさんの綺麗な女性に会って来た。
誰しもが表には出さないが、自分に夢中だと確信出来た。
誰もが心の奥底では、自分とのスキャンダルを求めている、そんな風にさえ思えた。

それが、この子の場合にはそれがほとんどない。

この子は目の前に自分がいる時でさえ、他の誰かを想っていた。
今もそうなのだろう。
誰かを想って泣いている。

どうでもいいことだ、僕は礼を尽くした。これ以上は彼女の個人的な問題だ。

頭ではそう思うが、心がついていかない。
心は彼女を慰めてあげたいと本心では思ってしまっている。

君島は息を吐いた。
長く深い溜め息だ。


「・・・眠れないのか?」


彼女はビクッと肩を振るわせただけで、何も答えなかった。
絶対に起きていて、泣いているのに、それを言わずに寝たふりをするつもりなのだろう。

君島はゆめみにゆっくりと近づいた。


「寂しいと感じることは悪いことでは無い」

君島が優しくそういうと、観念したようにゆめみがその大きな目を開けて君島を見た。

「気付かないフリをしてもらえませんか?」

そう言って強がる女の子は、今にも壊れそうだと思った。君島は思わずその大きな手でゆめみの頭を撫でていた。

「普段幸せの中で生きているからこそ、孤独を感じるものだ、お嬢さんは愛されているようだな」

いつのまにか君島が敬語じゃ無くなったことにゆめみは気がついていたが、何も言わなかった。
そっちの方が心地良いと感じたからでもあった。

ゆめみの震えが止まった。

何度も頭を撫でていると、それで落ち着いたのか、規則的な寝息に変わった。
無防備な寝顔から目が離せない。

可愛いと思った。

そう思いながら、この子がハニートラップの犯人だったのなら、自分は我慢できずに食らいついたかもしれないとも思った。

「名前くらい、聞いておけばよかった」

君島はそう呟いて。

「おやすみ、お嬢さん」

と言いながら、その額にキスを落とした。












翌日の土曜日午前7時半。
レギュラー専用の部室のドアがやや乱暴に開けられた。

バン!とドアが開いて、中で答えの出ない論議を繰り返していた柳と真田は、入り口の方を見て、わずかに目を見開いた。

「精市」

柳が名前を呼ぶと、少しだけ息の乱れた幸村が顔を上げた。
寝不足と一目で分かるその瞳は血走っており、不機嫌の極みだ。
何かに追われているようでもある。

「部活に顔を出すのは禁じられていたのでは無かったか?」

そう言ったのは真田だ。
幸村は現在退院はしたものの、自宅療養中の身であり、屋外スポーツであるテニスは見学さえも禁止されていた。

「今この時間は部活と言えるのかい?ここは屋外では無いし、俺の自由を阻むものなど何も無いはずだよ」

強めの口癖でそう制した幸村に、真田は面食らった。相当機嫌が悪そうだ。
柳は「弦一郎はお前の体調を心配しただけだ」とフォローを入れながら、近くに丸椅子を持って来た。

幸村は「そんなことより」と意気込みながらその丸椅子に座った。


「ゆめみは何者かに拉致された、と言うのが俺の考えだがどう思う?」


幸村のまっすぐ端的な言葉に、柳と真田は顔を見合わせた。
しかしすぐに「今俺たちもその話をしていたところだ」と言った。


彼らにとって仲の良い女の子、ゆめだゆめみはちょっと特別な女の子だ。

幸村、真田、柳、ゆめみは4人で仲が良く、1年生の時から一緒に過ごして来た仲間であるが、実はメンズ3人ともゆめみに惚れているのだ。

先週の金曜日から1週間東京の祖父の家に行った彼女は、本当ならば金曜日である昨日帰ってくる予定だった。
幸村だけで無く、隣の家に住む柳も、また真田もゆめみの帰りを指折り数えて楽しみにしていた。
そんな中、急な予定変更でもう一泊東京に泊まると言い出したゆめみ。
その様子がおかしいことに、それぞれ個別にメッセージのやりとりをしていた3人とも気が付いていた。

「俺はゆめみと昨日の夕方、直接話をしていてね、東京から直接俺の家に来ることになっていた・・・そんなゆめみが、こんな一言でその約束を反故にすると思うかい?」

幸村の出したゆめみとのチャット画面には、『ごめんなさい、おじいちゃんの家に泊まることになったの』とだけ送られていた。
送り主は君島のマネージャーである吾妻が送ったものなので、違和感があるのは当然なのだが。

「電話は何度かけても出ないし、お前たちがなんと言おうと、俺は確信しているよ」

かなり興奮状態の幸村に、柳は逆に冷静になるのを感じた。
正直言って幸村が来る前は、柳が同様の状態であり、真田になだめられていた。

「幸村、俺たちも同意見だ!蓮二が裏もとっておる!」
「何か分かっているのかい?柳」
「ゆめみの従兄弟に確認を取った」

柳の言葉を前に、幸村はごくりと唾を飲み込んだ。

「ゆめみは昨日は祖父の家には戻っていないそうだ、朝出て行ったきりだと」

淡々とした柳の言葉に、幸村は鳥肌が立った。
これで決定的だ。
ゆめみは何者かに連れされた可能性が高いーーー。

幸村は立ち上がった。
そして、部室を出て行こうとする。

「幸村!」

そんな幸村を真田が止めた。

「離してくれ」
「冷静になれ!幸村!」

「これが冷静になれることかい!?」

幸村は怒りで震えていた。

「ゆめみの身に危険が迫っているかもしれないんだ、俺は行くよ」

幸村の瞳には強い意志を感じた。

「この命は彼女に救われたようなものだ、俺にとってゆめみよりも大切なものなんて何も無い!」

幸村の言葉を聞きながら、真田は立ち上がった。

「誰も行くなとは言っておるまい!」

柳も立ち上がっていた。

「そうと決まれば、移動しながら話すことにしよう、いずれにせよ東京にいる可能性は89.5%だ」

ラケットバックを持って歩き出す2人に幸村は「お前たち」と呟く。

「幸村、部活は?などと聞くでないぞ、俺も同じ気持ちだ!ゆめみ以上に大切なものなど無い!」
「悪いがゆめみを想う気持ちは、俺が一番強いと自負している!」

3人はまるで戦場にでも行くかのような出立ちで歩き出した。
その表情は殺意に満ち溢れている。

テニスコートを半分過ぎたところで、反対方向から仁王と柳生が歩いて来るのが見えた。
部活は9時からなので、朝練組だろう。

柳生と仁王は3人のいささか、いやかなり特殊な空気を放っている様子に、足を止めた。
レギュラー専用の部室からラケットバックを持ったままこちらに歩いてくる様子も変だ。

「おはようございます、どうかしたのですか?」
「おまんさんたち、熊狩りでも行くんか?」

柳は柳生の手に部室の鍵を握らせて「部活は任せた」といい、真田は仁王の手に黒い帽子を授けて「副部長の役割はお前に託そう!」と言った。

そして、颯爽と歩き出す。
後ろを振り向かずに。

残された柳生は不可解な顔をし、仁王は妙に納得した顔をした。

「毒キノコでも食べたのでしょうか?」
「まぁ、想像はつくナリ」

仁王は真田の帽子を被ってにんまりと笑う。

「今日は楽しめそうじゃな」
「仁王くん、まさか」
「真田からの直々のお願いじゃき、文句は言うまい」
「アナタって人は・・・」

遠くで真田の野太い声で「たぁくしぃ!」と呼び止める声が聞こえた。







幸村、柳、真田の乗り込んだタクシーは有料道路に入り、まっすぐ東京へと進んでいく。
ひとまず柳がゆめみの祖父の家を目的地としてドライバーに伝えた。

「それで、ゆめみの両親はこの事態に気がついているのかい?」

幸村の問いに柳が答える。

「いや気付いていない、母親は元々夜勤の予定で、父親はゆめみの祖父の家に泊まるというメッセージを見て、信じ込んでいるようだ」
「従兄弟と連絡を取った際にこちらに戻っていないことを伝えたのかい?」
「それもあえて伝えなかった、ここで警察が介入することが吉と出るとは限らないと考えたためだ」

柳の考えでは、まだ犯人の目的がわからないため、動けないと言う。

「誘拐の場合、その目的は身代金要求という可能性が一番高いが、その際に通常要求してくるのは、お金と警察の不介入だ

警察に連絡せずにお金を準備した場合が一番生存率が高いという海外のデータがある」

柳はここでゆめみの両親や親戚が心配して警察に連絡した場合、もう犯人の要求に答えることができなくなると説明する。

「とは言え、違う目的だった場合は、やはり警察の捜索に期待した方がいいだろう」

3人は顔を合わせて深刻な顔をする。
他の目的とはなんだろうか、それぞれの考えうる最悪の状況が頭をよぎった。

「だが、俺はゆめみが生きていて無事でいる可能性は75.6%以上だと考えている」
「俺もその可能性が高いと思う」

柳と幸村の確信している様子に、真田だけが「なぜそう言い切れるのだ?」と聞いた。

「犯人はなぜかゆめみの無事を演出したがっているからだ、昨日から俺と精市、弦一郎、ゆめみの両親と、少なくとも5人以上にゆめみのふりをしてメッセージを送っている」

真田が柳の解説にもまだ不可解な顔をすると、幸村が「もしゆめみにすでに危害を加えたり、今後返さない気でいるならば、そんなことをする必要は無いだろう?」と言った。

柳は更に考察を進める。

「推測するに、犯人はゆめみのスマホを自由に使える状況にあると考える、もし悪意のある犯人で身代金の要求等がある場合には、早々に送ることができる状態にあると言うことだ」
「悪意が無いならば何の目的でゆめみを連れ去ったのだ?!」

「それは・・・データが不足している」

実に不可解だと柳は思う。

と、その時だった。
幸村のスマホに一通のメールが届く。

幸村はそのメールを見て「運転手さん!」と叫んだ。

「今から言う住所に行き先を変更して欲しい、港区六本木・・・」

柳が幸村のスマホを覗き込むと、幸村のスマホにアーバンイーツの領収書が表示されていた。
配達場所が港区六本木のマンションの2202号室、そして注文者は吾妻士郎であった。
このタイミングでの東京の住所、幸村はゆめみからの何らかのメッセージだと勘づいた。

幸村は柳と目が合うと、軽く頷く。

「ゆめみからのSOSのようだ」

柳はゆめみの居場所の糸口を見つけ出した喜び感じながらも、激しい嫉妬を覚えた。
なぜ頼って来たのが自分ではなく幸村だったのだろうという嫉妬だ。
ゆめみはこの柳蓮二のメールアドレスも覚えているはずなのに・・・と。

しかし、柳がこの時間に部活をしていることをゆめみは知っているので、幸村の方が気付いてもらえる可能性が高いと考えたのだろうと柳は必死に自分を慰めた。

「幸村、いざ慎重に行かん!罠と言う可能性もある!」

ことゆめみのことになると、暴走気味の幸村と柳。2人が無鉄砲さを発揮するので、珍しく真田が冷静にストッパーとなる役回りをこなしていた。

「のぞむところだよ」
「そうだな、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言う」

全く止まる様子のない幸村と柳に、結局真田は覚悟を決めた。

「俺も命を賭ける覚悟だ!」

タクシーが止まると同時に、3人は飛び出した。

ゆめみの指定したマンションのエントランスに入ろうとしたところ、真田が突然「何奴!?」と叫んだ。

「どうした、弦一郎」
「気配を感じる!何者かに見られておる!」

居合いの達人である真田がそういうのなら間違いないだろう。
柳も武術の構えをして、真田と背中合わせになる。

と、その時、アーバンイーツのバイクが止まり、配達のお兄さんが商品を持ってエントランスの階段を登ってくる。
真田達を不審そうに見てはいたが、そのまま隣を通って配達員はマンションの中へと入って行った。
恐らくこの商品がゆめみが頼んだものだろう。
このチャンスを逃すと、マンションの中に入り込むのは難しいかも知れない。

「幸村!ここは俺たちに任せて行ってくれ!」

真田が声をかける前に幸村は迷わず彼に付いて行った。もうゆめみを助けることしか頭に無いといった様子だ。

「精市、無理はするな」

柳はやっとの想いでそう呟いた。








ゆめみはその時、君島の家でタブレットを眺めていた。
アーバンイーツのバイクが、ちょうどゆめみのいるマンションにたどり着いたのを画面で確認していた。

インターフォンが一回鳴り、吾妻さんがエントランスの鍵を開ける。

朝起きると、すでに君島は家を出た後で、吾妻さんが代わりにゆめみを見守ってくれていた。
着替えてお腹が空いたと言うと、スマホの代わりに吾妻さんのタブレットを貸してくれた。
ゆめみはその中のアーバンイーツのアプリで朝食を注文をしたのだ。

「何を注文したんですか?」

吾妻さんの質問に、ゆめみは「アサイーボールです」と答えた。

「女の子ですね」と笑う吾妻。

またインターフォンが鳴った。
今度は部屋のすぐ前まで来てくれたのだろう。
インターフォンの小さな画面で確認した後、吾妻は玄関の方へと歩いて行った。

ゆめみはその小さな画面をふと見て、心臓がドキリと跳ねた。

配達員の後ろに立っている人物がゆめみのずっとずっと会いたかった人に見えたのだ。

いやまさか、でも。

確かに期待していた。
アーバンイーツの領収書送り先のメールアドレスを複数指定出来るとわかった時、ゆめみはこっそり幸村のメールアドレスを指定した。
気付いて欲しいとも思った。

でも、こんなに早いことがあるだろうか。

そして、今ここを出て行ったら君島さんに迷惑がかかってしまうかもしれない。

どうしようと本気で迷った。
迷って、迷って。
今どこに立っているのかも分からなくなるくらい、迷っていた。


「ゆめみ!」


頭より先に心が動いた。
体は心に反応する。

ゆめみは走り出していた。

その大好きな声に呼ばれてしまったら、ゆめみは行かないという選択肢を取ることが出来なかった。

ゆめみは走って、驚く吾妻さんと配達員を通り越した。

「精市!」

幸村はゆめみを見つけると、その腕を掴んで、さっと自分へと引き寄せた。
そして大切そうに一瞬抱きしめた後、その手をぎゅっと掴んだ。

そして走り出す。

マンションの廊下を走る。エレベーターを通り過ぎ、非常階段のドアを乱暴に開けた。
螺旋階段のような階段を2人は飛び降りるように駆け降りて行く。

不思議な気持ちだった。
前を走る幸村の手の感触が気持ち良くて、追われているかもしれないのに、全く怖くなかった。

どこまでも降りていけそうだとゆめみは思ったが、君島の部屋は22階だった。
流石に一気に駆け降りるのは無理があったようで、先にゆめみが階段を踏み外した。

しかしそのことにいち早く気がついた幸村は、片手でゆめみをふわりと持ち上げて。
その後引き寄せて抱き止めた。

そのまま。

衝撃に逆らわずに、幸村は地面に背中から倒れた。そして、ゆめみをふわりと抱き寄せる。

ゆめみは幸村の胸にすっぽりと包まれて。
幸村はまるで宝物を抱くように、優しくそして強く抱きしめた。

「・・・もう絶対に離さないよ」

幸村の声は震えていた。
ゆめみは幸村の体温が心地よくて、少し顔を埋めていたが、その後そっと顔を上げて幸村を見た。

幸村は眉をハの字にして、小さく微笑んでいた。
心から心配してくれたこと、今ようやく少し安心してくれたこと、そんな気持ちが流れ込んでくる。
ずっと心配してくれたんだ、そう分かった。


その幸村の優しい瞳を覗き込んだ瞬間。

ゆめみの瞳から、涙が溢れた。


ずっと会いたかった。


そして、認めざるを負えないと思った。
ずっと気付かないふりをし続けて来たことに。


『私、こんなにも精市のことが好き』


そう自覚したら、我慢出来なくなって。
ゆめみはまたぎゅっと幸村に抱きついて泣いた。


「精市、会いたかったよ」


幸村は少し驚いたが、突き放すことは無かった。優しくゆめみの頭を撫でて「遅くなってすまない」と言った。

2人は少しの間非常階段の踊り場で抱きしめ合っていた。





泣き過ぎて立てなくなったゆめみを、幸村は抱き上げて残りの階段を降りた。
ゆめみは急いで飛び出して来たので、裸足だった。

一階まで来ると、非常階段の前に吾妻さんが立っていた。

警戒した幸村だったが、吾妻は穏やかに微笑んでゆめみに紙袋を渡してくれた。
その中に、ゆめみのカバンとスマホ、それから靴が入っていた。

「出てって良いんですか?」

ゆめみが聞くと、吾妻は「パパラッチはご友人が追い払ってくれたようですから」と言った。

吾妻はすぐにエレベーターに乗ってしまった。

ゆめみを抱っこしていたために、幸村は追いかけることはしなかった。

「彼が犯人なのかい?」という幸村の問いに、ゆめみは小さく首を振った。

ゆめみはそっと幸村の腕を抜け出すと、紙袋の中から靴を出して履いた。
外に出ると、先程の吾妻の言葉の意味が理解できた。

真田と柳が、テニスラケットを握りしめていた。状況から察するに、パパラッチのカメラ目掛けてテニスボールを打ち込み、追い払ってくれた様子だった。

「ゆめみ!」
「ゆめみ、大丈夫だったか?」

ゆめみを見つけると、真田と柳が駆け寄って来た。

「蓮二、弦一郎・・・」

ゆめみは大きく腕を開いて、ぎゅっと柳と真田に抱きついた。

「迎えに来てくれてありがとう」

涙目で微笑むゆめみに、少年達は照れたような誇らしげなはにかんだ笑顔で返した。


「一緒に湘南に帰ってくれる?」

ゆめみは少し進んで、振り返った。
その瞳にはまだ涙が溜まっていて、光に反射してキラキラ光る。

3人とも綺麗だな、と見惚れた。


「ああ!無論!そのつもりだ!」
「方向音痴の幼馴染を持つと大変だが、この柳蓮二、いつでもこうして迎えに来よう」

ゆめみの言葉に、一呼吸おいて真田と柳が力強く頷いた。

「帰ろうか、湘南へ」

最後に幸村がそう言った。

ゆめみは「うん!」ととびきり嬉しそうに笑った。

そんなゆめみを守るように、並んで4人は歩き出した。

聞きたいことがたくさんあったが、何も話さないゆめみに配慮して、3人は何も聞かなかった。
ゆめみはただただ嬉しそうで、時々涙ぐんで「本当にありがとう」とお礼を言った。

結局最後までゆめみは君島のことを話さなかった。

彼には彼の事情があって、彼の正義があった、ただそれだけだと思うことにした。

電車で1時間かけて、湘南に着いた頃には、3人ともゆめみは話す気が無いのだと理解した。

大変な想いをしてゆめみを助けに行ったのに、3人ともゆめみが話したくないのなら、それでも良いとも思っていた。


ゆめみが無事に帰ってきた、それだけで良かったと思えた。


柳と真田は学校のテニスコートに戻り、幸村はゆめみを家まで見送った。

ゆめみは家に辿り着いて、幸村と別れた後、夜勤明けの母親に一回だけ甘えるように抱きついた。

その後は、お気に入りの部屋着に着替えて、眠ることにした。


もう今は何も考えたくない。

ゆめみの酷く長い1日が終わった。








「パパラッチをテニスボールで攻撃とは・・・最近の中学生は面白い」

部屋に戻ってきた君島は、吾妻からの報告を聞いて笑った。
しかし、その笑みが表面的なものだと付き合いの長い吾妻は見抜いていた。

君島の帰りはいつもより早かったし、帰ってきた君島の手には、有名なフランス菓子店のカヌレが下がっていた。
彼女へのお土産のつもりだったのかもしれない。

「彼女の名前は・・・」

君島はそう言いかけて、口を閉じた。

「何か言いましたか?」

吾妻の問いに君島は何も言わず、お湯を沸かす。
ゆめみの見ていたすみれ色のNoir Violetteの茶葉を取り出した。


「次の仕事までひと休みしようか」





(221116/小牧→182

あなたの名前を聞いたら欲しくなるだろう




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