021
(試合に出て欲しくない/手塚)

「明後日の試合は大丈夫そうだね」

ゆめみは柳の手首の状態を確認して、にっこりと微笑んだ。柳の県大会での負傷は、ゆめみの日々の献身的なマッサージの甲斐もあり、すっかり良くなっていた。
柳は「ゆめみのおかげだな」と頭を撫でると、ゆめみはえへへと誇らしそうな顔をした。

ここは柳の部屋。時計を見ると、夜8時を過ぎている。既に夏休みに入っていたが、特に休みだからと変化も無く、ゆめみは今日も柳の部屋でくつろいでいた。
柳が机に座って関東大会に向けたデータ分析を再開すると、ゆめみは柳の隣で『はじめてのフランス語』という本を読み始めた。
海外研修ツアーの事前のテストで簡単なフランス語が出ると知ってから、幸村と一緒に勉強し始めたのだ。ゆめみから聞いて経緯を全て知っている柳はそれを見て少し複雑そうな顔をした。しかしすぐにゆめみの知識が増えることは悪いことではない、と自分に言い聞かせる。

「関東大会、無理しなくていいからな」

ふと思い出したように言う柳。ゆめみは本から目を離して、「応援に来て欲しくないの?」とちょっと悲しそうな顔をした。

夏休みに入った最初の週末に関東大会が開催されるのだが、会場が東京のお台場で、柳を含む立海テニス部は前日入りをする予定だった。応援に行きたいゆめみは、直前まで柳の部屋に一緒に泊まるとただをこねたが、真田と同室と聞いてあっさり諦めた。
頼みの綱のゆめこも家族と海外旅行だったため、結局父親の知り合いの孫がその日関東大会に出場予定と言うことで、行きだけその子に送ってもらうことになったのだ。

「もちろん、来てくれるのは嬉しいが」

本心では素性の知れない孫(おそらく男)と2人にさせるのが嫌だったのだが、素直に言葉にはできず、口ごもる。ゆめみは嬉しい、との言葉まで聞くと、すぐに機嫌を直して、足をパタパタさせた。

「楽しみだなぁ、蓮二の試合」

そんな風に言う彼女を拒否することも出来ず、柳は小さくため息を吐いた。これはそっちの方が気になって試合どころでは無いなと確信しながら。


そして、関東大会当日の朝。
ゆめみは父親とその知り合いの人の家にいた。
和風な作りの大きな家だった。父親がインターフォンを鳴らすと、上品な女性が現れて「ゆめだ先生、いつもお義父さんと息子がお世話になっております」と挨拶をした。
父親が挨拶を返した後、女性はにこっと笑ってゆめみをまっすぐに見る。

「まぁ、可愛い!あなたがゆめみちゃんね、初めまして手塚彩菜です」

とても綺麗で優しそうな人だな、と思った。ゆめみが「初めまして、ゆめだゆめみです」と丁寧にお辞儀をすると、彩菜の頬がほうっと赤く染まる。

「あら、礼儀正しいのね、本当に可愛らしい!うちは国光1人だから、女の子に憧れていたところもあって、会えて嬉しいわ、今度よかったらご飯を食べにいらっしゃい」

楽しそうにそう言う彩菜に圧倒されつつも、ゆめみは「はい、ありがとうございます」と答えていたが、それ以上に聞こえた名前に戸惑っていた。今、国光って聞こえたような。苗字が手塚で名前が国光・・・そんな偶然あるんだろうか。

「それはありがたいですね!ゆめみは国光くんに一目惚れしてしまったようでね、一時期は国光くんの話ばかり聞かれてたんですよ」
「えっ」
「あらぁ、本当!?嬉しいわー!」

父親の爆弾発言にゆめみが驚いていると、彩菜は更にテンションが上がり、ゆめみの手を掴んだ。

「私のことは彩菜ママって呼んでね」
「あ、ありがとうございます、彩菜ママ」

ゆめみは恥ずかしさで涙目になった。完全なる誤解なのだが、あまりにも嬉しそうにしている彩菜を前に否定することが出来なかった。

「母さん、彼女が困っています」

低い声が聞こえて、ゆめみが視線を移すと、視界がブルーに染まった。真っ青なテニスウェアを着た、手塚国光本人だった。
切れ長の目と厳かな雰囲気はいつかのままで、いつもの何も読み取れない表情をして、そこに立っていた。

そのウェアを見て、ゆめみは思い出した。父親の説明が『関東大会に出場予定の』孫だと言ったことに。

「国光くん、大会に出れるの?」

ゆめみの第一声が『久しぶり』でも『よろしく』でも無かったことに、父親と彩菜は少し驚いた。しかし、手塚が「ああ」と短く答えた瞬間。手塚は時間が止まったかのような錯覚に襲われた。

「おめでとう、国光くん」

ゆめみがとても嬉しそうに、幸せそうに、笑ったのだ。キラキラとした涙を浮かべて。全ての幸福がそこに集まったかのようだった。

ゆめみの父親も彩菜もゆめみの笑顔につられて、にこにこと2人を見守っていた。

「国光くん、大切な試合前に悪かったね、娘をよろしく頼むよ」

短い沈黙を破ったのはゆめみの父親だった。手塚ははっとして、すぐに「いえ、うちは現地集合ですので構いません」と答えた。

すでに少し出発時間が遅れていることに気づいた手塚は「では行こう、ゆめだ」と声をかけた。しかし、彩菜がゆめみの肩をしっかりと掴んで「ゆめみちゃんっていう可愛い名前があるのだから、名前で呼んであげるのよ?」と微笑み、手塚は「はい」と答えた。


「国光くん、本当に良かったね」


手塚のレギュラー入りがよっぽど嬉しかったのか、会場までの電車の中で、ゆめみは何度も手塚への祝福の言葉を口にした。ゆめみは欲しいモノを買ってもらったばかりの子供のようにはしゃいで、手塚に「おめでとう」を伝え続けた。
手塚は相変わらずの無表情で頷くか、たまに思い出したように「ああ」と言った。ゆめみは手塚が返事をしなくても楽しそうに話し続けて、返事をするとそれだけで嬉しそうに笑うのだった。
ゆめみにとって、手塚はヒーローだった。更に一度は自分のせいで大会に出られなかったと勘違いしたこともあり、なおさら怪我を治して大会に出場することが嬉しくてしかたがないのだ。
手塚はその経緯を知らないため、ゆめみのあまりの喜びように最初は戸惑った。しかし何度も何度も言われる内に、戸惑いは消えていき、気恥ずかしさのような、ほんのり温かい気持ちだけが残った。

「おめでとう国光くん、試合楽しみだね」

ゆりかもめの乗り換え駅に着いても、ゆめみはまたもう何度目かわからない「おめでとう」を言った。手塚は「ああ」と返しながら、レギュラー入りをして、これまで多くの人に言われた「おめでとう」の数だけより、今日1日でゆめみに言われた数の方が多くなったかも知れない、とそんなことを考えた。

そもそも、レギュラーになれた経緯は自分の実力が認められたから、とかライバルとギリギリの戦いの末に勝利したとか、そういう感動的なエピソードを伴ったものでは無い。
ただ単純に校内ランキング戦への参加が認められた、それだけだった。
過去に先輩と対戦した経験では、校内ランキング戦への参加さえ認められれば、結果は伴うだろうと考えていた。
だから、純粋な嬉しいという気持ちよりも、やっとか、という感情の方が強かったように思う。

それは、俺に限った話ではない。
ふと、いろんな人から言われた祝福の言葉を思い出すが、どれも「当然だ」「やっと出れるのか」と言うニュアンスを含んでいた。

「わぁ、綺麗だね」

モノレールに乗り込んだゆめみは、大きな窓から入る海の景色に、目を輝かせていた。
強烈な夏の朝日が海に反射して、キラキラと輝く。
その無邪気な姿を見て。

「ありがとう」

心からの言葉が出ていた。ゆめみはパッと振り返って、手塚を見ると、また嬉しそうに笑って「おめでとう」と言った。

急に気温が上がった気がして、手塚は暑いと感じた。朝日のせいだろうか?手塚はめったに脱ぐことの無いジャージを脱いだ。
その瞬間、ゆめみの顔から笑みが消えた。
ゆめみは急に顔色が悪くなり、うつむいて、瞳は動揺したように揺れた。

「どうした?」

明らかに何かが変わってしまったゆめみに声をかけたが、ゆめみは俯いたまま小さく首を振った。
そして、時間だけが過ぎていった。
会場までほんの20分くらいのはずなのに、手塚には何倍もの時間に感じた。窓の外の移り行く景色は、色褪せて見えた。
手塚はこの時初めて自分がゆめみとの時間を楽しんでいたことに気付いた。
また笑って欲しい、そう思うが、これ以上どうしていいのかわからない。

そうしている内に、会場の最寄り駅に着いた。手塚はゆめみを気遣いながら、駅を降りたが、ゆめみの顔色は悪く、このまま別れることは出来ないと思った。幸いゆとりを持った時間設定で来ていたため、集合時間までにはまだ余裕がある。

手塚はゆめみを促して、海沿いのベンチに座らせた。そして、近くの自販機でペットボトルのお茶を買うと、ゆめみに握らせる。
ゆめみはそれを受け取ると、手塚を見上げた。大きな目は揺れていて、「ありが」と口を開いたが、すぐに閉じてまた俯いてしまった。
手塚はそんなゆめみを見て、あらゆる選択肢を探って見たが、正解が分からなかった。
ひとまず隣に座り、ゆめみの手の中のお茶を取ると、蓋を開けてゆめみに再度渡した。

「飲むといい」

ゆめみはゆっくりと受け取って、飲んだ。飲み終わると、ふぅと息を吐く。手塚は少し安心して「どうした?」ともう一度聞いた。

「私、最低なこと言ってもいい?」

ゆめみがやっと口を開く。手塚はゆめみが話し出したことに安堵して「ああ、構わない」と言った。


「国光くんに試合に出て欲しくない」


予想外の言葉過ぎて、手塚はパッと顔を上げてまっすぐにゆめみを見た。ゆめみは大きな瞳にたくさん涙を溜めていた。

「理由を聞かせてもらえるか?」

あんなに喜んでいたのに、あんなに笑っていたのに。手塚は理由がただただ知りたかった。ゆめみは顔を歪めて。「こんな腕で無理して欲しくない」と消え入りそうな声で言った。手塚が驚きで目を見開くと、ゆめみはポツポツと話始めた。

ヒジの怪我は完治しているかもしれないが、疲労が溜まっていること、このまま無理し続ければもっと酷くなること、そして何より、

「痛むでしょう?」

ゆめみの目からついに一粒の涙が流れ落ちた。目の前の少女が自分を心配してくれていると言うのに、手塚はその涙がとても綺麗だ、と思った。
いつか自分が怖い想いをした時には泣かなかったのに。
自分を何故かとても心配してくれる、ゆめみの存在が手塚は不思議だった。

「痛みは無い」

ゆめみは「嘘だよ」として、手塚の腕を指差した。手塚の腕は言われてみればうっすらと紫がかっていた。そういえば、と手塚はゴールデンウィークでゆめみと会って以来病院に行っていないことを思い出した。
自分でも気付かない内に無理をしていたのだろう。

「今は勝つことしか考えていない」

手塚はゆめみが泣き出すかと思ったが、予想に反して、ゆめみは「そうだよね」と笑った。

「国光くんなら、そう言うと思った」

しかしすぐに切ない表情をして「でもせめて大会が終わったら病院に行ってね」と言った。

そんなゆめみに、手塚は何か安心させることをしてあげたいと思った。頭を撫でることや、抱きしめることが脳裏を過ぎったが、実行に移すことはできずに「ああ」と短く返事をした。

「約束だよ」

涙を浮かべて、そう笑うゆめみ。
手塚はゆめみをただ見つめていた。


少し離れたところで、青学1年生の3人がその場面を目撃していた。
菊丸は面白そうににんまりと笑い、大石は盗み見なんてよくないよなと焦り、そしてもう1人の少年不二は、珍しく目を大きく開き、興味深そうな表情をしていた。

「あの子だよ、大石くん」

不二の呟きに、大石は先月の出来事を思い出した。しかし、あの時も今も2人とは距離があったため、その少女が同一人物かどうか大石には自信が無かった。

「何でもないって言ってたのにね、傷付くなぁ」

不二の呟きは波の音に消されて誰にも届かなかった。



(180402/小牧)→23

抱きしめてしまいそうさ




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