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(国光くんのテニスは海みたいだったよ/手塚)
4月の終わり。ゴールデンウィークが始まった。
朝のニュースでは春の大型連休に伴う交通渋滞の様子を伝えているが、ゆめみは今日も家で普段の休日となんら変わらない時を過ごしていた。
「タルト生地が焼けたわよ」
夕方から出勤の母親とお菓子作りをしていた。今日の題材はいちごタルト。少し冷ましてから、出来立てのタルトにカスタードクリーム、自家製いちごジャム、そして生のいちごを乗せて粉砂糖をふりかける。
まるでお店で売っているかのような仕上がりに、ゆめみは満足げに「出来た」と言った。
一番お気に入りの紅茶を入れてもらい、母親と一緒にタルトを頬張るゆめみ。
その美味しさに自然と笑顔になる。
カロリーが高いため、彼女らのお昼ご飯を兼ねている。
普段ゆっくり話せないので、ここぞとばかりに母親に学校の話をするゆめみ。
話が途切れたところで、ゆめみは唐突に思った。この美味しいいちごタルトを『彼』にも食べさせてあげたいと。
「ねぇママ、このいちごタルトって誰が食べても美味しいかなぁ?」
一体娘は誰を想定しているのか。母親は少し不思議そうな顔をしたが、すぐににっこりと笑って「ママはそう思うわ」と言った。
ゆめみは少し考えてみた。『彼』がいちごタルトを食べるところを。
似合わないな、と思った。でも、食べているところを見たいな、とも思った。
母親は物思いにふける娘をみて微笑ましく思った後、綺麗なケーキ用の箱に保冷剤とタルトを2つ入れた。
「きっと喜んでもらえると思うわ」
母親の行動に、うんと頷くとゆめみはそのケーキを持って出かけてみることにした。
ゆめみは玄関ドアに手をかけながら、一度振り返る。
「ママ、蓮二の分も残しておいてね」
そう言って飛び出して行った娘に、柳贔屓の母親は「蓮二くんじゃ無かったか」と残念そうに呟いた。
ゆめみはいちごタルトを誰にあげるのか、母親は数人の男の子の顔を思い浮かべてうふふと笑った。
ゆめみは東京行きのバスに乗っていた。そう、ゆめみの考えていた『彼』とは手塚国光のことだったのである。
12月の雪山で一緒にスキーをしたのが最後で、それ以来全く会えていなかった。手塚の母親である彩菜からは数回のお誘いがあったそうだが、父親とのシフトが合わなくて、実現しなかった。
雪山で助けてもらったお礼をまだしていないから、と自分の行動を正当化する。
何も無かったとしても、手塚の顔が思い浮かんだかもしれないことについては、ゆめみはまだ思いつきもしない。
移りゆく景色を見ながら、心がはやると思った。早く会いたい。
ゆめみは青春台総合病院最寄りのバス停でバスを降りた。手塚の家もこの近くだ。
大通り沿いを歩くと、1年前のことを思い出す。去年の今頃は、1人で東京に来ることにもドキドキして、不安に思ったりしたものだった。
今では東京くらいまでなら1人でも来れる。私も大人になったものだ、とゆめみは得意げに歩き出した。
しかし、10分もしない内に、ゆめみの自信は跡形も無く消え去った。
今日は日曜日。青学テニス部はオフだと知っていたゆめみは、手塚の家に直接持って行こうと思っていたのだ。数回来ているから大丈夫だろうと思っていたのだが、住宅街に入り込んだ瞬間、全く分からなくなってしまった。よくよく考えれば、車でしか来たことが無かったのだ。
まだ4月とは言え、見上げれば雲1つない青空で、日差しが強く体力が削られる。
ゆめみは「あつーい」と公園の日陰に入った。
スマホを取り出してみるが、手塚の連絡先も彩菜の連絡先も知らないことに気がつく。
母親なら住所知っているだろうが、なんとなく聞き辛い。不二なら手塚の連絡先を知っているだろうが、素直に教えてくれるとは思えなかった。
結局、1年前と同じような状況になってしまった。ゆめみははぁとため息をついて「私って成長していないな」と呟いた。
と、その時、ガタンゴトンと電車が走る音が聴こえて顔を上げる。
「そういえば」
ちょうどその時、手塚は高架線下のテニスコートでサーブの練習をしていた。
ゴールデンウィーク中だからだろうか、2面あるコート内のもう1つのコートは使われていなかった。
一通りボールを打ち終わった後、一度ベンチへ戻り、喉を潤そうとテニスバッグからドリンクを出した。その拍子に、一枚の写真が落ちる。
手塚はその写真を拾った。そして、その写真を見ながら、ドリンクを飲む。その表情に変化は無いが、微かに目の奥が揺れる。
写真には、ゆめみが写っていた。
この写真の出所は、撮影者である不二だ。3月中旬頃だっただろうか、不二に英語の辞書を貸したところ、返って来た辞書にこの写真が挟まれていたのだ。
初めは間違いかとも思ったが、相手が不二である以上、故意であることは明白だ。
写真の中のゆめみは、花畑をバックに微笑んでいる。よくあるカメラを向けた時に見せるような作り笑顔では無い。心の中から滲み出たような微笑み。そのあどけない表情が儚くて、一枚の絵のようだと手塚は思う。
どういう経緯でこの写真を撮影することが出来たのか。そもそもゆめみは不二を嫌っていたはずだ。この数ヶ月の間に2人の中に何があったのか、手塚は疑問に思ったが、何も聞けずにいた。
突き返してしまえばいいのに、それも出来ず、手塚は結局その写真を持ち歩き、たまに眺めてはゆめみを思い出していた。
そして、見ると心が落ち着く自分がいることにも、手塚は気付いていた。
彼女は、今どうしているだろうか。
よく考えることだが、いつも具体的なイメージは湧かない。手塚はゆめみのことを実はよく知らなかった。
好きなもの、趣味、休日は何をして過ごしているのか、そういう友人ならば当然知っているようなことは何も知らない。
それ以前に、自分とゆめみは友人と言えるのか?
よく分からない関係である。
手塚は写真をしまって、ベンチに座った。そして、軽く目を閉じる。
ガタンゴトンという電車が通る音が心地良く響いている。
次に会えるのはいつだろうか。
関東大会?夏の登山?
考えても仕方のないことだ。自分が滑稽に思えてフッと笑いが込み上げる。
ガタンゴトン、ガタンゴトンとまた電車の音が響いて、手塚は目を開けた。
そして、僅かに目を見開く。
フェンスの外にゆめみが立っていた。
ゆめみは手塚と目が合うと、同じように少し驚いて、その後その小さな顔に笑顔が広がる。
「国光くん」
名前を呼ばれ、見間違いでは無いことを確認すると、手塚はゆっくりと立ち上がり、フェンスを開けた。
ゆめみはスニーカーを履いており、そのままテニスコートに入った。2人はベンチに座る。
ゆめみはいそいそと小さなケーキの箱からいちごタルトを取り出すと、紙のお皿に乗せて手塚へと渡した。
「この間のお礼なの、ママと一緒に焼いたんだよ」
はにかんだ笑顔でそう言われ、手塚は無言でそれを受け取った。ちょうど午後3時くらいだった。
手塚は律儀に「いただきます」と言うと、いちごタルトを食べた。手作りらしい、上品な甘さが疲れた体に染み入る。
「礼を言う」
食べた後、手塚は短くそう言った。ゆめみはにこっと嬉しそうに笑って「良かった」と言った。
「あ、そうだほうじ茶入れて来たの」
と言って、ゆめみは水筒を出した。「でもコップが1つしか無い」と言うと、手塚は自分の水筒の蓋を手に取った。ゆめみはそこに冷たいほうじ茶を注いだ。
2人で並んでほうじ茶を飲む。
静寂が訪れた。
心地よいと手塚は感じていたが、まだ信じられなくて、隣のゆめみを見る。
ゆめみは目が合うと「もう1つあるよ、食べる?」と聞いてきた。手塚は「頂こう」と言って、またいちごタルトを食べた。
手塚は2つ目のタルトを食べながら、この状況について冷静に考えていた。
1人で練習していたはずだ。それがどうなってこうなったのか。
最大の疑問、それはなぜゆめみがここにいるのかと言うことだった。
ゆめみはにこにこと嬉しそうにしている。そして手塚が2つ目のタルトを食べ終わるのを見届けると、ゆめみは立ち上がった。
「今日はありがとう」
そんなことを言われ、ゆめみは「練習の邪魔してごめんね」と言って、テニスコートを出て行った。そしてフェンスを丁寧に閉めると、手を振って「国光くん、またね」と言う。
手塚は少し固まってその後姿を見つめていたが、見えなくなる前に「待て」と言った。
その声は大きな声では無かったが、他に誰もいないと言うこともあり、空間に響き渡る。
ゆめみはくるりと振り返った。その顔は不思議そうだ。
手塚はなぜ呼び止めたのか、自分でも分からなかった。
なぜここに来た?それは先ほど言っていた、俺にお礼をするためだと。
そのためだけにきたのか?おそらくそうだ。
どうしてここがわかった?それを知ってどうする。
数秒自問自答した後に、手塚はやっと口を開いた。
「練習に付き合ってくれないか?」
手塚の言葉に、ゆめみは嬉しそうに笑った。本当はゆめみもこれで帰ってしまうのは残念な気がしていたのだ。それでも練習している手塚の邪魔をしては悪いと立ち去ろうとしていた。「あ、でも」とゆめみはすぐに不安そうな顔をする。
「私下手だけど大丈夫?」
手塚は表情は変えずに、しかし少しだけ柔らかい印象で「大丈夫だ、期待はしていない」と言った。
ゆめみは手塚の予備のラケットを借りて、手塚とラリーをする。
実力差から、手塚の練習に付き合うというより、ゆめみが指導してもらったようなものだが、ゆめみはその時間をとても楽しんだ。
手塚が真田と並ぶすごいプレイヤーであると言うことは知っていたゆめみであるが、実際にプレイをしているのを見るのは初めてだった。
幸村や柳のテニスを近くで見ているゆめみであるが、手塚の強さはまた彼らとは異質のモノであると感じていた。
下手な自分に合わせて実力を発揮できていないだろうから、よくは分からないが。
1時間ほどラリーを続けて、2人はテニスコートを出た。借りていた時間が終了したのだ。
2人は並んで線路沿いを歩く。
「テニスは誰から学んだ?」
「幼馴染の蓮二だよ」
「そうか」
「あのね、蓮二はすごく上手なの、私のテニスセンスが無いだけで」
手塚の問いにゆめみは慌ててそう言う。下手な自分の師匠が柳だと言うことで、柳も下手だと誤解されたら困ると思ったのだ。
「卑下しなくていい、想像より酷いものでは無かった」
手塚にそんな風に言われ、ゆめみは少し照れた。
「そうかな?ありがとう」
手塚も実のところ、ゆめみとのラリーを楽しんでいたのだ。それを言うべきか迷ったが、どのように伝えたらいいか分から無かった。
「国光くんのテニスは海みたいだったよ」
迷っているうちにゆめみがそう言ったので、手塚は意識がそちらへと移る。
「海?」
「うん、広い広い海、気付くと国光くんに浮いてるみたいな気持ちになった」
手塚がじっとゆめみをみていると、ゆめみも手塚の瞳を覗き返した。
「今日は国光くんが優しくしてくれたから、楽しかったけど、荒れたら大変そう」
そして、「国光くんのテニス見てみたい」と独り言のように呟いた。
手塚も来て欲しいと思ったが、口には出せずに、「機会があればな」と言った。
ゆめみは少しそのことについて考えるそぶりを見せてから、「国光くん、嫌なら断ってくれていいんだけど」と切り出した。
「なんだ?」
「連絡先教えて欲しいな」
手塚はゆめみの言葉に少し目を見開いた。その頬は僅かに赤みを帯びている。
「やっぱりダメかな?」
無言の手塚にゆめみはそう残念そうに言った。手塚は素早くスマホを取り出して「構わない」と言った。
その動作が少し照れているように感じ、ゆめみは少し可愛いと思った。
こうして、手塚とゆめみは出逢って1年越しに連絡先を交換した。
これでいつでも連絡し合える、2人にはそれが奇跡みたいに感じられた。
(180513/小牧)→77
遠距離恋愛。