007
(蓮二の応援しなくっちゃ/幸村・柳)
中学入学後、初めての金曜日の夜。
柳蓮二は机に向かい熱心に部員のデータを分析していた。開かれた縦書きのノートが次々と埋まっていく。次の瞬間、柳は手を止めた。そして、流れるような動きで障子と窓を開ける。
「どうした?ゆめみ」
今まさに窓を開けようしたゆめみと目が合う。ゆめみは慣れっこのようでさほど驚きもせず、嬉しそうに笑って、窓を開けた。ゆめみと柳の距離はほんの1メートル程だ。
「はい、蓮二」
ゆめみは手に持っていたものを柳の口に押し込んだ。口の中に甘い味が広がる。なんとも幸せな気持ちになった。
「これは予測していなかった」
柳は眉尻を下げて嬉しそうに笑う。ゆめみは得意げにうふふと笑って、「明日のドーナツ作りの試作品なの」と言った。その言葉に柳は明日はゆめみの母親が休みであることを思い出す。
ゆめみの母親は優秀なことで有名な内科の医師であるが、普段はとても女性らしい可憐な印象で、休みの日にはゆめみと女の子らしいことをするのが好きだった。
例えば、カルトナージュやあみぐるみ作り、ジャム作り、たまにクラシックバレエを観に行ったりもする。ゆめみもそういうことをするのは好きなようで、母親に付き合ってると言っていてもどこか楽しそうであった。
ゆめみのハンドメイド好きは完全に母親の影響を受けていた。明日はドーナツ作りということか、と柳は納得する。
ゆめみは出来上がってすぐに持って来てくれたのだろう、初々しいエプロン姿のままだった。とても似合ってると柳は心の中で絶賛する。
「11時には出来上がるから、良かったら食べに来て」
ゆめみの魅力的な誘いを受けて、一瞬迷ってしまいそうになる。しかし柳はレギュラーを決める大切な試合があることを忘れてはいなかった。そのことを告げると、ゆめみは目を輝かせた。
「うわぁ、それは頑張らないとね!私、蓮二のこと応援に行くね」
このタイミングでそう告げればゆめみの性格上、そう言ってくれることは予測できていた。それでも実際に言われるのは嬉しくて、柳の頬は緩む。
「行けるの12時くらいになっちゃうと思うけど、大丈夫かなぁ?」
「問題ない、15時過ぎまでかかる見込みだ」
「よかった!あ、そういえばお昼はどうするの?」
「試合の合間に食べることになるだろうな」
「じゃあ私お弁当作るから、一緒に食べよ!」
ゆめみは身を乗り出してそう言った。柳は目を見開く。そこは想定外だったようだ。「いいのか?」という乾いた回答が口から漏れる。ゆめみは満面の笑みで頷いて。「そうと決まれば早速ママにお願いしてくるね!」とパタパタと部屋を出て行った。
ゆめみがお弁当を作ると言っても、まだ中学1年生。実際には母親が作ってゆめみは手伝いと言ったところだろう。それでも、ゆめみが自分のために料理をすることを考えただけで。
柳はゆめみの部屋のドアが閉まるや否やすぐに窓と襖を閉めた。そして、畳の上に力なくダイブする。柳は座布団に突っ伏して顔を隠すが、耳まで赤くなっている。
「・・・まいった」
こんな情けない姿は誰にも見せられない。柳はやっとの思いで起き上がり、机に向かう。集中しなくてはと思うが、一度浮ついた心をどうやって鎮めたらいいのかわからない。「本当にまいった」柳のつぶやきが和室に響いた。
翌日。
ゆめみは立海大付属東門から入ってすぐのテニスコート入り口に設置されたホワイトボードの前で1人立ちすくんでいた。
ホワイトボードには1から8までのブロックに分かれており、ブロック内の対戦スコアが書かれている。現在ちょうど半分くらいの試合が終了していた。どうやらブロックで1位にならないとレギュラーにはなれないらしい。さすがは強豪テニス部。
しかし、ゆめみの足を止めている原因はそこでは無かった。その雰囲気だ。
レギュラーが決まる試合とだけあり、殺伐とした雰囲気が漂っていた。ピクニック気分でお弁当を持ってきた自分が場違いに思えて仕方がない。唯一の救いは制服を着てきたことだ。母親から「学校へ行くなら制服を着て行きなさい」と言われたことを思い出して感謝した。これで華やかなワンピースなんかを着て来てしまった日には帰るしか無かっただろう。
「ゆめみ、来てくれたんだな」
どうしよう、これ以上テニスコートに近づけ無いよ、と思っていると、聞き慣れた声が聞こえて、ゆめみは心の底からほっとした。
本日3回目の試合を終えた柳だ。柳は慣れた手つきでホワイトボードに『6−0』と書き加える。見れば他の2試合も『6−0』で勝っており、あと残り1試合勝てばレギュラーの仲間入りだ。
「蓮二、さすがだねっ」
「ゆめみが来た時に負けていては情けないからな」
ピースをして喜ぶゆめみ。柳はゆめみの頭をくしゃりと撫でて、「ちょうど次の試合まで時間があるな」といい、ゆめみをテニスコートから少し離れた土手の上に誘導した。
幸村は海林館(部室棟)の前で昼食をとっていた。他の部員の試合を見ながらおにぎりを頬張り、なかなかにレベルの高い試合展開に満足気な表情を浮かべている。雰囲気にのまれて実力を発揮出来ていない1年生も数人発見し、来年再来年が楽しみだと幸村は思った。
「隣いいか?」と試合を終えた真田が幸村と合流する。緊張していたのか、座り込むなりふぅ、とため息をついた。
「スコアを見たよ、調子は悪くなさそうだな」
「幸村もな、1ゲームの取りこぼしもないとはさすがだ!」
「フフ、ヒヤッとした場面もあったけどね、ラブゲームと言えば俺たちの他にもう1人」
「あぁ、蓮二だろう?シングルスもなかなかだった!早く真剣勝負をしてみたいものだ!」
真田、幸村、柳はブロックが異なるため、今日試合をすることは無い。幸村も「ああ、楽しみだね」と相槌を返す。
『1年の柳が可愛い女の子を連れてやがる』
『彼女か?余裕だな』
先輩達の噂話が耳に入り、幸村は思わず顔をしかめる。言葉には非難するようなニュアンスが含まれていた。幸村は堪らず振り返ってまっすぐに先輩達の方を向いた。
「人の心配が出来る先輩達の方が余裕がありそうですね、言いたいことがあるなら、本人に直接言うべきだと思いますよ」
幸村の正論に、先輩達は一瞬たじろいで、無言で立ち去った。幸村は人の陰口が嫌いだった。真田は隣でうむ、と相槌を打つ。
「言ったところで、蓮二は気にしないだろうけどな!」
「そうだろうね」
幸村はいつも冷静沈着な柳を思い出して、彼ははたして動揺したりすることがあるのだろうかと考えた。先程も試合を見ていたが、どんな場面でも眉一つ動いていなかった。
ふと、真田が斜め後ろの方を熱心に見ていることに気づいて、幸村も同じ方向を見た。
柳とゆめみが仲良くお弁当を食べていた。幸村は目を見開く。幸村からはゆめみの後ろ姿しか見えなかったが、柳の表情はよく見えた。柳はとろけるような優しい表情をしていて、普段の彼とは別人のようだと思った。
「幼馴染とは良いものだな!」隣で呟かれた言葉に、幸村ははっとする。柳とお弁当を食べているのは、『隣の席のゆめださん』だと気づいた瞬間だった。
「ただの幼馴染なのかい?」
自分でも意識しないうちに、幸村の口からはそんな言葉が漏れていた。本人に直接聞けばいい、こんな風に陰でこっそり他の人に聞くのは自分のポリシーに反している、そんなことを頭の隅で考えたが、それよりも早く事実が知りたかった。
真田は少し意外な顔をしたが、すぐに口を開いた。
「男女交際をしているか、と言う意味の質問ならば、答えは否だと聞いている!」
「聞いている?本人から直接聞いたのかい?」
「いや、俺が直接聞いた訳では無いが、他のクラスメイトに聞かれていたのを聞いたのだ」
「柳本人が否定していたんだね?」
「そうだ!」
そこまで聞くと、幸村はやっと「そうか」と引き下がった。幸村の真剣な様子に真田は『幸村は柳の幼馴染の存在がテニスに影響するのではと心配している』と判断した。
「幸村、心配は無用だ!ゆめみは慎ましくて配慮のある女性だからな、蓮二の力になるこそすれ、邪魔になることなど絶対にない!」
やっと落ち着いた幸村であったが、再度真田の「ゆめみ」呼びに心乱されることになった。
午後の試合が始まり、またテニスコートに緊張感が戻ってくる。しかし、テニスコートを囲む坂の芝生にはぱらぱらとギャラリーが増え始め、ゆめみの居心地の悪さは無くなっていた。主に午前中で終わった部活の生徒が見に来たのだ。
「では、行ってくる」
「うん、頑張ってね」
次の試合に向けて歩き出す柳。ゆめみは芝生に座って手を振って送り出した。太陽の光が暖かく、芝生も気持ちよかった。
ふと思い付いて、コートに向かう柳の後ろ姿を撮影する。そして手際良く『蓮二全勝中、まもなく最終試合だよ、レギュラー入りほぼ確実!』というメッセージをいれて、ゆめこに送信した。
今日来れなかった親友からはすぐに「すごいじゃん蓮二」と返信が来た。ゆめみはそのメッセージに笑顔で返信して、コートに立つ柳を追いかけてフェンスへと近づいた。
柳が試合中の隣のコートでは、幸村が3年生と試合中だった。1ゲームをブレイクされるほどでは無いものの、その動きにはキレがなく、ミスも見受けられる。
幸村は謎の不調に「はぁ」と小さくため息をついた。午前中は自分でもいつも通りのプレイが出来ていると思っていた。どこでネジが狂ってしまったのか、今はなぜか体が重い。集中出来ていないのが自分でもわかる。
その証拠に、さっきから相手コートにいる先輩よりも、その先にいる少女ばかりが目に入る。
『隣の席のゆめださん』
フェンスに張り付くように立って柳を応援している姿は真剣そのものだ。彼女の漆黒の瞳はひたすらに柳を追いかけていて、柳のポイントが決まる度、真剣な表情が緩み笑みが零れる。おそらく彼女は隣で俺が試合をしていることにも気づいていないだろう。
『幸村、トゥーサーブ』
心がざわつく。どうしてこんな気持ちになるのか。この俺がテニスに集中出来ないなんて。だが、このサービスゲームを取ればそれも終了だ。
幸村は上手くいかない苛立ちから、力任せにトスを上げた。そして、視界の内にまたゆめみを捉えてしまう。隣のコートでは柳が1ゲームブレイクしたところで、笑顔で拍手をしている。
手元が狂う。幸村の口から「しまった」と漏れると同時にガシャン!とフェンスに強烈なボールが当たった。
そこはちょうどゆめみが立っていた場所だった。
ボールが落ちてポンポンとバウンドする。
そこには目を丸くしたゆめみが尻もちをついていた。
やってしまった、という後悔と、ゆめださんは俺を非難するだろうか、という憂鬱がぐるぐると幸村の頭の中で渦をまいた。
「ゆめみ、大丈夫か?」
ちょうどチェンジコート中だった柳がすぐに駆け寄った。
ゆめみは小声で「平気だよ、ちょっとびっくりしただけ」と言ってすぐに立ち上がる。そして、その大きな瞳は幸村にまっすぐに向けられた。
初めて幸村がいることを認識したゆめみは、ちょっとぼーっと幸村を見つめて。その後で、笑った。とても嬉しそうに。
言葉は何もなかったけど。それだけで、伝わるものがあった。
すぅ、と全ての雑音が遠くなるのを幸村は感じた。いつもの集中力が戻ってくる。世界には、自分と相手と、それから見ていてくれるゆめださんだけ。幸村は綺麗なフォームでサーブを打った。
ゆめみは幸村をただただ見つめていた。
『隣の席の幸村くん』
なんて綺麗なテニスだろうと思った。その指先から繰り出されるサーブは最初から誰にも触れられないことが決まっていたかのように、相手コートに吸い込まれていく。ノータッチエースだ。
どうして今まで気づかなかったのか、そのことがとても不思議だと思った。こんなにすごい存在感なのに。
『ゲームセット、6−0幸村!』
審判をしていた生徒がコールをする。残り3本のサーブを全てノータッチエースで決めた幸村は、先輩と笑顔で握手を交わした。
パチパチ、と言う音が聞こえて、振り返ると、ゆめみが拍手をしていた。満面の笑みで。幸村は早足でテニスコートを出て、ゆめみに駆け寄る。
「幸村くん、レギュラー入りおめでとう」
幸村が謝るより先に、ゆめみはそういった。嬉しい、という気持ちと同時に疑問も浮かび上がる。
なぜゆめみは俺の今までの勝敗を知っているのだろう。先程初めて俺の存在に気づいたのでは無かったのだろうか?幸村が不思議そうな顔をしていると、ゆめみはくすくすと笑った。
「すごく綺麗なテニスだったから、きっと他の試合も勝ったんだろうなって思って・・・そうでしょ?」
「ああ、そうだけど」
もし違っていたらただの嫌味な女になっていたよ、幸村は心の中でそう思ったが、ゆめみが再度嬉しそうに「おめでとう」と言ったので、「ありがとう」と言っていた。
2人が話すのは、入学式以来だった。
次の日以降も隣の席で顔を合わせてはいたが、初日に気まずい雰囲気になったこともあって、特に話すことは無かった。
今日は外だからだろうか、普通に話せる気がした。ゆめみは少し安心して、誤解を解くなら今しかないと思った。
肩に掛けていた鞄に手を入れて、1冊の本を出す。そしてその本のタイトルを幸村に見せた。『美しい花言葉』と書かれていた。
「しおりのアジサイは大切な人からの贈り物だったの、だから幸村くんの教えてくれた花言葉が嬉しくて・・・涙が出るくらい嬉しかったよ、教えてくれてありがとう」
幸村は心のわだかまりみたいなものが溶けて無くなるのを感じた。
じゃあ、あの日泣いていたのは、傷付けてしまったわけじゃなかったんだ。幸村の口から「良かった」と安堵の言葉が出た。自然に笑みがこぼれる。
あ、幸村くん、初めて笑った。
幸村の笑った顔はいつものクールな表情よりも幼く見えて。ゆめみはなんだか可愛い、と思った。
「「あの」」
2人は話したいこと、聞いてみたいことがたくさんあったが、口を開くとまたタイミングが合ってしまった。入学式後のオリエンテーションの時を思い出して、2人してくすくすと笑う。
「ゆめださんから、どうぞ」
「ううん、幸村くんから」
「じゃあ、聞いてもいいかな?」
幸村が聞こうとした瞬間。
ゆめみの「あっ」と言う声が響いた。ゆめみが急いでテニスコートに目を向けると、珍しく柳がサービスゲームを落としていた。さっきまであんなに調子良さそうだったのに、とゆめみは不思議に思う。
「幸村くん、ごめんなさい、蓮二の応援しなくっちゃ」
ゆめみの視線が再び柳へと戻る。ゆめみの応援の甲斐もあり、柳は勝利を収めてレギュラー入りが決定した。
(180322/小牧)→09
データマンの弱点。