僕の姉は、婚約者の心臓だった。
 
僕の姉は、とても特別なものとして生まれてきた。
父母譲りの類稀なる美貌、伝説の邪竜の眼に、女神の特別な権能。
生まれ持った機能だけではなく、姉はこの国の第二王子様の婚約者で、彼に恋をしていたので、よい結婚のためにと様々な能力を身に付けた。
東部の大領主であり国内でも最古の由緒正しい家門とはいえ、王都のある中央へ向かうには険しい山を越える必要があるために物理的にも経済的にも疎遠な白日の峠。姉の結婚は東部の中央進出を意味し、中央からすれば停滞している開発と交易の助け舟であった。嫌煙する相手だとて、枯れない水源とこの数十年で跳ね上がった外貨能力を持つ東部を無視はできないということだろう。
前時代的な結婚という商売の商品として縁を結んだ夕焼けの草原のレオナ・キングスカラーと白日の峠のレーヴェ・ハーマン。
誰かが言っていた。第一王子がもっと若ければ、姉がこの国で最も高い席に着いた女性だっただろうと。きっとそうに違いないと幼い僕にもわかる。
しかしだからなんだと言うのだ。二番目に生まれただけの男の妻になっただけで姉の能力や、姉の持つ資質が損なわれるわけではない。二番目の席に座りながら、誰よりも輝く妃になるだけだ。
実際第一王子ファレナ殿下の婚約者はハーマン家と比べ家格で劣るので、姉の躍進的な成長ぶりに大臣たちが戦々恐々としているのだと、王城から帰還した父が楽し気に語っていた。いつか僕も中央に顔を出すたびに、おこぼれに預かろうとする大人たちにごまをすられるようになるだろうと。
だけど思うのだ。姉とファレナ殿下はとても正しく、うまくいくかもしれないが、きっと今ほどぴたりと嵌ることはなかっただろう。
 
だって姉にはレオナ義兄上がお似合いだ。
姉は生真面目だから、疲れるだけのパーティーを一緒に連れ出してくれるくらいの人がいい。姉の立場を考えれば、他者に寛容でなくていいから悪意に敏感な方がいい。姉がドライだから、ちょっと姑息で執拗なくらいでいい。姉の美貌に釣り合い、隣に立つだけで牽制できるほど美しく強い風貌の男でなくてはならない。姉が義兄の顔がとてもタイプなのもみんな気付いている。
つまり義兄は、姉にとびきりお似合いなひとなのだ。ついでに兄たちも僕も、義兄が好きだ。だってレオナ義兄上は姉上のことが大好きで、姉上に義兄のことを大好きにさせてくれるひとだから。
義兄はいつも白日の峠にくるたび姉と僕らきょうだいや使用人たち、時には町の人にまでプレゼントを持ってきた。快適な道でないため荷物があまり積めないので少なくてすまないと言いながら、それがなかったことは一度もなかった。ちょっとずる賢い義兄上は、姉本人だけではなく、姉の周囲に好かれることで自分たちの結婚や生活が快適になることを理解していたのだ。
お陰で白日の峠はレオナ義兄上がくるたび大盛り上がりで、二人が城下にデートに出ればその姿を見ようと駆けつける人までいたり、あたたかい声をかけたり、幼いカップルを遠目で見守る者たちで賑わった。
ハーマンの屋敷の城下である街は規模が小さく険しい山に囲まれた地形であるため、外部の人の出入りは珍しいという点もあったのだろう。しかしきっとテレビで見かける芸能人だって、あんなに喜ばれることはないに違いない。
姉は強い人だった。
一歳も違わない姉は訓練中にも遠征に同行しても、勉強や作法の練習にも、一度も泣いたことがなかった。泣き虫で、姉ほど剣の才能がなかった僕はそれが羨ましいと思っていた。
けれど唯一レオナ義兄上が帰るときだけは、大きな目いっぱいに涙を溜めて見送るのだ。レオナ義兄上が乗った車の姿が見えなくなるまで目で追って、送った後に堰き止めていた涙を静かに流して、小さな嗚咽をぽろぽろと零すのだ。
僕はその別れのとき、姉のように涙が瞳に浮かべることがないので知っているのだが、車に運ばれるレオナ義兄上も必ず見えなくなるまでずっと姉を振り返っているのだ。
きっと胸が痛むから泣いていたのだ。姉は義兄上の心臓だ。心臓は胸にぴたりと収まる形をしているので、代えがきかず、離れればお互いに必要なものが足りなくなって痛むに決まっている。
僕は早く二人がずっと一緒にいられるようになって欲しかったし、できれば王都ではなくここに住んでくれればいいと思っていた。
ああ、それもまた第一王子様にはできないことだろう。やっぱり姉には義兄上なのだ。これは決して毎回持ち込まれる美味しいお菓子に絆されているわけではなく、気遣いのできる人が身内になるのを歓迎しているだけである。
まあそれはそれとして、王都の街で売っているのだという飴は、独特な風味があって非常においしいのだが。
 
当主として責任のある長男、国外に出ることで家の外交を繋いだ次男、疎遠だった国内の繋がりの復興の象徴になった長女。僕の上のきょうだいたちは優秀で、大きな役割を持って生まれた。兄たちとは歳も離れている為に自分には成せない功績も聞こえてくる。下のきょうだいとしての嫉妬の気持ちがなかったとは言わない。
それでも僕は立派で逞しい兄姉たちが好きだし同じように未来の義兄のレオナ義兄上も好きだった。恐らくレオナ義兄上も僕やきょうだいたちのことが好きだった。
 
だから城の襲撃があった時も恨む気持ちはなかった。
その日は姉の誕生日で、当然婚約者であるレオナ義兄上も招待されていたが、公式行事というわけでもない内々で行う小さなパーティーだった。
王族が来訪している中での、突然の出動命令。王からの命令に背けるはずもなく席を外した父、兄たちは学業のために出席が叶わず、手薄になった屋敷に押し入った武器を持った侵入者たち。残った護衛と姉を筆頭に僕と下の弟という状況であっても、参戦せざるを得なかった。
日程だけではなく押入った侵入者たちの対応から城内の様子まで把握されているようだったので、強盗目的ではなくレオナ義兄上か姉を狙った計画犯罪の可能性が高いのはすぐに分かった。
王族で高い魔力を持ち大地の精霊由来とされる自然に介入する魔法士と、女神直系の家門で最も高位の権能を継いだ魔法士。政治的にも魔法学術的にも狙われる理由は十分だった。しかし義兄が到着していなかったのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。
戦闘能力のない母は生まれたばかりの妹を抱えて必死に逃げ、それを護りながら、姉を見た。
一歳も違わない美しい姉。僕の能力を持っていたように剣の能力に秀で、誰より厳しく育てられ、魔法の才まであった。悔しいほどに美しく強い姉。ゆえに苦しんでしまう、僕のたった一人の姉。
彼女を置いていかなければならないことが、とても悲しい。
剣を奮いながら姉と離れ、城でも最も強固な場所である父の宝物庫に母と妹を移動させるまでに、どうしようもなく理解した。僕はきっと生き残れないことを。そうしたらきっと母と妹も無事ではないことを。父に連絡が行っただろうが、きっと間に合わないだろうことを。
父かレオナ義兄上が到着するまで城に一人にするのも、どこかも分からぬ遠い場所へ連れ去られてしまうのも、幼く力の弱い僕には防ぐことができないのだ。傷が痛むより、身体が冷えていくことよりも、死ぬことなんかより、それが悲しくてたまらなかった。
生き残ることも、母や妹を護ることもできず、死ぬ前に一言残すことさえ叶わない、弱い自らが悲しい。
味方が少なく、敵は多いこの世界に、たった一人の姉を置いていかなければいけないことが、とても悲しかった。
 
あまり時間を取れない中でも妹と僕を大事にしてくれた、少しだけ年上の優しい姉。
僕と姉は女神に誓った眷属の身で、身体を失ってもまたいつか湖の底で出会えるのがわかっているからまだいいのだ。僕らは片方がいなくなっても感知することもできる。でもレオナ義兄上はそうじゃない。
だから姉は一人で死んではならないのだ。姉は心臓だから、心臓が死んでしまったら、レオナ義兄上の左胸が空っぽになってしまう。
だからきっと姉は強く生まれ、鍛えられた。僕はそれがすごくうれしいと思った。
いつか姉が死ぬときは、レオナ義兄上も一緒でなくてはならない。
心臓が必要なくなるその瞬間までは一緒にいなくては、きっとあの日のように足りないものを探って泣いてしまうだろうから。お似合いの二人だから、他の誰かが代わりになることはできないのだ。
 
本当は僕も誰かと二人のようになりたかった。
ネーマの眷属は女神の身体とも言える御山を守るという名目で一定期間を湖の女神のもとに留まることができるのだが、湖に留まらず次の生命になる準備を進めればそれが叶うかも知れない。
でも僕は姉を待とうと決めた。
父や兄たちにも会いたかったし、姉が早めにきそうだったら追い返さなくてはならないし、二人の最後を見届けなくてはならないと思ったからだった。
何十年も先になるだろうけど、湖は女神様がいて、ご先祖様がいる。きっと穏やかに過ごすことができるだろうと。
 
しかしそれがまさか、ずっと早い再会に繋がるだなんて誰が思おうか!
なんと姉はハーマンの運命とも呼べるドラゴン、それもあの邪竜の落とし子との戦いに挑むことになったのだという。湖の底で興奮が抑えきれなかったのは僕だけではなく、たくさんのご先祖様たちだ。その中にはもちろん、あのアイオロスも含まれている。
姉と女神さまに魔力を借りた戦士たちは意気揚々に外へ飛び出し、勿論僕もそれに続いた。外には多くの優秀な魔法士たちが姉を支えていた。
力の弱い僕は他者から感知できるほどの姿にはなれなかっただろうけれど、可愛い姉の晴れ舞台に席があるのに出席しない弟はいないのだ。何なら自らの席がなくとも作り出し、当然のように着席して出番を待っているのが可愛い弟というやつなのである。
 
どうやら姉は辛勝したようだった。
この道中で失ったものはあまりにも多く、無事であったとは決して言い難かったけれど、彼女が湖に落ちることもそれよりもっと悪い状況になることもなかったのだから、良かったと言ってもいいだろう。
少なくとも唯一の願いであるレオナ・キングスカラーの平穏な未来は守れたのだから、姉は満足しているはずだ。
 
そうして湖にも再び穏やかな日々が訪れた。地上のように能動的に情報が入ってくるわけもなく、肉体を失ったせいなのか、時間感覚がわかるわけでもない。
けれどただ水中を漂いながら家族の平和な日常を夢想するだけの世界もなかなか悪くはなかった。それに地上の、現在白日の峠に住んでいる家族や街の人々は湖に高頻度で顔を出して、そうして必ず僕の名前を出してくれるのだ。
絶対に同じように、姉はすぐに僕に会いに来てくれるはずだ。
女神様もみんなも喜んで彼女を待っているけれど、きっと僕が一番彼女を待ち望んでいる。
その後幼い頃二人並んでそうしたように湖に足を浸して、なんて事ない日々の話をしてくれる。生真面目なところがある人だから、きっと寂しがる暇もないくらい様々なことを僕に教えてくれるだろう。
いつか姉がここに来たら、いろんな話を聞くのだ。
僕の知らない国。行ったことがない場所。会ったことがない人。したことがない経験。姉の話はきっと、僕の存在しない心臓をも、ドキドキさせてくれるに違いない。
絶対に結婚の報告をしてくれるし、誕生日には花も持ってきてくれるはずだ。子供なんて生まれた日には、ことあるごとに成長報告をしに来てくれるだろう。
剣と鞘のようにぴったりと嵌ったお似合いの二人。美人で高貴な二人から生まれた子供は、どれだけ可愛いことだろう。
二人とも丈夫で成長が早いと父も言っていから、すぐに僕の身長なんて抜いてしまうかもしれない。おしゃべりだって上手になってしまうかもしれない。それを見るのがとても待ち遠しい。
 
ジョルド・ハーマンとしての生涯が非常に短かったことに寂しさを覚えなかったことはない。
学校にも通ってみたかったし、恋人や友達、子供だってほしかった。父や兄姉を補佐して領地で様々な研究をする夢だってあった。そういうものがすべて、淡い夢のまま終わってしまった。
姉の能力や王族との政治的結婚、外部からの不平不満に巻き込まれて命を失ったのだから、恨みの一つくらいは言ってもいい立場なのかもしれない。
けれど僕はその短い人生で、寂しさを怒りや恨みと取り違えないだけの愛情や正しさを与えてもらえたし、こんな穏やかな場所で感情を整理できる機会を与えられた。何より自分でできる範囲のことはやった上の結果だったから。
それに心底恨むべき筆頭である実行犯たちは姉が、関与した者たちは父や兄によって秘密裏に排除されたと聞いている。
長い時間を過ごすなら、素敵な記憶ばかりを思い返していたい。だからひとまずはそれでいいか、と思えたのだ。出来る弟はいちいち根に持たないのだ。
 
もう僕の中に悲しさはなかった。これからは姉が、義兄が、父や兄が、僕に素晴らしい知らせばかりを届けてくれるから、大変なことが多い彼らと違って、これからの僕はいいとこどりになることだろう。それはそれで、悪くはない。
だから僕はその様々な知らせが色付くよう、報告の日を待っている僕が退屈にならないよう、ちょっと波乱万丈に、そして眩しい世界で生きて貰わなくてはならないのだ。
まるで気分は本の最新刊を待ち望む読者のようだ。ジャンルは英雄譚か、ロマンスだろう。
運命的な出会いを果たした主人公とヒロイン。彼らが冒険の旅路で苦難に出会うたびに一緒に不安になって、けれどその苦難さえもどこか期待して、素晴らしい出会いがあれば幸福を与えられ、ロマンスに胸をときめかせ、文字を追うだけで匂いと味で腹を鳴らして。
真っ白だったページが埋まり、めでたしめでたしで締め括られるまで、ハッピーエンドのその時まで、きっと僕は彼らの旅路を共にする。
似合いの二人の物語の最新刊をリアルタイムで追うことができるのは、結構中々、悪くない。そう思える僕は、二人に似合いの素晴らしい弟だったのかもしれない。
なんたって、ハッピー・エンドロールの向こう側で彼らを迎えることができる弟は、この世に僕しかいないのだから。
そしてその物語の主人公とヒロイン、レオナ・キングスカラーにはレーヴェ・ハーマンが誰よりもお似合いなのだ。