秒針が止まった日

土砂降りの雨が身体に容赦なく降りかかり、重くなった衣類や髪が冷えてきていた。濡れた身体に乱れた髪。なんとも無様な姿だろうかと、すれ違う人々は思うだろう。なんて、危険区域の中じゃすれ違うような人いないだろうが。今朝早朝、整えていた髪が濡れてしまい、明日も学校に着ていかなければならない制服が濡れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。姿が乱れ、凍えていく体も厭わず、ただただ、一心不乱何ふり構わず、私は1人の人物を探していた。

朝のこと。曇天を見上げて、その不気味なほどの空の暗さに、今日は雨が降るんだろうな、なんてぼんやりと考えた。それは天気の知識が一切ない私でも、何となく察することが出来るほどの空模様であったためだ。でも今日はあえてお気に入りの傘を手に取ることなく玄関を出た。その理由はくだらない。雨にぶたれてしまえばいいと思ったのだ。

前にテレビで、幸と不幸は実はバランス良く訪れるものだと言っていた。幸せばかりだとそのうち大きな嫌なことがあるし、不幸ばかりだとそのうちいいことが起きるって。

もし私がここで、少しでも不幸を積み重ねれば……。そうすれば一週間前の出来事は実は嘘でした、なんて。実はあの人はあちらの世界になんて行ってなかった、なんて。またへらりと頼りなさそうに、それでいて穏やかな優しい笑みで私の前に現れてくれるんじゃないか。なんて浅はかな期待を抱いたのだ。

馬鹿な考えだなんてことはわかっている。そんなことあるはずないことってことも。それでも、もしかしたら。たった1パーセントだっていい。わずかでも希望があるのなら、かけてみたいと思ったのだ。すがりつきたかったのだ。

しかし、現実はそう上手くはいかないらしい。


「ーーっ…うあぁ……っ」

声にならない悲鳴をあげる。バカみたいに高音を吐き出せば、その出したこともないような悲鳴のせいで喉がひりひり痛みだす。ひたすら世界を覆いつくす漆黒で何も見えない空に向かって嗚咽する。自分では止めることの出来ない胸から吹き上がってくる負の感情。ぐるぐる渦巻くそれを自分ではどうしようもできなくて、いよいよおかしくなりそうだ。目から湯水のように溢れ出る涙は、冷たい雨と混ざって、私の頬を流れ落ちていく。

どうしていなくなってしまうのか
どうして何も言ってくれなかったのか

ねぇ。やっとB級に上がれたんだよ
やっと、的を綺麗に打ち抜けたんだよ

言いたいことだって、聞きたいことだって山ほどある。貴女に伝えたいことが山ほどあるのに。まだ貴女にお礼もちゃんと言えてないのに。どうしてこうも突然なんだろうか。へらへらと貼り付けたような笑みといい、思いがけない行動の数々といい、本当に貴女は何を考えているのかわからない。頭の中では、決してもう届けることのできない師匠への不満が次々に溢れ出てくる。この不満を空想の中の彼女にぶつけてみるが、私の頭の中の師匠は、ただ優しい笑みを浮かべるばかりなのだ。しかし、それも仕方ないと自嘲する。だって私は、あの人の優しい顔しか知らない。


「鳩原…さ……」


必死に絞り出した言葉は、強い雨がコンクリートを叩く音でかき消される。無我夢中で未知の町ー立ち入り禁止の区域を駆けていたせいで、ここがどこなのかもわからない。途方に暮れて水たまりの浮かぶ地面へとなだれ込む。コンクリートに乱雑に投げた皮膚から、びりっと痛みが走った気がした。それさえも今はどうでもいい。ただ、感傷に浸ることしかしたくない。なのにーー。

「ぁ…」

刹那、頭の上で聞こえた不気味な音。涙と雨のせいでよく見えない視界、だがそれが何かは直ぐにわかった。それは生涯忘れることの無い記憶の中にあったものと同じものだから。バチバチと火花を散らす音を生み出す不穏なそれは、ぐるぐると黒い渦を巻きながら肥大化していく。その様子を涙で見えない視界の奥に視る。ドクドク脈打つ心臓が、逃げろ逃げろと私を急かす。にも拘らず“ああ、私はここで終わるのか”なんて。頭の中は不気味なほどに落ち着いていた。

ボーダーから、目の前から、私の前から。私の大事な人は、忽然と姿を消した。もうあの人の笑顔を見れない、そう悟った瞬間、まるで私の世界は色を失ってしまったかのようだった。この暗黒の世界にしても、そこからあふれた大雨も、まるで私の心そのものを映しているようだと。背後に迫る“何か”の気配に気づきながらも、雨空を見上げては手を伸ばす。あの雲の向こうにきっと太陽があるように。あの雲の向こうに青い空があるように。私にとっての光だった貴女に手を伸ばす。それはもう二度と、決して届くことはない。

師匠が消えてしまったあの時、私は人生で2度目の絶望を経験したのだ。





「…きて。……ちょ…。……ちょっと…!めぐ!」

聞きなれた声がする。ユズルの声だ。

「あー全然起きないねぇ」
「たくもー!だらしねぇなぁ」

ゾエさんと光ちゃんの声が頭上から降ってくる。そこでようやく自分は夢を見ていたんだと気づいた。お世辞にもいい思い出とは言えない、昔の記憶。随分と眠りこけていたせいか、私の身体はまるで焼き芋みたいにほかほかとしていた。どうやらコタツの中で寝てしまっていたらしい。コタツの中で蒸された足が汗ばむほど熱を持っている。視野を隠しているこれはなんなのか。手でそっと触れてみるが、毛布やタオルケットとはどうも手触りが違う。思い当たる手触りを寝ぼけた頭で探してみれば、どうやらこれは誰かの衣類のようだという答えにたどり着く。それは、熟睡するために光を遮ろうと自ら何処かから手繰り寄せたのか、誰かが私の不始末な寝顔を隠そうとかけたのか、よく分からなかった。

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