「ミノリ」

 ミノリ、とミステルは椅子でうとうとしている妻の名を呼んだ。
 時間は午後九時。牧場の仕事を終えて、夫婦で食事を楽しみ後片付けが一通り終わった頃。夫婦の食事の支度は当番制で今日はミノリが料理を担当する日だった。
 メニューはシチューとパン。サラダも用意しようかと思ったのだが冷蔵庫から野菜を取り出すと野菜が苦手なミステルが嫌な顔をしたのでやめたのだと食事の時にミノリは笑っていた。
 仕事の疲労と満腹感が眠気を誘うのだろう。先程まで楽しげにミステルと会話していたミノリだが今はもう半分ほど夢の中に旅立っているように見える。
 ——正直、自分との会話の最中だというのにこうして放っておかれるのは少しつまらない。だが、普段の彼女の忙しさは理解しているから起こしてしまうのも忍びない。

「ミノリ」
「ん……」

 再度、彼女の名を呼んだ。
 一瞬、ミステルのほうに反応を示したがやはり半分寝てしまっているらしい。仕方ないな、とミステルは苦笑する。
 冬の月の終わり。雪が降ることも減り、少しずつ暖かくなってきたとはいえこの時期にこんな場所で寝ては風邪をひいてしまうだろう。
 ミノリ、と彼女の身体を数回揺する。ベッドまで運んでやれたらいいのだが同年代の男と比べると小柄なほうであるミステルが意識のない成人女性を抱えて歩くのはどうしても難しい。そもそも夫婦が寝室として使っている部屋は二階である。

「ミノリ、休むのならせめて寝室で。こんな場所で眠っては風邪をひきますよ?」

 ミノリが風邪をひいたとしても付きっきりで看病するつもりではあるけれど、彼女が動けなくなると困るのは牧場の作物や動物たちだ。
 以前アンティークショップの定休日にミノリの仕事を手伝う機会もあったがミステルには専門的なことはさっぱり分からない。動物に餌を与えて作物に水をやることくらいは分かるがそれも適切な量は把握できていないだろう。
 そもそも鶏が苦手なミステルとしては——ミノリが困っているなら助けになりたいとは思うけれど、動物の世話など出来れば遠慮したいところではある。何せこの牧場で飼われている鶏の数は十羽を超えているのだ。

「んぅ……ミス、テル……?」
「おはようございます、ミノリ」

 アメジストの瞳がまだ意識がはっきりしていないらしいミノリの姿をとらえた。
 ——いつもと違う、ぼんやりとした様子の妻の姿も可愛いな、なんて思うほどにミステルはミノリに焦がれている。

「ボクが強硬手段に出る前に、目を覚ましてくださいね?」

 早く起きなければその愛らしい唇を奪ってしまいますよ、とミステルは微笑した。
 一人の女性に対してこんなにも執着するなんて以前は考えられなかったけれど。もう彼女のいない日々は考えられない。