「ということで、数日ほど王都へ行くことになった」

 夫であるラインハルトのそんな言葉にアリスは目をぱちくりさせた。
 結婚式を終えてひと月。結婚するよりも前からラインハルトの立場を考えれば彼が一時的にリグバースを離れなければならないこともあるだろう、と想像はしていた。
 ラインハルトは王国の騎士だ。国や国王陛下の身に何かあれば駆けつけなければならないのは当然のことだ。
 離れることが寂しくない、と言えば嘘になるが何があっても彼は必ずリグバースへ戻ってくるとアリスは確信している。何より騎士として頑張るラインハルトの姿に惹かれている部分も大いにある。だから引き止めるつもりはないけれど。

「それは構いませんけど……急ですね?」

 夕食の支度をしていた手を止めて、アリスはそう返す。
 少なくとも今朝はそんな話はしていなかった筈だ。国や国王陛下の事情には詳しくないからよく分からないが、急用でも出来たのだろうか——などと考えていると彼もまだ詳しい説明は聞かされていないのだと困ったような顔をした。
 何でも昼頃にベアトリス宛に届いた手紙にそう書かれていた、と。用事自体は数日で済む程度のものらしいけれど、どうやら一般人には理解の及ばない複雑な事情があるらしい。

「あなたを一人残して行くことが心苦しくはあるのだが……」
「気にしなくても大丈夫ですよ。ラインハルトさんが帰ってくるまで、しっかりと家のことをして待ってますから」

 このひと月、朝目を覚ましたときも夜眠る前もすぐ隣にラインハルトがいる生活が当たり前で、そんな生活に慣れてしまっているから隣に誰もいない目覚めは落ち着かなさそうではあるけれど。
 一緒に行きたいという気持ちはあるけれど国の事情に疎い一般人などついていっても邪魔なだけだし、どうせ彼の仕事には関わることも出来ない。それに、自分にはSeedの仕事もある。リグバースから気軽に離れることが難しい立場だ。
 ならば彼が帰ってくるまでこの家を守り、彼がただいまと言ってくれたときにおかえりと出迎えるほうが良いだろう。ラインハルトが帰るのはいつだってこの家なのだから。

「ラインハルトさんも、浮気しちゃだめですよ」

 夫が浮気するなど思っていないけれど、冗談のつもりで釘を刺す。

「心配無用だ。アリス殿以外にまったく興味がないからな」

 ——そんな風にはっきりと断言されて、思わず面食らう。
 ラインハルトが自分のことを本当に大事にしてくれていることはアリスも理解していた。結婚してからも頻繁に好きだ、愛していると、そう告げられるし自分が何か困っているときは助けを求めるより先に気付いてサポートしてくれることもある。
 他の女性にうつつを抜かすようなことは断じてあり得ないと思っていたし「浮気なんてするわけがない」程度に否定されるのを想像していたけれど、彼はアリス以外に興味がないと笑うのだ。
 そうきっぱりと言い切られるととても恥ずかしい。

「……そ、そう言われるとさすがに恥ずかしいんですけど……」
「思っていることを言ったまでだが……」

 まだ食事の支度が終わっていないのに気持ちがふわふわして、これでは料理どころではない。
 ラインハルトと出会って数年。彼に恋をしてからそれなりに長いが、どうやらアリスが彼の言葉に慣れる日は来ないらしい。



 ラインハルトが王都へ行く前日の夜。明日から暫くは一人になるからせめて今日くらい二人でゆっくりと過ごす時間が欲しい、と言い出したのはアリスだった。
 アリスが自分からそんなことを言い出すのは珍しいほうだ。仕事が好きな彼女は夜遅くまで働いていることも多いし、寂しいと思っていてもそれを積極的に表に出すほうではない。
 もちろんラインハルトが今日は一緒に過ごしたいと言えば喜んで応じているし結婚後も彼女のほうからデートに誘ってくれることもあるけれど。
 頬を赤く染めながら最愛の人にそのようなことを言われたらラインハルトも断れる筈もなく——頼まれなくても今日はいつも以上にアリスと過ごす時間を作るつもりではあったが、普段より早く帰宅して二人でのんびりと過ごしていた。
 一緒にレストランで夕食をとり、ついでに旅館で風呂を済ませて帰ってもまだ寝るには早い時間。普段ならばまだ仕事をしていてもおかしくない頃だ。

「帰ってくるときは事前に連絡してくださいね。私だってきちんと出迎えたいんですから」
「承知した」

 ラインハルトが帰ってきたときに偶然家を留守にしていた、なんてことになるのは嫌だし家にいたとしても仕事をしていて全身泥だらけだと流石に恥ずかしい。
 仕事で汚れている姿なんて特に結婚してからは日常的に見られているのだが、それはそれだ。

「……それから、やっぱり寂しいので出来るだけ早めに帰ってきてくださいね?」

 難しいかもしれませんけど、と遠慮がちに言うアリスにラインハルトは息を呑んだ。
 アリスにはまだ一度も話したことがないし彼女は気付いてもいないだろうがラインハルトにとってアリスは初恋の相手である。人生で初めて心の底から惚れた相手のそんな可愛らしい願いにラインハルトは弱いのだ。
 分かっていると伝えるかわりにアリスの頭をそっと撫でる。結婚した今でも変わらず恋をしている。