グリモア計画。ゼークス帝国が画策していたその計画に、アースマイトの存在は必要不可欠だった。
 ゼークス帝国第8師団所属ファーイースト地区特殊先行調査部隊隊長リネットはその計画の指揮官として様々な策を巡らせていた。
 アースマイト。大地と対話出来る者。特殊な力を持っているらしい、ということは知っている。実にくだらないとリネットは思う。ゼークス帝国では機械が生活の大半を支えているし、自然や大地など何の役にも立たないからだ。そもそも、自然豊かな土地などこの国には殆ど残されていない。故にきっとゼークス帝国で利用出来そうなアースマイトを見つけるのは困難だろう。ならば帝国以外から都合の良い存在を見つければいい。
 そうして目をつけてゼークス帝国に誘拐した男が後に自らをラグナと名乗ることになるアースマイトだ。彼が元々どんな人間なのかは知らないし興味もない。どうせ素直に協力を求めてもこの男は頷かないだろう、と判断したリネットは青年の自由を奪い薬で記憶を消してノーラッド王国の町、カルディアに住まわせるように仕向けた。
 これで計画は全て上手くいく、筈だった。

「……まさか自分がカルディアで生活することになるとは、流石に思わなかったな」

 人の少ないカルディアの公園を歩きながらリネットは息を吐く。
 グリモア計画は他でもないラグナの手によって阻止された。皇帝エゼルバードの期待に応えられなかった無能な軍人に居場所などある筈もなく、死ぬしかなかったリネットに「この町で暮らせばいい」と手を差し伸べたのがラグナだった。成り行きでカルディアの町で生活することになって数日。仮にも敵対していた軍人だというのに、この町に住む人々はとても優しい。
 先程も生活に必要なものを揃える為に立ち寄った雑貨屋で形が悪くて売り物にならないものだから、といくつか食べ物を押し付けられたところだった。ゼークス帝国ではそのような経験なんて一度もなかったから少し警戒してしまったけれど、どうやら彼らに悪意はないらしい。

「リネットさん」
「……ラグナ殿?」
「この町に来たこと、後悔していませんか?」

 ラグナのそんな問いが胸の奥に突き刺さる。それはまるで魚の小骨のような、小さな刺だ。
 ——後悔しているのか、と言われると答えはノーだ。彼の投げかけた問いの意味が「帝国の軍人として、計画遂行の為にこの町に来たこと」であったとしても「皇帝陛下から自裁を命じられた後に、紆余曲折を経てカルディアに腰を落ち着けるに至ったこと」であったとしても、その出来事がなければ今の自分はいなかったのだと確信している。
 リネットが気にしていること、と言えば自分にとっては計画を台無しにしてくれた因縁の相手でもあり同時に恩人でもあるラグナのことだ。自分はラグナの記憶を奪い、彼のその後の人生を狂わせた。失った記憶を取り戻す術はなく、ラグナから過去の全てを奪ったようなものである。
 記憶とは本来、その人を形作る重要な要素だ。例えばリネットは元ゼークス帝国の軍人であると自らを認識しているが、それを自分で認識できない状態になれば今のリネットとは違う性格、別人のような人間になっていただろう。
 要するに、自分は過去のラグナを殺してしまったようなものではないか。それでも彼が同じ町の住人として親切にしてくれる理由がわからない。そもそも自分はそんなことをしてもらえるような人間ではない、とそう思っている。

「……リネットさん? どうかしましたか?」

 言葉を詰まらせているリネットを見て疑問に思ったのだろう。そう呼びかけるラグナの声で我に返る。何でもない、と声を絞り出す。極力不自然に見えないように。

「後悔はしていない。この町で本格的に生活を始めたのはほんの数日前だが、敵だった私の素性を誰も気にしていない。……それどころか、助けられている」
「帝国が攻めてきたあのとき、リネットさんのお陰で住人の避難がスムーズに済みましたからね。受け入れるには十分な理由だと思います」
「…………そういうものだろうか」

 少なくともゼークス帝国では、そんな理由で敵だった者が受け入れられることは稀だったように思う。
 もしカルディアがゼークス帝国の領土で、自分がカルディアと敵対する立場であったとしたら。計画が失敗して捕らえられた自分は最悪処刑されているかもしれない。
 リネットに自由を与え、敵だったとは思えないほど気軽に声をかけてくるこの町の人間はリネットにとって非日常の象徴のようなものだった。
 決して、今の生活を悪く思っているわけではないけれど、どうにも落ち着かない気持ちになることはある。今まで帝国で培われてきた常識を根底から揺るがすようなものなのだから当然ではあるけれど。
 ——何より、だ。どうしても罪の意識がある。このカルディアにしてきた数々の仕打ち。それらは到底許されることではない。敵対していた軍人など、本来は恐ろしくて近付きたくもないだろう。況してや同じ町で暮らすなど、耐えられないと言われても仕方ないと思う。
 幸か不幸か、この町にリネットを受け入れたくはないという住人はいないけれど。……本当は受け入れたくないが揉め事を起こしたくなくて我慢しているだけの人もいるかもしれないが。

「リネットさんは今、幸せですか?」
「……質問の意図が読めないな」
「いえ、何となく気になっただけですけど」

 幸せか、と言われてすぐに頷くことは出来なかった。
 本来であれば帝国に帰ることも出来ず、カルディアで生活するという選択肢も与えられぬまま消えていた命だ。今こうして生きているだけで十分すぎるほど幸せに恵まれている。
 だが、恐らく、ラグナが聞きたいのはそのような言葉ではないのだろうとリネットは理解した。果たして自分は幸せなのだろうか。否、そもそも幸せとは何だろうか。分からない。故に肯定も否定も出来なかった。

「ラグナ殿。……ラグナ殿の目には、今の私はどう映っている?」

 そんな疑問を口にする。
 きっと幸せそうな人間には見えないだろう。朗らかに笑う、春の陽のような女性ならいざ知らず、軍人としての空気が抜けない血と戦の匂いがする、そんな女だ。

「……ラグナ殿の目に映る私が、そのまま答えだよ」

 どちらかと言えば氷のような、そんな人間だった。