カルディアで暮らすことになったリネットに最初に与えられたのは、ミストの家の空き部屋だった。
当初は宿屋にでも泊まるつもりだったし宿に空き部屋がなければ町を出て行くつもりだったのだが自分の家に来たらいい、と言い出したミストに半ば強引に連れてこられ、生活スペースと最低限の日用品を押し付けられて断るタイミングを見失ったまま今に至る。
騒がしいのは好かないから、と祭りの日に家にいてもそれを咎められることはないし一日中出かけていても深く聞かれることはない。こんな人間を同じ家に文句も言わず置いてくれるミストにはとても感謝している。
「ミストさん、こんにちは」
「いらっしゃい、ラグナさん」
家の戸を叩く音がして、それから聞き慣れた声が耳に入る。毎日、町の人たちのところへ顔を出しているらしいラグナはこの時間になるといつもやってくる。普段リネットは朝から日が暮れるまで出かけていることが多いからミストからそう聞いていただけで、この場所で彼の声を聞くのは相当珍しいのだが。
「牧場の仕事は順調ですか?」
「ええ、まあ。今育てている野菜がそろそろ収穫の時期で割と忙しいんですけどね」
二人がそんな話をしているのをどこか遠くで聞きながら、極力物音を立てないよう家を出る。何となく邪魔をしては悪いと思ったのが一つ。もう一つは単に自分があの空間にいるのが場違いな気がしたからだ。
——逃げている、と言われたら否定は出来ない。この町は温かくて優しい人が多い。だからこそ彼らに対する今までの仕打ちを気にするな、というほうが無理だ。
カルディアで過ごすうちに、罪の意識に苛まれるようになった。町の人たちが誰一人気にしていなかったとしても、だ。
肌を刺すような冷たい風が吹く。冬を迎えているカルディアは気温も低く、昼間であっても凍えるような寒さだ。それでも、ゼークス帝国で生きていた頃とは比べ物にならないほど穏やかな時間。つい、色々なことを考えてしまう。
ゼークス帝国はノーラッド王国とは違い機械の力で発展し勢力を広げてきた国だ。
ノーラッド王国は豊かな自然が残っており、人々はそれらを大切にする。多少の不便があっても自然を破壊してまで自分たちにとって都合のいい環境にしてしまおうという考えはない。
一方ゼークス帝国では自然を切り開き、そこに新しい機械を設置する。その機械が空気を汚染し自然を壊してしまうものだったとしても暮らしが楽になるのなら、他の国の侵略が有利になるのなら些細な犠牲でしかない。否、犠牲とも思わないだろう。そうして発展してきた国で、リネットは生まれ育った。
帝国の軍人として様々な計画に加わるようになってからは全てはエゼルバード皇帝陛下の為、役に立たぬ無能に居場所などないと言い聞かされた。今思えば洗脳のようなものだったのだろう。
リネット少佐、と記憶の中の誰かが呼んだ。それが誰であったのか、今となっては思い出せない。恐らくはゼークス帝国の兵士だろう。一度死んだも同然の今の自分にはもう関係のないものだ。
気付けば夕方になっていた。最近、考え事を始めると何時間も経過していることがよくある。ただ町を歩きながら考え事をしているだけで一日を無駄にしてしまうのはどうかと自分でも思う。
営業している施設も減り、昼間と比べると静か。ノーラッド王国とゼークス帝国の国境付近に存在するカルディアは元々住民の多い町でもない。王都と比べて田舎で、観光地になるような珍しいものもない。それ故に、人の気配が殆どない早朝や深夜はその静寂さに恐怖を感じることもあるくらいだ。
……何もかも、ゼークス帝国とは違う。まるで異世界に迷い込んだよう。選択が正しかったのか、間違っていたのか。どちらにせよ「リネット少佐」という人間はあの時死んでいたのだけれど。
「……私は、何をしているのだろうな」
思わず自嘲する。カルディアの町から出ることも出来ず、町に打ち解けることも出来ない。ゼークス帝国に帰ることなど出来ないし、帰るつもりもない。何も行動を起こさず、幽鬼のように彷徨っている。
現状を変える努力をしていないのは自分だ。分かっている。この状況で良いだなんて、自分も思っていない。町で暮らし続けるのなら歩み寄る努力はすべきだし、それが出来ないのなら町を去るべきなのだろう。尤も、この町を去るとして他に行くあてもないので困ってしまうのだが。
「リネットさん!」
ふと、遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえて意識を引き戻された。
カルディアの町でリネットと積極的に関わろうとする人間など限られている。困っているときは助けてくれるし、偶然見かけたから食材や料理のお裾分け、ということはあるが遠くにいるところを態々呼びかけるなど普通はしない。
「ラグナ殿、何か用だろうか」
「リネットさん、もう夕飯は済まされました?」
「……いや」
酒場で適当に何か食べてから戻ろうかと思っていた、と返すとラグナは顔を綻ばせた。
「もし良ければ、僕の家に来ませんか? 御馳走します」
「ラグナ殿の家に? ……私が?」
聞き間違いだろうか。そう思ったがラグナは笑顔で頷く。流石に予想外の発言に面食らう。リネットとラグナは家族でも恋人でも、友人でもない。少なくともリネットはそう認識しているし、同じ町で生活しているだけの関係だ。何より、かつて敵対していたし記憶喪失の原因でもある自分を家に招くなど。どうかしている、と言わざるを得ない。
「家に食材が余ってて、一人では食べきれそうになくて。酒場ほど美味しい料理は振る舞えないかもしれませんけど」
「それなら私より他の人を呼んだほうが良いと思うが」
「僕がリネットさんと一緒に食事をしたいと思ったんです。駄目ですか?」
「駄目、というわけでは……」
——何故、彼はそこまで自分に構うのだろう。
付き合っていて楽しい性格の人間でもないだろうし、何のメリットもない筈だ。そもそもラグナに恨まれる理由はあれども、構われる理由は一切思いつかない。迷惑に思っているわけではないが、正直困惑してしまう。このラグナという男は相当な変わり者ではないだろうか。
「じゃあ、決まりですね。行きましょうか」
「あ、ああ……」
困惑するリネットの手を引きラグナは歩き出す。最近理解したことだが、この男は案外頑固で強引なところがある。といっても悪い意味ではなく、相手に無理強いすることもない。相当なお人好しで人の世話を焼くことが好きなのかもしれない。結果的にされるがままの自分も自分だが。リネットは溜息をつく。ラグナのことは嫌いではないが、やりにくい。
リネットがラグナに大人しく従っているのは逆らう理由もないから、というのもあるがそれ以上にラグナに対して負い目があるからだ。
——ラグナがもし薬によって記憶を奪われなければ、彼は今もどこか別の町で平和に過ごしていたのだろうか。彼の生活を壊した自分が言える立場でもないが、時折そんなことを考える。
彼が記憶喪失にならなければグリモア計画は進まないし、計画が進まなければもっと早い段階でゼークス帝国から切り捨てられていた可能性もあるから考えても仕方のないことではあるけれど。
「リネットさん、どうぞ。殺風景な部屋だと思いますけど……」
ラグナの家に案内され、そのまま椅子に座らされる。一人暮らしの男の部屋に招かれたことなどないので普通の男がどんな部屋で生活しているのかは知らないが、ラグナの家は随分と片付いているように見えた。
毎日畑仕事をして、モンスターの世話も欠かさず、町の人たちの困りごとを手助けし、ダンジョンに異変があれば確かめに行く。そんな生活を繰り返しているのだから正直もう少し散らかっていると思っていた。
「それじゃあ、作ってきますね。簡単なものしか出せませんけど……」
——帝国で軍人として様々な任務にあたっていた頃ならラグナのこの行動に対して毒殺を警戒していただろう、と物騒なことを考える。
分かっている。ラグナという青年は理由もなく他者を害することは出来ない人間だ。特に同じカルディアの町に住む人たちのことは。仮に何らかの理由があったとしても自分に貸し与えられている家で堂々と実行出来るタイプではないだろう。ラグナの行動は純粋に親切心でしかない。
かつては敵だった人間を無条件に家に招いてしまうのはそれだけ信頼されていることを喜ぶべきなのか不用心だと呆れるべきなのか分からなくなるけれど。
「ラグナ殿」
「?」
「……ずっと聞きたかったのだが、どうして私にそこまで関わろうとする?」
ラグナのことは苦手ではない。
だが、お互いの立場を気にせず距離を詰めてくる彼の行動は、少しだけ苦手だ。
——知っているとも。彼がそのような小さなことを気にしない人間だということは。まだ短い付き合いだが、それくらいのことは流石に分かる。
彼にとっては本当に些細な問題でしかなくても、リネットにとっては決してそうではない。こればかりは埋めることの出来ない溝のようなものだとリネットは思う。
そうですね、なんてへらりと笑ってみせるラグナは本当に自分とは違うタイプの人間だ。
「……私は、元ゼークス帝国の軍人だぞ」
「今はもう同じ町に住む仲間ですし」
「それはそうかもしれないが、ラグナ殿にそこまで私と付き合うメリットなどないだろう」
「メリットがなければ付き合ってはいけないんですか?」
「……何?」
確かに「こいつは仲良くしておくメリットがある」という理由から友達になることはないだろう。
リネットがまだリネット少佐と呼ばれていた頃、ゼークス帝国の任務で最初から利用する目的で人に近付いたことがなかったわけではないが、あれは元々友と呼べるような関係ではなかった。
今となっては酷いことをしていたと思うが、当時はゼークス帝国の、皇帝陛下の役に立つことが全てだった。その為に他人の気持ちを踏みにじり、心を弄んだこともあっただろう。
だから、つい。自分と付き合うのはメリットもないことだろうなどと考えてしまう。
「少なくとも僕はリネットさんのことを知りたいし仲良くなりたいと思ってます。ゼークス帝国の軍人ではなく、カルディアで暮らす住人同士として」
「変わっているな」
「そうですか? でもほら、御近所さんですし」
ラグナの家は元々ミストが所持していた土地だという。記憶喪失で帰る場所もないラグナに「だったら此処で生活すればいい」と使っていない畑と家を貸し与えたのがミストだったと、そんな話をうっすらと聞いた。
ミストの土地であるこの場所はミストの家からさほど離れておらず、なるほど言われて見れば確かにミストの家の居候である自分とラグナは近所で生活していることになると納得する。
尤も、帝国では近所で暮らしているのだから仲良くしたい、なんて言われたこともなければ考えたこともないのでラグナが異質に見えることは変わらないのだけれど。
……正直、真っ直ぐにそんなことを言われるとは思っていなかったので、どんな反応をすればいいのかさっぱり分からない。この町と帝国では自分へ向けられる感情も正反対ではあるが、その中でもラグナから向けられる感情は特に違う。
「そんなことより、食事にしましょう。リネットさんの口に合えばいいんですけど……」
「あ、ああ……」
会話しながら料理を完成させていたらしいラグナがテーブルに料理を並べていく。恐らく自分で育てた野菜や釣った魚をメインに使った料理なのだろう。ノーラッド王国の郷土料理のようなものなのだろうか、中にはゼークス帝国ではあまり馴染みのない料理もある。
意外と、と言うと失礼かもしれないがラグナは料理が出来るらしい。記憶のない彼が料理を人並み以上に作れることもそうだが、それなりの品数の料理を作る時間があることにも驚いた。牧場の仕事だけでもかなり大変ではないだろうか。なんて、自分が気にすることでもないのだけれど。
「ラグナ殿は、私と一緒で楽しいのか?」
「ええ、楽しいですよ。普段は誰かと一緒に食事する機会なんてないですから、今日は特に」
「……そうか」
「リネットさんは楽しくないんですか?」
どうだろうな、と思わず呟いた。決してつまらないとは思っていないけれど、これが楽しいという感情なのかは自信が持てない。
「ラグナ殿と一緒に過ごすことが嫌なわけではない。……構われることにあまり慣れていないのは否定しないが」
それだけ告げて、テーブルの料理に視線を移す。
ゼークス帝国にいた頃からは考えられないこの穏やかな日々に慣れる日は来ないだろうと思っていたが既に慣れてしまっている自分に苦笑した。
——嗚呼、でも、こんな日も悪くはない。
そんな風に考えられるようになるとは思っていなかった。
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