ゼークス帝国で生まれたリネットは皇帝陛下の為に、と幼い頃から様々な知識を叩き込まれ戦闘や指揮に関する技術を徹底的に教え込まれた。
それだけがお前の価値の全てである、という風に。何年も厳しい訓練を受け、国の駒として教育されていたことを今でも覚えている。恐らく帝国全体で見ても自分だけが特殊な環境で育っていたわけではなく、特に昔から軍人を輩出している家ではそれが普通だった。
元々、目的の為に親や兄弟を殺して生き残った者に嘘を吹き込み駒として利用することもあるような国だ。そして大半の民はそれに異を唱えることもない。
仮に国のやり方に違和感を覚えたとして、それがエゼルバードの耳に届けば反逆の意思があると判断されて処刑される可能性もあるだろうから誰も表立っては言えないのだろうけれど。
リネットもグリモア計画が失敗して、命を絶つ覚悟を決めたあの瞬間までそんな教育に、生き方に、疑問を持ってはいなかった。否、今でも何が正しいのか分からないところはある。
自分の中の世界が崩壊するような感覚。それにすぐに適応出来る人間のほうがおかしいのかもしれないけれど。
恐らく、当時の自分も洗脳に近い状態ではあったのだろう。幼い頃からそう教育され、それを疑うこともなく成長した。もしも自分がゼークス帝国で誰かと結婚し、子供を授かっていたならその子供のことも自分のときと同じように育て、軍人に仕立て上げていたのかもしれない。そんな未来にならなかったことだけは、救いだったのだろうと思う。
——きっと自分で考えることもないまま言われたことを受け入れて、周りの大人の望む通りに生きることは幸せではないのだ。それを教えてくれたのは、カルディアの町の人々だった。そこまで考えて、リネットは苦笑する。そんなことを考えるようになるなんて、我ながら変わったと思う。少し前までは絶対に考えなかったことだ。
「この町に来て、変わることが良いことなのか。私には分からないが……」
この変化を、ラグナであれば喜ばしいことだと感じるのだろうか。ふとそんなことを思う自分に気付いてかぶりを振る。ラグナが影響をもたらしたことは事実だが、彼が変化を喜んだとしても悲しんだとしても自分には関係のないことだ。
第一、ラグナに喜んでもらえるような人間ではないし、そのような関係性でもない。
——深みにはまっていくような感覚。そう簡単に抜け出すことなど出来ない。
その日、カルディアの町は雪が積もっていた。本格的な冬の到来。ラグナの畑も今はとても殺風景だ。
肌を刺すような冷たい風が吹く。リネットは教会の片隅で、ぼんやりと過ごしていた。カルディアで生活を始めてから、教会を訪れることは習慣のひとつになっている。本当に神と呼ばれる存在がいるのか——ネイティブドラゴンは神に等しい存在ではあるが、それとは別に神がいるのか定かではないけれど、今までの行いを懺悔すれば神はお許しになるのだろうか。
そんな風に考えて、その度に己の罪深さを再認識する。胸の奥がチクチクと痛む。許されたいのか、懺悔したいのか、自分でもわからない。恐らくきっと、その両方だ。
「きっと僕にはリネットさんのことを救えませんけど」
「ラグナ殿?」
「——それでもこの町で一からやり直そうとすることは、悪いことではないと思います」
いつの間にか隣にいたラグナがぽつりとそう呟く。まるで独り言のように——否、事実独り言を呟いているようなものなのだろう。彼は案外神出鬼没なところがある。畑仕事がない冬場は特にそう。普段より幾分暇なのだろうか、ふらりと現れて用事を済ませたり一通り満足するとふらりと消えてしまう。
ラグナが教会を訪れる理由などないように思うが……そこまで考えて首を振る。彼が実は特定の宗教を信仰している可能性もあるし、罪を懺悔したいということもあるかもしれない。神父に用事が、ということもある。教会に用がないなどとイメージだけで決めつけるのは良くなかった。雑貨屋を経営している親子だって毎週教会で姿を見かけるのだ。この町の人たちはよく教会を利用するほうなのだろう。
「そういえばリネットさん。最近よく会いますね」
「……まあ、この田舎町では一日中顔を合わせないことのほうが珍しい気もするが」
ラグナが律儀に自分を含めた住人たちに挨拶して回っていることを、リネットは知っている。
偶然ですね、なんて態度で振る舞っているが恐らくはこの町の大半の人たちがそれに気付いているだろう。最初は記憶もなく見るからに怪しい自分が出来るだけ町に打ち解けて人々から信頼を得られるように始めたことではないか、と確かミストが推測していた。
ゼークス帝国の企みを阻止したラグナは疾うに信頼を得ているし、そもそもこの町の人々が記憶喪失というだけで余所者を警戒することもないとは思うが、今となっては癖のようなものなのだろう。
「今は平和ですから、以前に比べてダンジョンへ行く回数も減りましたし。時間に余裕が出来たんですよね」
「確かに、こんなに穏やかに過ごしているのは生まれて初めてかもしれないな」
カルディアの町の平和を脅かしていたのは他でもない自分自身なのだが、とリネットは小さく零す。
「…………ラグナ殿」
「なんですか?」
「私は……やり直せるだろうか。この町で、最初から」
そんなこと、ラグナに聞いたところで自分の気持ち次第だと分かっている。一歩を踏み出すことが怖い。今までどうやって生きてきたのかさえ思い出せない。全てが変わってゆく。
「リネットさんが強く望むのなら、必ず」
何よりもうやり直し始めているじゃないですか、とラグナは笑みを浮かべる。その表情に、声に、言葉に。どれだけ救われてしまっているか、この男は知らないし一生気付かないのだろうけれど。
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