冬が過ぎ春が訪れたのは数日前。ラグナの牧場では農業が再開されたらしく、日々忙しくしているとミストから聞いていた。
 疲労で倒れてしまったのだから程々に、と言いたいところだが恐らくラグナは聞き入れてくれないだろう。正確には注意してくれる人がいることに感謝し反省はするが、かといって仕事量をセーブしたりは出来ないタイプ。
 本人の元々の仕事に加え、カルディアの町の人たちが抱えている問題に気付けば自ら首を突っ込んでいく。ラグナがそんな気質だからどうしても彼の負担が減らないのだ。とはいえ自分の疲労を自覚出来ぬまま限界を迎え倒れていては、いつか壊れてしまう。だからこそ畑仕事を終えたラグナを雑談に付き合わせることで引き止めたり、カルディアの町で行われている祭りの数々に誘って息抜きをさせることは良くあるらしい。
 今日も朝から駆けずり回っているラグナの姿を何度か目撃した。畑仕事は流石に他の誰かに代わってもらうことも難しいだろうが、少しは仕事を減らせないのだろうか。……減らせないからこそ倒れるまで抱え込んでしまうわけだが。
 そこまで考えて、リネットは息を吐いた。
 ラグナという人間を一度壊したのは紛れもなく自分自身だ。ただ普通に生きていた名も知らぬ青年を拐い、中身を——即ち彼が今まで生きてきた証を、築き上げてきたものを、全て抜いてそのまま肉体だけ捨て置いたようなもの。
 かつてのラグナの生きた痕跡などリネットは知らない。当然ラグナも覚えていないのだから、それは二度と取り戻せない光に等しい。
 きっと、彼に壊れてほしくないなどと願えるような立場ではないのだ。……どうしてラグナに対してそのように願うのか、自分でもよく分からないが。

「それはきっと、彼に対して心を許しているからだと思いますよ」
「……心を、か」

 ミストの言葉を脳内で反復する。ラグナのことは決して嫌いではない。心を許していることも否定はしない。それでも、ゼークス帝国にいた頃は他者にそこまで気を許すことなんてなかった筈だ。
 これが自分の中の変化なのだとして、その変化を受け入れてしまうのは少し怖い。今が羽化を待つ蛹のようなものであったとして、その羽化が良いものであるのか分からない。美しい蝶になるか、それとも醜くなってしまうのか。自分次第であることは理解しているけれど。

「ラグナさん、良い人ですし。お互いの立場とか因縁とか、そういうことをあまり気にしないタイプだと思いますよ。まあ、あたしの勝手な想像ですけど」
「…………気にしてくれていたほうが、個人的には楽だったのだがな」
「?」

 ラグナが自分と敵対していたことも、記憶喪失の原因であることも、全部気にせず接してくれることはきっとありがたいことなのだろう。それが無性に苦しくなることがあるのは単に自分の身勝手な感情でしかない。
 いっそ憎んでくれていたら——お前のせいで全てを失ったのだと言ってくれたほうが楽だった。
 ……天地がひっくり返ったとしてもラグナはそのようなことを言うタイプではない。その優しさは彼の長所だが、それは時として心を蝕む猛毒と化す。
 じわり、と自分の中の深い場所を侵食して苦しめる。気付いた頃には全身に回り、手の施しようもない、そんな毒。ラグナが気にしてくれていたら、自分も心置きなく突き放せたのに。あの男は距離を詰めてくる。
 彼がどんな態度であったとしても関係ないと拒絶できない自分も問題ではあるのだけれど。

「……全く、生き辛いな」

 そう呟いて苦笑する。
 生きること自体、きっと苦しいことなのだ。心が軋む音がした。