浜辺をのんびりと歩く。
 帝国にいた頃は決してあり得なかった時間を過ごす。戦いとは無縁の日々を送っている、というのが本来であれば夢のようなもの。
 じゃり、と靴が砂を踏む音と波の音だけが響く。今の季節はまだ海で遊ぶには寒い時期。それ故か人は誰もいない。人のいない静かな空間が好きだ。騒がしい場所はあまり好かないし、特に祭りの日になると町中が浮かれた空気になるのが苦手だった。
 もうすぐ春の感謝祭。それが理由なのだろう。この数日、町中がそわそわしているような空気だった。
 春の感謝祭——ゼークス帝国にもあった祭りだ。呼び方は違うかもしれないが、恐らく何処の国や町にも存在する、ありふれたイベント。ゼークス帝国でも意中の相手にクッキーを渡す祭りだった。リネットも子供の頃から貰ったことは何度かある。
 町の男たちは想いを寄せている女性の為にクッキーを用意しているし、女性側も意中の相手から無事にクッキーを貰えるかを気にしていて落ち着かない様子。
 私はどうだろうか、とリネットは考える。町の人とは極力距離を置いていたからきっと自分はクッキーを貰えない側の人間だ。別に、クッキーが貰えないから悲しいなどとは思わないが……。嗚呼でも、ラグナから貰えたら嬉しいと。一瞬そんなことを考えてしまった自分に切なくなる。
 断じて彼とはそのような関係ではない。ラグナはきっと他の女性に渡すのだろう。自分はラグナにとってただの隣人、ご近所さんに過ぎない。……何を考えているのだろう。そもそも、彼が自分を憎んでくれていたほうが楽だったと思っていた筈ではないか。憎んでほしい相手に望むことではない。我ながら、馬鹿らしい。

「私が彼に向ける感情など……」

 胸の奥で燻っているこの感情は、罪悪感でしかない。リネットは静かに瞳を閉じて記憶の糸を手繰る。自分の犯した罪の記憶。ラグナ自身が気にしていなくても、ずっと抱えて生きていかねばならない。感謝することはあれども、感謝されることなど永遠にない。暗闇の中に、一人。これから先も変わらない。

 春の感謝祭当日。
 ミストは早朝から出かけてしまい、リネットは一人で過ごしていた。カルディアの祭りの大半は賑やかで、夜まで続いている。リネットはその喧騒が苦手であまり積極的に参加しようとは思えなかった。尤も、感謝祭は町を挙げて盛大に催し事が行われるタイプの行事ではなくカルディアの祭りの中では静かなほうではあるが。
 ただ、感謝祭特有の甘い空気が得意ではないのだ。特にこの町には結婚願望があるならそろそろ結婚を意識していてもおかしくないであろう年齢の若者が多数暮らしている。
 意中のあの人からクッキーを貰っただとか本命の彼女に渡せたとか、そんな話はどうしても耳に入る。それが少し落ち着かない気持ちにさせる。

「あ、リネットさん、ここにいたんですね」
「……ラグナ殿?」

 何の用だろうか。リネットは首を傾げた。

「今日は感謝祭じゃないですか。リネットさんにも是非、と思って。クッキーを作ったのは初めてなのでちょっと自信はないですけど……」
「……ラグナ殿が、私に?」
「はい、僕からリネットさんへ」

 クッキーを半ば強引に手渡され、リネットの意識は現実に引き戻された。
 ——彼から貰えたら幸せだろうと、そう思っていた。けれどもそれは夢のまた夢で、望むことさえ許されない立場だと分かっていた。
 胸が締め付けられるような感覚。嬉しくない、というわけではない。彼に感謝されるようなことをしていない自分が、ラグナから与えられてばかりで彼に対しては奪うことしかしてこなかった自分が、これを受け取る資格などあるのだろうか。受け取らないのはあまりにも無礼だし、突き返すわけにもいかないが。

「……ラグナ殿は私のことが好きなのか?」

 ふと、そんなことを口にしてしまった。好きだと言われても嫌いだと言われても碌な結果にならないだろう。自分でも何故そう言ってしまったのか分からない。
 案の定、ラグナは驚いたような表情を浮かべ——それからリネットの言葉を肯定した。

「そう、ですね。僕は確かにリネットさんのことが好きなんだと思います」
「それは、どういう……」
「……もちろん、一人の女性として。どうして好きになったのか自分でも分かりませんけど」

 心臓が大きく跳ねる音がした。
 ラグナから向けられた真っ直ぐな好意はとても嬉しい。それを素直に受け止めることが出来たなら幸せだろうと思う。それでも、差し出された手を握りしめる勇気と覚悟はまだない。その手を掴んだ先にある未来を見ることが怖い。
 いつから自分はこんなにも臆病になったのだろう。心の中で思わず自嘲した。

「ラグナ殿の気持ちは……嬉しい。だが、今はまだ結論が出せない」

 俯きがちにそう返す。ラグナの目を見ることは、出来なかった。


 リネットにとって恋や愛は無縁のものだった。……否、まだ世界を知らぬ幼子であった頃は誰かを好きになったことがあるかもしれないし家族や友人に対して愛情を抱いていたかもしれない。だが、それも遠い昔の話。記憶の底、ずっと遠く。今となってはそんな記憶を思い出すこともない。
 軍人として国の為に生きて国の為に死ね、と散々言われてきたリネットは恋も愛も不要なものとして切り捨てた。捨てたという意識すらない。長い歩みの中で零れ落ち、失ったことに気付くことさえもなかった。
 本当は捨てたわけでも落としてしまったわけでもなく、自分の中で凍り付いてしまっていたのかもしれない。その氷をラグナは溶かそうとする。
 ラグナのことが嫌いなのか。断じて否である。あの男に抱いている温かな感情が恋と同義である可能性も否定はしない。よりによって自分が一度は壊してしまった相手に恋をしてしまったのだとすれば、我ながらあまりにも愚かだ。
 ——正直に言えば、あの青年に対して抱いている仄かな感情に心地良さのようなものを感じることがある。それが恋心と呼ぶものなのだろうか。何故よりによってあの人に。思わず自嘲する。
 ラグナが好意を向けてくれて、果たしてそれを素直に受け取ってしまってもいいのだろうか。そんなことが、許されるのだろうか。何よりこの町の人気者の心を、この町を脅かしていた人間が縛ってしまうなど。罪の意識ばかりが募る。この町が、そこで暮らす人が、良いものだと実感すればするほど己の罪深さを認識してしまう。何もかも、今更だ。
 
 
 ——ラグナがリネットのことを明確に好きだと自覚したタイミングはよく覚えていない。だが、彼女が自裁を命じられたあの時、咄嗟に手を差し伸べた。少なくともあの日から彼女に対する敵意はなかった。
 リネットがカルディアの町の人たちと距離を置いていることは早い段階から気付いていたし、そんな彼女に町で普通に生きてほしいと願い積極的に話しかけるようになった。だからリネットに淡い恋心を抱くようになってもおかしくはなかったのだと思う。

「ラグナさんは、結婚とか考えてるんですか?」
「まあ、そうですね……もちろん相手がいれば、ですけど」

 ミストの問いかけに頷いて、苦笑する。記憶がないのではっきりとした年齢は覚えていないがラグナも結婚を考えても不思議ではない時期だろう。結婚という形には拘らないが老いて命が尽きるその時まで愛する人と一緒に生きていけたらと思う。
 その相手がリネットであれば、という気持ちもあるがこればかりは相手の気持ち次第だ。仮に振られてしまっても無理強いするつもりはない。……少しは引きずってしまうかもしれないが。
 相手はやっぱり彼女でしょうか、と何の疑問も持たずにリネットの名前を挙げるミストに面食らう。どうしてですか、と問えば「そういう風に見えるから」なんてミストらしい返事が返ってきた。

「あたしは、ラグナさん達のことお似合いだと思いますけど」
「そうでしょうか」
「だってお二人とも、お互いのことをとても大切にしているのが見ているだけで伝わってきますし」

 だから大丈夫ですよ、とミストに背中を押される。彼女の根拠があるのか否かよくわからない言葉に、少し勇気を貰えた気がした。
 つい先日、感謝祭の日にリネットから投げかけられた言葉を思い出す。自分のことが好きなのか、と。感謝祭に贈り物をする意味を考えればそういう風に受け取られるのは当然だし、そこで誤魔化す理由もなかった。だから肯定した。
 自分はリネットのことを一人の女性として好いている、と。きっと彼女から聞かれなければあのタイミングで告げることはなかったであろう言葉だ。
 結論が出せない、と言われたときは少しショックを受けたがリネットは迷惑だと言ったわけではない。結論が出せないということは好意が迷惑なものだと拒絶されたわけではなく、多少はポジティブに考えてくれたということだ。だから彼女がいつか共に生きたいと願ってくれる日を待っているし、考えた末にやはりそのような関係になるのは無理だと言われてしまったら仕方のないことだと諦めるつもりだ。

「……こんな言い方は失礼かもしれませんけど、ミストさんって案外よく見てるんですね」
「ラグナさんのことですからね」
「どういう意味ですかそれ」

 少しだけ、気持ちが救われた気がした。