——ゼークス帝国の軍人として初めて任務を与えられたときも、それから初めて部隊を指揮する立場になったときも、ここまで緊張することはなかった。
 指揮官としてどんな時でも冷静に、落ち着いた判断を。想定外のことが起こってもすぐに軌道修正できるように。そのように教育を受けて実行してきた。グリモア計画だけは失敗してしまったしそれ故に無能として切り捨てられたのだが。
 ふぅ、と息を吐いて何とか呼吸を整える。ラグナを公園に呼び出したのは昨日の夕方だった。話があるので明日公園に来てほしい、と。たったそれだけの言葉に何の疑問も持たず頷いたラグナは本当に、どうしようもなくお人好しだ。
 約束の時間まであと十分。ラグナが遅刻する、というのは考えにくいしそろそろ現れる頃だろう。
 ラグナに向けている感情が恋と呼ばれるモノなのだと認めて受け入れてから数日。あの日の、感謝祭の時の彼の言葉にきちんと向き合う日が来た。ラグナが自分の言葉で伝えてくれたのだから、どんな返事をするにせよ自分なりの言葉で返さなければならない。彼が与えてくれた好意を踏みにじることだけは絶対にしたくなかった。

「リネットさん、お待たせしてすみません」

 ふと、顔を上げると向こうから駆けてくる見慣れた青年の姿。お待たせして、などと言うが約束の時間を過ぎたわけでもない。確かにリネットは三十分前からこの場所にいるが、それはミストの家でじっとしているのが落ち着かなかっただけだ。元々、一日中何処かへ出かけているほうが多いのだから待たされているという感覚もない。
 それでも待たせてしまい申し訳ない、と思うのは彼の性格だろうか。……もしも自分がラグナに呼び出されて、時間ぴったりに到着したときラグナがそこにいたのなら待たせてしまって悪かった、と思う可能性は否定できないが。
 私も今来たところだ、とラグナに告げて思考を巡らせる。さて、呼び出したのは良いがどう切り出せばいいのだろう。暫く考えていたがどうにも思いつかない。自分の脳みそが凝り固まっているかのよう。

「リネットさん?」
「……ああ、いや、今日は突然呼び出してすまなかった」
 僕も用事はなかったので大丈夫ですよ、と微笑するラグナの姿を見て深呼吸。命を賭けた戦いよりも緊張しているだなんて、我ながら情けない。
「……ラグナ殿にこの間の、感謝祭のときのことをきちんと返そうと思う」
「感謝祭の……」

 忘れていた、というわけではないのだろう。実質的な告白に対する返事。それを聞いてラグナの顔が一瞬強張る。彼もそんな顔をすることがあるのか、とどこか他人事のように思ってしまう。何となくラグナに対してはそのようなことで緊張はしないのではないかというイメージを持っていた。
 再度、深呼吸をする。この先はもう引き返すことが出来ない。どんな結果であっても受け入れる覚悟をしなければならない。

「——私は、きっとラグナ殿が私に向けてくれる好意が嬉しいのだと思う。帝国で生きていた頃は自分には必要のない感情だと言われてきたし、実際に恋をするようなこともなかった」

 もしかしたら誰かに恋をしていたのかもしれないが、それを自覚することはなかった。だから恐らくこれは初恋のようなものだ。恋と呼ぶには幼い執着心かもしれないけれど、リネットは自分の中に芽生えたそれが恋であればと願う。
 ラグナが与えてくれた感情によって芽生えたモノ。ラグナがいなければ知らなかった感情。共に生きたい、と願わずにはいられない。あと一歩を踏み出すのが、少しだけ怖い。

「……正直に言うと、ラグナ殿の差し出した手を私が取っても良いのかまだ悩んでいる。私は……ラグナ殿から記憶を奪った人間だ。そんな罪深い人間がラグナ殿の手を取ることは許されないのではないか、と」
「確かに、そうかもしれません。でも僕はカルディアの町で暮らせることが幸せでもあるんです」
「ラグナ殿は前向きだな」

 彼が色々な人から好かれる理由がわかる気がする。自分もそんなラグナだからこんなにも心を揺さぶられているのだろう。そう思う資格すらもない立場ではあるけれど。

「……もし、ラグナ殿がこんな私でも良いと言ってくれるのならば——私はラグナ殿と共に、生きていきたいと思っている。私はきっと、ラグナ殿のことが好きなのだろう」

 震えそうになる声を何とか抑えて、平静を装って言葉を紡ぐ。今まで自分はどうやって声を出していたのかも分からない。
 頬が熱を持つ。今が冬だったら自分の熱で町に積もる雪が全て溶けていたのではないだろうかと思うほど。自分の中にまだこのような感情が残っていたことに驚く。
 ラグナの顔を直視することが出来ず、思わず視線を地面に逸らした。それは恥ずかしさからなのか、罪悪感からなのか——恐らくはその両方。
 彼は本来であれば自分のことを恨んでいるべき立場の人間だ。そんな青年と共に生きたいと願うなど、これ以上の罪があるだろうか。それでも今更、全てなかったことには出来ない。これは自分のわがままでもある。

「……嬉しい、です。その、失礼かもしれませんけどリネットさんからきちんと返事がもらえるとは思ってなかったので……あんな流れでの話でしたから」

 ラグナの声がどこか遠く聞こえる。彼の言葉の意味を脳が上手く処理できない。まるで壊れてしまった機械のようだ。壊れた機械など、ゼークス帝国ではガラクタ同然ではあったけれど。

「リネットさん。僕と、結婚してくれませんか」

 青年の言葉に、心臓が大きく跳ねた。彼と共に生きたいと願ったのは事実だが、結婚。自分がプロポーズされたのだと気付くのに十数秒かかった。
 リネットにとっての結婚とは愛の証でもなければ共に生きてゆくという誓いでもない。家の為にいつかは結婚し子をなさねばならないと言われてきたが、そこに必ずしも愛情が存在している必要はなかった。故に、彼と生きたいとは言ったが自分は幸せな結婚をするとは思っていなかったし、元々あまり結婚願望もなかった。ゼークス帝国に帰る場所がない今となっては余計に、自分には無縁なものだと思うようになった。

「…………私で良いのか?」
「いいえ、僕はリネットさんじゃないと嫌です」

 ラグナは思い出したように何かを取り出してリネットへ差し出した。それがダイヤモンドの指輪だと認識するのに数秒。この町で指輪を買えるような店はない。毎週町にやってくる行商人のイヴァンに頼み込めばもしかしたら何とかなるかもしれないが、確実ではないだろう。
 となると、この指輪は手作りの可能性が高い。

「これは、ラグナ殿が作ったのか?」
「ダイヤモンドはロゼッタさんにお願いして仕入れてもらいましたけど、それ以外の材料の調達と加工は僕がしました。リネットさんが気に入ってくれるか分かりませんが、受け取ってください」

 これが幸せということなのだろうか。
 ラグナの指輪を受け取ることは、彼のプロポーズを受け入れるということ。震える手でその指輪を手に取り、笑みを浮かべる。
 きっとこの選択が最良なのだと信じて。