深い深い海の底から、ずっと海面を見ていた。
海の中しか世界を知らないペルシャにとって外の世界はまるで異世界のようで——時折海面から頭を出して、遠くに見える陸への憧れを募らせていた。
海は嫌いではない。人魚であるペルシャの生まれ育った大事な故郷だ。ずっとひとりだったけれど、魚たちが一緒に遊んでくれていた。彼らの言葉は分からないし寂しくないと言えば嘘になるけれど楽しかった記憶もたくさんある。
だけど何があったわけでなくとも遠くへ行ってみたいと思うことは誰にでもあるだろう。人間やエルフ、ドワーフのような種族は生まれた場所を離れて別の場所で暮らしたり一時的に別の町に遊びに行くこともあると聞く。
そうしてある日、海の世界を飛び出して辿り着いたのが大樹に見守られた町シアレンスだった。
◇
「ペルシャは帰りたいと思ったことはないの?」
「あたし?」
マイスの言葉にペルシャは首を傾げた。
海から離れシアレンスで生活を始めてからもう随分と経過している。故郷が恋しくなるようなことも——それなりにある。海の世界に染まることも陸の世界に染まることも出来ない半端な人魚である自分は本当はどのように生きたいのだろうか。
うーん、と唸り、ふと思い出したようにペルシャは口を開いた。
「マイスくんはシアレンスから生まれ育った場所に帰りたくなること、ある?」
マイスにシアレンスに来るまでの記憶は殆どない。
否、僅かに取り戻した記憶もあるけれど故郷のことや幼少期の思い出などわからないことも多い。正直、昔の自分がどこで生まれてどのように生きていたのか全く気にならないわけではない。
それでも現状は積極的に記憶を取り戻そうとはしていないし、故郷や家族を探す旅に出るつもりもない。
シアレンスという町が好きなのだ。そこで暮らす人々の温かさも、自然も、季節の移ろいも、時折開催される祭りの賑やかさも。都会にはない魅力がある。アースマイトであることが影響しているのか、畑仕事も自分に向いていると感じているし毎日楽しんでいる。
どうしようもなく——自分はこの場所にいたいと望んでいる。
「あたしね、この町が好きだよ。おかみさんもさくちゃんも、それからマイスくんもみんなやさしくしてくれて、あったかいんだよ」
水の中からでもキラキラした美しいものが見えた。手を伸ばしても届かないようなずっと遠くに——。
それは優しい月の光だった。今も夜空を見上げれば思い出す。海の底から見た綺麗な世界の記憶。海で生まれたモノのほんの小さな夢のようなかけら。
「ずっとここにいてもいいのかなぁって思うこともあるけど、おかみさんは優しく『おかえり』って、こんなあたしを受け入れてくれるの」
「……うん」
「あたし、ここにいてもいいんだって。そんな風に思ったんだよ」
——だから今はまだここにいたいのだと笑う人魚の表情は儚かった。
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