——ひなの故郷でもあるリグバースはノーラッド王国と旧ゼークス帝国の境界にある小さな町だという。
 スバルがアズマの国を出たのはこれが初めてだったが、西洋の町並みは見慣れないものばかりた。建物は根の国で見たものに近い形状をしているような気もするが、雰囲気は違うように思う。
 ひなと結婚してから季節が一巡した頃。旅行を兼ねてひなの母親へ挨拶しに行こう、という話になった。本当はもっと早く行きたかったのだが、スバルの里長としての仕事は多く、里人に全ての仕事を任せたとしても長期の休暇を取れるような状況ではなかったのだ。
 見かねた神々が助けてくれたことで漸くリグバースを訪れる機会を得た。ひなの母、みささぎには手紙で結婚の報告をしていたし、結婚を反対されたわけでもない。手紙で何度かやりとりをした程度ではあるが良好な関係を築けている、と少なくともスバルは思っているがそれでも緊張してしまう。

 アズマの国から遠く離れたアドネア大陸は気軽に行けるものではない。
 今回は故郷でヴィヴィアージュ一族が主催する催し物があり顔を出さねばならない、というマウロがついでに飛空艇でリグバースまで送ってくれたので訪れることが出来たが次に来られるのは何年も先になるだろう。
 送ってくれたマウロは催し物への参加にあまり乗り気ではなさそうだったが顔を出しておかなければ面倒なことになると苦笑していた。それでも自分がアズマに戻るときに迎えに行くからそれまで旅行を楽しんでほしいと笑っていたマウロは本当にいい人だと思う。張り切りすぎたのか予定より随分と早くリグバースに到着してしまったが。

「雑貨屋は今の時間ちょっと忙しいだろうし、先に町を見て回ってもいい? スバルくんに案内したい場所も多いしママにも夕方に着くって伝えちゃってるから早すぎても困るかもだし」
「もちろん、構いませんよ。雑貨屋って大変そうですからね」
「元々はおじさんがやってる旅館でお世話になってたんだけどね。リグバースは小さい町だから、生活に必要なものはうちで買っていくお客さんが多かったの」

 ひなも親の手伝いで魚を売っていた、というのは以前聞いたことがある。
 考古学者でありSeedの一員としてのひなの姿しか知らないスバルにはひなの幼少期は想像もつかないものだが、きっと愛らしい女の子だったのだろう。今のひなをそのまま幼くしたような女の子が笑顔で母親の手伝いをしている姿を想像して微笑ましい気持ちになる。

「そうだ、この町にもヴィヴィアージュ一族がいるんだよ」
「ヴィヴィアージュ一族っていうとマウロさんの……?」
「そうそう。有名な建築家なんだけどね、マロさんとはまた違った個性的な人で……。リグバースの建物も殆どその人が作ったんだって聞いたことある」
「それはまた……とんでもないですね……」
「ヴィヴィアージュ一族ってこの町だけじゃなくていろんな町にいてね、有名な人も多いみたい」

 ほら、向こうに見えるのがその建築家の工房だよ、なんてひなが指差す先には確かに建物が見える。
 有名建築家の工房、と聞いて一瞬奇抜な建物を想像してしまったが他の建物とあまり変わらないデザインの建物だ。町の建物の殆どがその人の作品であるならば他の建物とのバランスも考えた上で設計されているだろうし、案外あまり個性的なデザインにはならないのかもしれないなと納得する。
 工房からはちょうど誰かが出てきたところだった。

「……あ、」
「ひなさん、知り合いですか?」
「う、うん。その——ひなの憧れの人」

 へぇ、と返事しかけたところで脳が言葉の意味を理解して一瞬動揺する。
 ひなの憧れの人。まだひなに対して恋情さえ抱いていなかった頃から幾度も彼女との会話に出てきた人だ。幼いひなを助けてくれた、ヒーローのような人だと。
 彼女への恋心を自覚したとき、今もまだ彼女の心の大部分を占めているであろうその人に嫉妬してしまったこともある。ひなと両思いになった後もやはり彼女が好きなのは憧れの人なのでは、という考えが過ぎって不安になったりもした。
 告白したときも正直に言えば、玉砕覚悟だったような気がする。ひなの胸の内には「憧れの人」がずっと住んでいて自分は彼女の特別な人にはなれないのだろう、と。最近憧れの人に匹敵するくらい気になる相手が出来たと聞いたときは相手が誰なのか、自分の知っている人なのか気になって眠れなかったし、結局諦めきれずに思い切って告白してしまったけれど。
 結婚した今となってはひなが自分を選んでくれたのだという実感もあるし、会ったこともないその人に対して嫉妬するようなこともほぼなくなったのだが。

「声、かけなくていいんですか?」
「えっ、いいよそんなの! 今はスバルくんと一緒だし、向こうも忙しいだろうし」
「オレは別に気にしませんけど」

 ひなからの愛を信じているし、憧れの人へ向ける想いが恋心ではないことを——或いは最初は恋心であったとしても、今はもう別の感情に昇華されていることを知っている。
 だからひながあの人と言葉を交わしたい、なんて思っていたとしても気にしないのは本当。目の前であまりに親しげに会話されると多少妬いてしまう可能性はあるけれど。

「あの人もこの数年はSeedの活動が忙しくてリグバースを離れていることが多かったし、もし久しぶりの休暇ならのんびり過ごしてほしいからいいの」

 ターゲスアンブルフが問題を起こしてその対処の為に駆り出されていたこともあるし、他の町で大きなトラブルがあって解決の為に実力のあるあの人が呼びつけられたこともある、とひなは説明をする。

「それに、あの人にもパートナーがいるから。家族との時間を優先してほしいかな」
「へぇ——えっ?」

 ひながずっと憧れを抱いてきた相手にパートナーがいる、というのは初耳だった。
 スバルやひなより最低でも十歳は年上に見える人だ。結婚願望があるかは人によるだろうが、年齢的に結婚していたとしても不自然ではない。

「既婚者だったんですか?」
「ひながまだ子供だった頃に町の人とね。今でも仲良しで幸せそうで、そういう意味でも憧れかな」

 何年も一緒にいればいくら好いていても意見の食い違いから喧嘩になることもあるだろうし、関係が修復できずに冷え切った夫婦になることも……悲しいことではあるが、まあ有り得ないことではないのだろう。
 ずっと昔に結婚して今も伴侶とは仲が良く幸せそう、というのはなるほど確かに憧れるのも理解できる。
 自分もひなとは何十年経っても良好な関係でいたいし出来ることなら些細な喧嘩だってしたくないものだとスバルは内心でそんなことを考える。

「ひなもせっかくスバルくんとリグバースに来たんだから二人で過ごす時間も欲しいし」
「それは……そうですね。オレはアズマの国を出たのも初めてですから、もっと西洋の文化にも触れてみたいです。ひなさんが育った場所がどんなところなのか知りたいですし」

 好きな人のことだから本人が知られたくないというのでなければ故郷のことも、昔の遊び場も、幼少期に作った秘密基地も、出来る限り知りたいと思う。

「それじゃあ、まず花屋さんに行ってみるのはどうかな。アズマにはない花も扱ってるし、スバルくんもいろんな花や野菜を育ててるから取り敢えず見てみるだけでも楽しいんじゃないかなと思うんだけど」
「いいですね。アズマとの違いが分かりやすそうですし……」

 アズマには自生していない花というのも興味はある。ここに来るまでの間にもアズマでは見ない種類の花をいくつか見かけた。
 リグバースの花屋はね、なんて説明を始めるひなの横顔にスバルはちらりと視線を向ける。故郷の話をするひなの表情がいつも以上に楽しげだったから、来てよかったと改めて思うのだった。