「ユリス先生、いつもとちがうにおいがするー」
教え子である少女のそんな言葉にユリスは首を傾げた。
一週間に何度か都会まで仕事に出向く日。今日は一年前から受け持つようになった少女に勉強を教える日だった。
遠くから引っ越してきたばかりで人見知りな性格も相まって街に馴染むことが出来なかったという少女も根気強く付き合ってきたお陰で今ではユリスに自分から話しかけてくれるようになった。
最初はユリスが声をかけなければ自分から話そうとはしなかった少女も算数のこの問題が分からないだとか、この部分が苦手で次のテストが不安だとか、そういう話をしてくれるようになって、そのうち夕飯の話や家族の話、新しい友達が出来た話なんかを嬉しそうに語ってくれるようになった。
その教え子の「匂いが違う」という唐突な指摘である。
——心当たりと言えばひとつしかない。最近は仕事の帰りに見かけて買った香水を使っていたが、昨日別の香水を手に入れたのでそちらの香水を使ってみた、というシンプルなものだ。
『ユリス、これあげる!』
『……これは?』
『ハーブ香水。前に香りのいいものが好きって言ってたから、作ってみた。町で手に入るハーブの中から質の良いものを厳選して……といってもユリスのお気に召すかはちょっと不安なんだけど』
香水が好きならもっと上等な香水も知ってそうだし、と付け加えるのは町の牧場主であるハルカだ。
彼女が差し入れにと花や手作りのサラダを持ってきてくれることは時々あったが、香水を持ってきたのは初めてのことだった。
『香りもそこまで強くないし、普段使いしやすいかなとは思うんだけど』
『ありがとうございます。……大切に使いますね』
香水が入った小瓶を受け取って、微笑を浮かべる。ハルカは誰に対しても同じように優しい。ユリスはその優しさこそを好ましく思っている。
「きっとそよかぜタウンの牧場主から頂いた香水を使ってみたからでしょうね」
「ぼくじょーぬし?」
「畑で野菜を育てたり牛や羊の世話をする人のことですよ」
この街はそよかぜタウンよりも栄えているけれど、動物がのびのびと過ごせるような広大な土地は少ないから牧場自体にあまり馴染みがないかもしれない。
流行りの小説の中には牧場主が主人公となっている作品もあったが目の前の彼女はまだ難しい言葉を知らないし、流石にそのような小説は読んだこともなければ自力では読めないだろう。
親が読んでいる小説に興味を持ってどんな内容なのか根掘り葉掘り聞き出した、という可能性はあるけれど。
「先生はどうぶつのおせわをする人と知り合いなの?」
「ええ、そうですよ」
「どんなひと?」
「明るくて元気のいい女性ですよ。男の人でも大変な仕事をいつも一人で頑張っている頑張り屋さんです」
春風のようにのどかな一面もあれば燦々と降り注ぐ太陽の光のような一面もある。
一日の殆どを動き回っていてゆっくり休める時間などないのではないか、なんて心配にもなるがハルカの表情はいつも疲労を感じさせないものだ。自分にはとても真似できないと思うがその体力を見習いたくも思う。
「先生のおともだち?」
「そうですね……最近町では弟の次によくお話しする相手かもしれません」
仕事を終えてそよかぜタウンに戻るタイミングを見計らってよく会いに来るハルカとはほぼ毎日話に花を咲かせている。
小説も——牧場主になってからは読む時間があまりないようだったが——それなりに興味があるらしくユリスが読んで面白かった本について語るとニコニコと楽しそうに聞いてくれる。それが嬉しくてつい喋りすぎてしまうこともあるくらい。
主人公が乗っていた船が難破して、流れ着いた町で牧場を始めることになる小説の話は自身に多少似ている要素のある主人公だったからか特に興味を抱いていたようだった。
「そのおともだちのおはなしするとき先生とってもたのしそう!」
「そうですか?」
「あ、もしかして先生そのおともだちのことが好きなの?」
「ぶっ」
教え子の唐突な言葉に動揺し、盛大に咽せた。
だってわたし知ってるの、と少女はキラキラした瞳で言葉を続ける。
「ママによんでもらったえほんに出てきたおひめさまがね、好きなひとのおはなしをするのはとってもたのしいことだって!」
町全体から期待を寄せられてもそのプレッシャーを跳ね除けて頑張るハルカに対して何か惹かれるものがあることは事実だし、好きなのかと聞かれるときっと好きなのだろうとも思うけれど。
両親を亡くしてからのユリスは弟を立派に育てるため、そして自分が生きていく為に必死だったし恋と呼べるような感情を抱いたことがあったかどうかも思い出せない。まだ両親が存命だった頃にもしかしたら近所に住む誰かに恋をしたこともあったかもしれないが今となっては遠い記憶の彼方である。
故に、ハルカに向けている憧憬にも似たこの感情が恋であるのか、それとも親友とも呼べるような相手に対する友情なのかは自分でもまだはっきりとは認識できない。
「ひとつ言えるとすれば……とても、大切なひとだということですよ」
この感情に名前をつけることが惜しいなんて思ってしまうくらいには。
→