「……はぁ」
イカルガは本日何度目かの溜息をついた。
仕事の為に都へと帰還して数日。仕事が減る気配は一向になく、それどころか予定になかった仕事まで舞い込む始末。
緊急の仕事で天文司郎であるあなたにしか任せられないものなのです、と言われたら流石に断るわけにもいかず引き受けてしまったのは自分だがいい加減帰りたいのが本音である。
——そもそも自分は結婚したばかりだ。仕事である以上仕方のない部分はあるが、家族が出来たのだから一刻も早く帰りたいと願ってしまうのも当然のことだろう。
結婚するよりも前、もっと言うならば冬の里に拠点を移す前であれば数日かかるような仕事を複数押し付けられたとしても黙々と片付けていた筈だ。内心では多少不満に思うことも、もしかしたらあったかもしれないけれど。
伴侶であるカグヤは「イカルガさんが忙しい人だということはわかっていますし、家のことは任せてください」なんて張り切っていたが帰りがあまりにも遅いときっと心配をかけてしまう。
「……カグヤの料理という楽しみがなかったら投げ出していたかもしれない、なんて言ったら上から怒られるかもしれませんが」
などと独り言を漏らしてみたが、自らの責任を放り出すような真似は最初から出来そうにない。
竜神社を出る前、カグヤが「イカルガさんが帰ってきたら腕によりをかけてご馳走を作りますから楽しみにしていてください!」と言っていたから辛うじてそれを仕事への熱意に変換出来ている、というのもある。
カグヤ本人は自分のことを料理上手だとは思っていないようだが、イカルガにしてみれば彼女の料理の腕はかなりのものだ。
一度出かけると夜まで戻ってこられないこともあるから弁当として自分の料理を持って出かけていた、それで自然と料理が上達したのだと思うと言っていたような。結婚してからはその弁当が毎朝イカルガがカグヤの為に作ったものになったことは嬉しい。
今日中、とまでは言わないが出来ることなら数日中に仕事が片付くことを祈るばかりである。
◇
「ツバメさん、食材を買いに来ました」
「はいよ、ゆっくり見ていってよ」
「ありがとうございます!」
じっとりと汗ばむ夏の里の陽気も、慣れたら心地よいものだ。
イカルガが仕事の為に都へと戻って早一週間。もうすぐ仕事が終わって帰れるだろうとイカルガ本人の筆跡で手紙が届いたのは今朝のことだった。
「その様子だと、もうすぐ戻ってくるんだろう?」
「……分かります?」
「ああ、あんたは意外と顔に出るタイプだからね。それだけ機嫌がいいってことは何かいいことでもあったんだろうってすぐに分かるさ」
あんたにとって顔に出てしまうほどの良いことなんて旦那絡みのことだろうと指摘するツバメに、カグヤは思わずはにかむ。
イカルガが不在であることは四季の里の住民たちの大半が知っている。不在の間カグヤが塞ぎ込んでいた——ということはないが、何度か「モコロンと二人きりだとちょっと寂しいです」と漏らしていたこともあり、そんなカグヤが嬉しそうなのだからそろそろイカルガが戻ってくるのだろうと予想することはそう難しくはない。
「疲れて戻ってきたイカルガさんの為に美味しい料理を作りたくて」
「なるほどねぇ。今更説明するまでもないだろうけどうちの商品はどれも自慢の品だし、アズマの国ではあまり流通していない食材も取り扱ってるよ」
ワタラセが魚を少し分けてくれたからそれで何か一品作りたい、とは考えていたが肉や野菜を使った料理も考えるべきだろうか。
野菜は先日収穫したものがまだ余っていたし今あるものだけで何か用意できる気がする。となると肉料理をどうすべきか。竜神社にある食材から作りたいもの、足りないものを考える。
商品を前にうんうんと唸っているカグヤにツバメは苦笑する。
「あんたの料理なら何でも喜びそうなものだけどね」
「それは……そうですね。いつも美味しそうに食べてくれるので作り甲斐があります」
まだ自分たちが恋人同士になると想像すらしていなかった頃。初めて一緒に居酒屋で食事をして、そのときにイカルガが幸せそうに料理を口へと運ぶ姿を見て食べることが好きなのだと知った。
男性としては細身な印象を受けるその体のどこにその量が、と思うほど食べているところを見たときには驚いたがカグヤはそんなイカルガを見ることが好きだった。
結婚してからも最愛の人が幸福そうな顔で食べてくれるのが嬉しくてつい作りすぎてしまう程度には。
「例えばこの香辛料は西の大陸で隠し味によく使われているもので、こっちの香草は肉にも魚にもよく合う。仕入れ先は企業秘密だけどどっちもアズマではあまり出回ってない珍しい品だよ」
「イカルガさんは食への拘りは他の人より強いほうですけど、ツバメさんのお店の食材ならどれも間違いなさそうで余計に悩むんですよね……」
以前ツバメの店で食後にどうかと勧められた西洋の甘味もイカルガにはとても好評だった記憶がある。一緒に食べたカグヤも気に入って、また取り扱っているのを見かけたら買おうと思ったくらい。尤も今日は残念ながらその甘味は置いていないようだが。
結局数十分ほどぐるぐると悩んでカグヤはいくつかの調味料や食材を購入した。
◇
「……というわけで、イカルガさんが帰ってくるのが嬉しくてつい作りすぎちゃいました」
西洋の料理も、アズマで一般的な料理も。きっとイカルガは疲れてお腹を空かせているだろうからいつもより多めに、なんて考えていた結果がこれである。
どう見ても夫婦二人で食べるような量ではない。もし自分たちに子供がいたとしてもやはり多く感じるような量だろう。食べきれなければ明日の弁当にでも、と思ってはいるけれど一度に食べきれるか不安になるような量を用意してしまったのは反省点だ。
「カグヤが作りすぎるのはいつものことでは……?」
「そ、そんなことは……あるような……?」
「い、いえ、カグヤが私の為に作ってくれているのは知っていますしとても嬉しいのですが」
元々カグヤの料理が楽しみだったから本来ならもっと時間のかかる仕事を急いで片付けたと言っても過言ではない。愛する妻から自分が帰ってくるのが嬉しくてつい張り切って料理を作りすぎた、なんて言われたらそれこそ嬉しくない筈がないだろう。
「もしかしたら向こうでもっと美味しいものをたくさん食べてるかもしれませんけど、私もイカルガさんに美味しいものを食べてもらいたかったので」
「……都に戻っている間はずっと自炊していました」
正確には一度だけ馴染みの店に立ち寄ったがカグヤの料理と比べると何かが物足りなく感じてしまったのだとイカルガは付け加える。決して店の味が落ちたわけではなかったのだが。
高級な食材を使っているわけでも、調理法を工夫しているわけでもない筈なのにカグヤの料理は他の誰かが作る料理よりも心が惹かれるものがある。
「特別なことはしていませんけどいつも愛情を込めて作っているから、でしょうか? ……今日もイカルガさんのことを想いながら作りました」
頬を少しだけ赤らめてそんなことを口にする妻の姿にイカルガは息を呑んだ。
カグヤと出会うまで知らなかった——そしてこれから先、カグヤ以外に抱くことはないであろう様々な感情が渦を巻く。愛らしい、という言葉は今のカグヤの為にこそある言葉なのではないかとさえ思ってしまう。
「その愛らしい姿を、私以外には見せないでくださいね」
「……最初から、イカルガさんにしか見せませんよ。私たちは夫婦なのですから」
食後の甘味よりも甘い空気を孕んだ声で、囁くようにそう紡ぐ。他の誰も知らない、自分にだけ見せる表情がこの先も増えていくことに優越感にも似た感情を覚えたなんて言えない。
title:icca
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