「今晩は。良い月ですね」
夜も更けてきた時間帯。春の里の社の前でそう声をかけてきた青年にカグヤは驚いた。
——知らない人だ。
少し前に春の里で目を覚ましたカグヤにそれ以前の記憶はない。自分がどこからやってきて何故記憶を失ってしまったのか。どうやら春の里で生まれ育ったわけではないらしい、ということだけは流石に分かるけれど。
この里で生活するようになってからそれなりに人と知り合ってきたが、目の前の青年は初めて見る顔だった。
無論、里人の中には用事で暫く里を離れているという人もいるし、まだ全ての住民に会えたわけでもない。だから知らない人がいること自体はおかしくない筈なのだが、彼はどうにも住民とは思えなかった。
褐色の肌に白い軍服。容姿端麗なその人がこの里を生活の拠点にしているのであれば誰かが一度くらい話題に出しているだろう。何より一目見ただけでも相当な実力者だと分かってしまう。こんなに目立つ人なのだから忙しくて滅多に会えないような人だとしても普通「こういう人がいる」程度の話は聞こえてくる筈だ。
こんな夜更けに住民ではないなら不審者か、それとも幽霊か。一瞬そんなことを考えたが初対面の相手に対してあまりにも失礼かと思い直した。
「……本当に、良い月ですね」
さて、どう返したものかと考えて——静かにそう返す。
危害を加えてくる様子もないし、観光客だとしたら詮索するのもよくない。一期一会かもしれない相手にいきなり名前や身分を問うのも不粋かと思い今夜の出会いを不思議な夢のようなものだと認識することにした。
記憶を失い目を覚ましてからこれまでゆっくりと月を見上げたことなどなかったけれど。きっとこれは竜神社で微睡んでいる自分の見ている少し変わった夢。夢の中でも月はとても美しかった。
星辰の祠にて、此方に明らかな敵意を向けている人の顔を見てカグヤはほんの少しだけ動揺した。
忘れる筈もない。春の里で「良い月ですね」と声をかけてきた青年である。彼と会ったのはあの夜以来だった。
もしかしたら頻繁に春の里の社に立ち寄っていたのかもしれないけれど、あの後すぐに夏の里へ向けて旅立つことになったカグヤは青年の姿を見ることはなかった。春の里へ行くことはあっても日中に畑仕事を済ませてすぐに他の里へ蜻蛉返りしていたから目立つ容姿の彼とすれ違うようなことはなかっただろう。
——彼のほうがあの夜のたった一瞬の出会いを覚えているのかは怪しいところなのだがカグヤにとっては今でも忘れがたい、夢にしては輪郭がはっきりとした記憶だった。
御神木が月明かりに照らされて、ひらひらと舞い落ちる桜の花びら。そこに佇む美しい青年。特別な何かがあったわけではないけれど慌ただしい日々の中でもやけに印象に残る出来事だった。
イカルガ、と名乗ったその人は幕府の陰陽寮に属する陰陽師だという。天文司郎というのは記憶を完全に取り戻せてはいないカグヤにはピンとこない単語だったがどうやらかなり偉い立場の人ではあるらしい。
あの日の夜に相当な実力者だと感じた直感は正しかったようだ。前回と違うのはその実力者が此方を敵と判断していることか。此方も星辰の祠に用があって引き下がれないが、あの時よりも強くなったのも事実。春の里しか知らなかった頃では勝ち目はなかっただろうけれど今なら喰らいつくことは出来ると判断して武器を構えた。
◇
「イカルガさんは春の里でのこと、覚えてますか?」
「……いつの話ですか、それ」
「いつかの夜、春の里の社でのことです」
イカルガと恋仲になって、以前から気になっていた質問をカグヤは直接投げかけてみることにした。
あの夜はカグヤにとって印象的な思い出ではあるけれど五分にも満たないほどの交わりだったように思う。天文司郎として日々忙しそうにしているイカルガからすれば取るに足りない出来事でしかなかったかもしれない。
事実、イカルガが冬の里に生活の拠点を移してからあのときの話を聞いたことは一度もなかった。
「——覚えていますよ。あのような夜更けに人と会うことなど滅多にないことですから」
萌黄の色を宿した瞳に射抜かれて、嗚呼この感じ少し懐かしいな、なんて場違いなことを思う。
「正直、カグヤとはそのうち戦う可能性はあるだろうと思っていましたし……」
「そうなんですか?」
「あの時は大地の舞手が私の障害にならない保証もありませんでしたから。……まあ、まさかそんな相手と恋仲になるとは流石に思いませんでしたが」
カグヤもまた、あの頃はイカルガと親密な仲になることを想定していなかった。
出来ることなら仲良くなりたいと思って歩み寄る努力はしたし、食事に誘っても拒まれなくなったときは嬉しかったけれども、友人と呼べるような関係になれただけでも奇跡のようなものだろうと認識していた。
いつしかその友人に恋をしていると気付いて告白に至ったが色よい返事が貰えるか不安ではあったし、恋人となった今でもイカルガが自分の隣に当たり前にいてくれることに対して夢を見ているような心地になることはある。
「一度会ったきりでしたけど、不思議な出会いだったなぁって思ってて。あのときのイカルガさんのことずっと印象に残ってたんですよね」
まるで、書物の中の一場面のような。何か大きな物語が始まる前振りのような出来事。
……実際にあの頃から大きな出来事が連続したし最終的にはアズマの国を救ってしまったのだがそれはそれ、だ。
「ある意味、一目惚れだったのかもしれません」
「……はい?」
「あの時の感情はきっと恋情とは違うものですけど……ひと目見て、その人のことが忘れられないほど強く印象に残るのは一目惚れのようなものかな、と。今はきちんと恋をしていますけど」
「そ、そうですか……。その、面と向かって言われると流石に気恥ずかしいのですが」
意外、というわけでもないがイカルガは恋人からのまっすぐな言葉に弱い。
「私にとってきっと最初で最後の恋なので、一生忘れないと思います」
「……初恋なのですか?」
「そうですよ。スバルは許婚でしたけど故郷の大人たちが決めたことですし、幼い頃の私には兄のような人でしたから」
故郷を出ることがなければ大人たちの言う通りに幼馴染と結婚していたかもしれないが、旅に出た今となっては意味のない「もしも」の話でしかない。
仮にそのような未来があったとして、幼馴染のことを大切に想っていても恋はしていなかっただろう。
「イカルガさんと出会って初めて知った気持ちなんですよ」
——あなたが教えてくれた感情なのだから、責任を持ってずっと一緒にいてくださいね。もちろん、あなたが望んでくれる限りは私もずっと一緒にいます。
そんな言葉は胸の奥にしまい込んで、口もとに笑みを刻む。共に生きるという誓いはもう少し先の未来に取っておいていい。
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