——月が綺麗ですね、とは愛の告白のような意味を持つ言葉である。
そう教えてくれたのはイカルガの師匠でもあったとある陰陽師だ。大人になってお前にも大切な人が出来たとき、きっとその言葉の意味を理解できるようになるだろう、と。
まだ恋という感情を書物の中でしか知らなかったイカルガは師匠が自分の知らないことを教えてくれたという事実に喜びつつも言葉の意味を深く考えることはなかった。
師匠が亡くなって、その頃の記憶は既に遠い彼方。色恋には興味もないし、自分には一生無縁の言葉だと心の奥底へと仕舞い込み、もう二度と取り出すつもりもない思い出だった。
そもそも月が綺麗なのは当然のこと。ずっと遠い昔からそう決まっていることだ。夜空を見上げて一際存在感を放つ満月が目に映ったとして、隣で同じように月を見ている相手にその感情を共有したくなることも、まあ、時々はあるかもしれない。だが、それが愛の告白になる理由はよくわからない。
そんな風に思っていた筈だったのだが。
「今日はいつもより月が綺麗に見える日らしいんです。子供の頃、故郷の大人たちからそんな話を聞いたことを最近思い出して。せっかくならイカルガさんと一緒に見たいな、と」
イカルガが時折行う占いの中にも天体の位置や動きから吉凶を判断するようなものもあるしカグヤよりも天体については詳しいという自負もある。この日は特に月が綺麗だ、とか。天体観測にはこの時期のこの時間帯が一番良い、とか。知識としては有しているがそれはあくまでも他者の秘密を暴く手段として占いを選んだときに必要に駆られて覚えたものに過ぎない。
生活の拠点が都であった頃はじっくりと月を眺めて何かを感じるような心の余裕はなかったように思うし、冬の里で過ごすようになってからもバタバタと慌ただしい日々を送っていた。
嗚呼でも、以前春の里の社でふと見た月は良いものであった。まだ冬の里に拠点を移す前の話だ。そういえばカグヤと初めて会話したのもその時だったような。向こうがほんの一瞬顔を合わせただけのあの日のことを覚えているかは定かではないけれど。
「イカルガさんのご迷惑でなければ、ですけど。最近忙しそうですし」
「いえ、カグヤの誘いとあらば。というより私からもカグヤに声をかけようかと思っていたところです」
「そうなんですか?」
今日は特に月が綺麗に見える日だ、というのを思い出したときに幼少期に師匠から聞いた言葉も思い出したのだ。
愛の告白に等しい意味合いを持つ言葉。月が綺麗だから誰かと一緒に見たい、と思うこと自体がある種の愛であると今なら少しは分かる。
無意識のうちにカグヤと共に月を見たいと考えている自分がいて、月が綺麗だというごく当たり前の感想を共有したいと思うのはそこに何らかの愛情を孕んでいるからだろうと気付いた。
「イカルガさん、私より月に詳しそうですよね」
「カグヤよりも詳しいかは分かりませんが……まあ、占いにはそういう知識が必要になることもあるので昔占いを覚えたときに勉強しました」
「イカルガさんの占いというと……」
「その人の吉凶を占うようなものから相性診断まで一通り……といってもヒスイが行う占いと似たようなものですが」
相性診断は知識があるだけで自主的に行うことも殆どなかったけれど。
カグヤと恋仲になるよりも前に誰かと付き合っていた経験はないし、片思いの相手もいなかった。知人とそのような話題で盛り上がることもない。幕府のお偉方に頼まれたら流石に別だが、お偉方が天文司郎をそのようなくだらない理由で呼ぶことはないだろう。
「秋の里は空気が澄んでいて特に月を見るには良い環境だとか、冬の里は星が綺麗に見えやすい環境だとか、自然と身についた知識ですがカグヤと共に天体観測をするときに役立つのなら身につけておいて良かったのかもしれません」
恋人同士である以上、これからも逢引きをする機会はあるだろう。二人で天体観測を、というのも悪くはない。
今までの逢引きは居酒屋での食事だったり見回りを兼ねて里の周辺を散歩したりといったものが多く、二人で天体観測なんて風情のあることは殆どしてこなかった。忙しい中で一緒に過ごすことが出来るだけで幸せな時間ではあったけれど。
「私も故郷で巫女の修行をしていた頃に勉強したことはあるんですけど、記憶が完全に戻ったわけでもないですし幼い頃のことなのもあってあまり覚えていなくて。イカルガさんが色々と教えてくれるのなら安心ですね」
カグヤはにこやかな顔つきでそう言葉を紡ぎ、空に視線を向ける。
月を見るにはまだ少し早い時間帯。太陽が沈み、夜が始まるまであとどれくらいだろうか。こうして月が見えるようになる時間を気にするなんて、今まで殆どなかった経験かもしれない。
夕刻に突然仕事が舞い込んできて全て片付けた頃には明け方、なんて天文司郎である以上時々あることだった。食事中、至福の時間に呼び出されたら機嫌も悪くなるが忙しいこと自体はいつものことだとあまり気にしていなかったし。
「ところでイカルガさんはどうして月が綺麗なのだと思いますか?」
「……月が太陽光を反射して輝いているとか大気の影響でとか、そういう科学的な話ではなく?」
「そうですね。科学的な話にも興味がありますけど」
ふむ、と首を傾げる。
月が何故綺麗なのか。どうしてそのように感じられるのか。科学的な知識としてなら知っている範囲でスラスラと答えられるのに。月は自分で輝いているわけではなく太陽光を反射する鏡のようなものだから、とか。
だがカグヤが求めている返答は学舎で教わるような、勉強が得意な優等生の正しい答えではないのだろう。どちらかと言うと、正しい答えが存在しない。自分なりの解を欲している。
さてどう返答したものかと思案する。
「月が綺麗ですね、という言葉を知っていますか? どこかの誰かが異国の愛の告白をそう訳した——という根も葉もない噂が残っている言葉なのですが」
「聞いたことはありますよ。確か昔の人がアイラブユー、をそう訳したんですよね」
「私はこの言葉を幼い頃に師匠から教わったのです。お前にもいつかその言葉の意味を理解できる日が来るだろう、と言われたことを覚えています。当時はよく分からなかったのですが」
一拍置いて、今はまだ見えない月に思いを馳せる。
「私にとってあなたと見る月だからより一層綺麗に見えるのでしょう、とつい先程自覚しました」
「……イカルガさんに面と向かってそう言われると、少し照れますね」
月は昔からずっと変わらず綺麗だった筈だけれど。好きな人と見る月はこれまでよりももっと綺麗なものに映るのだろう。或いは見ている人の心を反射する鏡なのかもしれない。
title:icca
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