砂浜を駆け回る我が子を見守りながら、イカルガは深く息を吐いた。
 まだ一人で水遊びをさせられるような年齢でもないが、海に行きたいとせがまれたら拒否することも出来ない。危険だから一人では海に入らないように、と言い聞かせて家族で海に来てから既に一時間ほど経過している。

 ——昔から子供という存在がどうにも嫌いだった。
 弱いしわがままだし全然言うことを聞いてくれないし、未熟で頼りないくせに一人で突っ走って取り返しのつかないことになる。自分は何でも出来るのだと思い上がっている。昔の自分がそうだった。自分は他の子供とは違うのだ、もう一人前の存在なのだと信じて疑わなかった。そんなどこから湧いてくるのかも分からない、根拠のない自信が大事な人を死なせる羽目になるなんて考えてもいなかった。
 結局のところ、嫌いだったのは過去の愚かな自分だ。大好きだった師匠は自分のせいで死んでしまった。失われた命はもう二度と戻らない。供犠の宣誓札を使えば死者の蘇生も不可能ではないだろうがあれは気軽に使っていいものではないし、師匠はそれを望まないだろう。そもそも幼い頃は存在すら知らなかった。
 子供だったのだから仕方ないことだ、と優しい人は口にする。子供だから、で許されてしまったことも自分を許せない原因だ。

「イカルガさん、考え事ですか? 難しい顔をしていましたけど」
「……いえ、大したことではありません。ただ随分と遠くまで来てしまったものだと考えていました」

 あんなにも毛嫌いしていた子供を欲しいと望むようになった自分の心境の変化にまず驚いた。子供嫌いを克服できたわけではない。けれども愚かだった自分を許してくれた最愛の人との子はごく自然と欲しいと思えた。
 子供との接し方なんて何も分からないのでまずは知己であるヒスイに相談した。それから恥を忍んで子供の扱いに慣れていそうなクラマやヤチヨにも声をかけたことを覚えている。
 そうして必死に子育てをして気付けば五年。我が子のことは何よりも可愛い。つい甘やかしてしまいカグヤに呆れられることもあるほど。茶屋で新作の団子を見かけて愛する妻と子供の土産に買って帰ろう、なんて当たり前のように考える日が来るとは思わなかった。
 どうやら人は如何様にも変われるらしい、というのはカグヤと付き合うようになった頃から実感していたことではあるけれど。自らの変化が恐ろしいと感じることもあれば嬉しく思えることもある。

「カグヤと出会うことがなければ自分は今も何も知らない未熟な赤子のようなものだったのだと思います」
「そんな、大袈裟ですよ」

 カグヤと出会ってから否応無く未知の感情を引き摺り出される。幼少の砌の、忘れていたかった愚かしい自分の影を引っ張り出されて向き合う羽目になる。
 昔であればその変化を許容できなかった。拒絶して、強引に蓋をして、見て見ぬふりをしただろう。

 師匠は無力な子供のせいで死んでしまった。自分がいなければあの人はもっと長く生きられて、たくさんの人から慕われていたのかもしれないと考えたことは何度もある。自分のせいで命を落とした師匠に恨まれているのでは、なんてそんな人ではないことを理解していながら思ってしまったことも。
 だが、もしもの話ではあるけれどあの子が——我が子がかつての自分と同じように思い上がって危険な魔物に挑もうとすることがあったなら。そんな展開が起こる前に対処できるのが最善ではあるが、気付いた時には全てが遅かったなら、自分はあの時の師匠と同じように咄嗟に庇うだろう。その結果、自らの命を失うことになっても愛しい我が子を守れるならば後悔も恨みもない筈だ。師匠は最期までこんな気持ちだったのだろう、と漸く理解できたような気がする。
 ……無論、子は自分のせいで父親を死なせてしまったと悔やむことになるだろうしカグヤと出会う前の自分と同じように心を閉ざし復讐に囚われることになる可能性がある以上やはり最悪の未来が訪れないよう対処すべきではあるけれど。

「でも、イカルガさんは変わりましたね。昔と比べると纏う空気が柔らかくなったような気がします」
「そう見えるのだとしたら、やはりカグヤの影響が大きいのだと思います」
「そうであれば嬉しいです。今だから言いますけど出会った頃はこの人と仲良くなれるのか、ちょっと不安になることもあったので。……諦めなくて良かったと思っています」

 そういえばカグヤと話すようになったばかりの頃は大した用事もないのによく話しかけてくるな、と不思議に思っていたような。
 不快だったわけではないが都ではそもそも天文司郎という立場からか気軽に声をかけられることは少なかった。仕事で話すような相手とはお互いどうしても堅苦しい言い回しになってしまうし用件は手短に済ませるから尚更だ。
 いつの間にか一日カグヤと会わないと何かあったのではと気にするようになっていて、自分の日常の一部にカグヤがいることが当たり前になっていることを自覚した。

「…………カグヤには敵わない、と常々思わされます」

 今はまだしも昔の自分は積極的に関わりたいと思えるような存在ではなかっただろうに、と思わず苦笑する。

「イカルガさんは私にとってずっと素敵な人でしたよ」
「じ、自分ではよく分かりませんが……」
「それにあの子も大きくなったらイカルガさんみたいな強くて優しい陰陽師になりたいって」

 子に憧憬を向けられるのは親としては嬉しくも誇らしくもあるけれど、自分のような大人になっても生きづらいだけなのではという心配もある。
 陰陽師も危険が伴う立場ではあるし、専門の知識が必要になる場面も多々あるし、幕府ではどうしても人間の嫌な面を見ることも多くなるのだし。

「イカルガさん、もっと遠くまで行ってみたいと思いませんか?」
「そうですね。以前の私なら抵抗もあったでしょうが、今なら果ての果てまで行けるような気がします」

 ずっと許せなかった過去の自分を少しずつ受け入れられるようになった今なら、誰も見たことのない最果てまで歩いてゆけるような気がした。


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