01

枯れた庭に 芽吹く青
祝福の光 すべてがうつくしく
あなたとわたし 反射して 今もなお

息づく庭に 寄せては引き返す
寄せては引き返す、庭の青
今もなお 瞬けば
わたし一人で 今もなお

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「カガリちゃん。そろそろ帰らないと、怒られちゃうんじゃない?」

 プルプルとその青い身体を震わせ、こちらを気遣う可愛らしい魔物。カガリはチラリと視線だけを寄越してから、その忠告を特に気にするでもなく、また手元にある本に意識を傾けた。

「もう少し。もう少しで、この章が終わるの」
「でも、心配するよ」
「大丈夫よ。だって、ここのみんなは優しいから」
「それも分からないよ。何だか最近みんな、ピリピリしてるんだ」

 特に君みたいな小さな子は、食べられちゃうかも! ただでさえ青い体を一層透かしてピョンピョンと飛び跳ねる親友に、小さな子と言われたカガリは少しだけ眉根を寄せるも、それが心からの心配だと分かっていたので、嘆息しつつもパタンと本を閉じた。その身体に似合わない、大きな大きな重い本。カガリはゆっくりと立ち上がってから、それを抱えなおす。

「そうね。君の言う通り、そろそろ帰らなくっちゃ。博士にお小言言われちゃう」
「それは、カガリちゃんがいっつも言うこと聞かないから」
「あら、そんなこと。私は博士の助手だもの。今こうして読んでいるのだって、博士の研究に役立つからよ」

 「博士は、読む時間すら惜しいから」と肩を竦めて、わずか10歳ほどの少女は、低い背からは見上げ切ることのできない本棚をくるっと見渡す。赤金色のスカートが、ふんわりと遅れて飜る。

「ここにある本、何歳までに読み切れるかしら?」
「ええ! まさかカガリちゃん、ここのぜーんぶ、読むつもり?」
「もちろん、そうよ」
「無理だよ! そんな人間、会ったことないもの」
「でも、挑戦する価値はあるわ」

 勇ましく鼻を鳴らしつつ、カガリは古ぼけた腕時計を確認して、あっと声を上げた。

「思ってたよりも時間が経っていたわ。それじゃあね、スラちゃん」
「あ、カガリちゃんったら! またそこから――!」

 親友の必死の言葉も何とやら。カガリはくるっと身を翻すと、この先危険! と札の立つバルコニー目掛けて走る。タン! と手摺を飛び越えて空中に浮いた。落下。3、2、1――
 ボスン。沈み込んだ先は、硬い鱗に覆われた両腕。カガリは軽快な笑い声を図書館に響かせると、にこやかに顔を上げた。

「今日ははかせなのね。ありがとう」
「相変わらずのお転婆だ、君は」

 りゅうはかせは呆れたようにカガリを見つめて、闊達な少女を柔らかく地面に導く。

「だって、いつも助けてくれるもの、みんな」
「だから、安心して身を任せるのかい?」
「そうよ」

 自信満々に答える。それから本を胸に抱えてぺこりとお辞儀をする。「ありがとう、はかせ」と満面の笑みを魔物に向けるカガリは、ご機嫌なまま歩き出した。

「この図書館のみんな、とっても親切だわ」

 その言葉に、りゅうはかせの瞳は鈍色に染まった。

「強気なお嬢さん。私らは、君のことが好きだよ」
「私も大好きよ」
「けれど、いつまでもそうとは限らない」
「え?」
「気まぐれなのだよ、魔物というのは」

 「それを肝に命じておきなさい」――そう伝える彼の瞳に、嘘偽りはない。これまでにないその深い眼差しは、カガリの胸の奥をさっくりと穿った。

(これは、きっと胸に刻む必要があるんだわ)

 カガリは背筋をしゃんと伸ばして、「覚えておくわ」と固い声で答えた。

「賢い子だ。もう帰りなさい」

 柔らかく目尻がしなる。そんなりゅうはかせを見て、カガリは本当に気まぐれかしら、とつい今しがた言われたことに疑問を抱きつつも、コクンと頷いてみせた。重い扉に手を添える。

「さようなら、みんな」

 手を振る。魔物達が、気まぐれに手を振り返す。そんな光景が、確かに気まぐれであっても、なくなることなんてないと、カガリは信じて疑わなかった。
 ビュオオと吹き荒ぶ雪の結晶がまつ毛に貼り付いて、思わずギュッと目を閉じる。午後のお茶程度の時間に、外の天気はすっかり変わってしまったらしい。まぁ、元々曇天が多いこの地方である。カガリは慣れた手つきで紺碧のフードを深く被ってから、ポンチョの下に本を滑り込ませると、何の跡もついていない雪道を駆けた。



「ただいま、博士」
「おかえり、カガリ」
「ご本、持ってきたわ」
「ありがとう。そこに置いておいてくれるかい」
「分かったわ」

 暖炉が焚かれ暖色に満ちた部屋に入ると、カガリは玄関先で雪と泥を落としてから、一旦サイドデスクの上に本を置く。それから室内用の靴に履き替え、濡れそぼったポンチョを脱ぎ、これまで履いていた靴とそれを手に持って暖の前で乾かした。ポンチョは、シワがつかないように椅子にかけておく。そうしていつも通りの処理を済ませてから、置きっ放しにしていた本をもう一度抱えて、老学者の研究机に向かう。

「全15章のうち、第5章まで読んできたわ」
「うむ。では、ここで大まかに諳んじてくれるかい?」
「ええ、いいわ」

 サラサラと執筆を続ける、年老いた博士の背。その後ろに年季の入ってギシギシと音の鳴るロッキングチェアを持ってくると、カガリはちょこんと座って、軽く息を吸った。目を閉じる。

「ロトゼタシア 北海の気象と魔物の関連性について。第1章――」



 カガリは、幼い頃魔法学者のエッケハルトに拾われた、言わば捨て子である。捨てられた理由は魔物と話すことができたからで、拾われた理由もそれだ。捨てる神あれば拾う神あり。だがカガリは捨てられたことを悲観することはなかったし、むしろこの才能を生かせるエッケハルトの元にいられることは、自分にとって幸運なのだと認識している。
 だだ、忘れられない過去があるのは事実だ。魔物と話す自分を、周囲や実の親さえもが気味悪がった。疎まれ続け、薪木拾いの手伝いをしていたある日、深い深い森の奥に置いていかれてしまった。同じ血の通うはずの両親のその仕打ちに、当時5歳のカガリは暗い闇の中泣き崩れた。
 ――なんとなく、予感はしていた。そして、実の両親にそういった猜疑心を抱く自分にも辟易としていたから、心のどこかでホッとしていたのも事実で。またそれが自己嫌悪としてカガリを襲い、何度も何度もこみ上げる涙を拭うことなく流し続けた。
 乾く涙なんてない、ただ枯渇しただけ。夜半の月の下、泣き疲れて眠りこけた。そうして、月明かりが満ちる頃。ドスンドスンと地響きを鳴らして近づいてきた心優しいドラゴンバゲージに、カガリは助けられたのだ。

「大変だ、こんなところに人間の子がいるぞ! 誰かに見つかったら襲われちゃうよー」

 巨体の魔物は小さな子を守るように優しく抱きかかえると、少しばかり考えを巡らせて、「あそこならきっと大丈夫だ」と頷くと、ある遺跡まで彼女を運んだ。

「ここは、ボクらにはあんまり綺麗すぎて、近寄れないんだー。それに、最近人間が何か調べてるみたいでよく来るから、ここにいれば、君はきっと拾ってもらえるよ」

 深い眠りに就いてしまい、何も答えないカガリに何を期待するでもなく、ドラゴンバゲージは「お腹空いたな」とひとりごちると、そのままズンズンと遺跡から離れていった。



 滑らかに話し終わると、エッケハルトは満足した様子で羽ペンを置き、「お疲れ様。喉が渇いたろう。ホットミルクを入れようか」と席を立った。

「君のおかげで、近寄れない図書館にある本が読める。私はとっても助かっているよ、カガリ」
「私も、博士と一緒にいられてとっても楽しいわ。こうしてお夕飯もいただけてる」

 わずか10歳の少女と、年老いた学者の二人。だがそこにあるのは温かい親子のような関係――とはまた違った、少しだけ距離が近いだけの、ビジネスな付き合いだった。お互いがギブアンドテイクとして、成り立っていた。

「ふふ、今日は奮発して君の好きなビーフシチューにしたよ」
「え! ありがとう博士! 嬉しいわ!」

 パッと華やぐ表情は、これから先に何の不安もないと言わんばかりに晴れやかだった。

 外は吹雪いて、小屋はミシミシとしなる。クレイモラン城下町にある麗しく頑丈な建物と比べれば随分と粗末な造りだ。だがその中は、カガリにとって、世界で一つだけの楽園だった。揺るぎない温かさで満ちていた。ビジネスの上に成り立つ信頼関係は、下手な血の繋がりなんかよりも、ずっとずっとカガリを安心させた。

「これからもよろしく頼むよ、カガリ」
「もちろんよ、博士」

 よそうシチューのかぐわしい香りを胸いっぱいに溜め込んで、カガリは幸せを噛み締めた。
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