08

 カミュは焦っていた。思いもよらない出来事に、普段ならソツなくこなせるはずの冷静なふりをするのでさえ一苦労だった。常の彼を知る者なら、ソワソワと落ち着きのないその様子に違和感を抱くはずだ。
 カミュは、落としていやしないかと何度も利き手側の左ポケットの中を覗き見ては、真っ白い存在にヒュッと息をつまらせる。それを何度も何度も、繰り返していた。
 ――どうして、こんなにも存在感があるのか。
 落ち着かせるようにため息をついて、意識を意識的に無意識に切り替えたくって、周囲の喧騒にわざと耳を傾ける。
 しかし、カミュが体を捩ると、時折硬質で高い、擦れる音がする。ざわめきを切り裂いて耳に消えないそれに、カミュは舌打ちをしそうになった。普通だったら気にもしない雑音だ。それこそ、人々の品のない声が支配する酒場でそれを聞き取るのは、至難の技だ。なのに、こうも耳の穴から脳に一直線に忍び込むだなんて。

(なんなんだ、いったい)

 酒場の店主に呼ばれ渡された、格式高そうな真白い封筒。手紙のやり取りをするような相手など、カミュにはいない。誰からだろうと不思議に思って、カミュはすぐにピンときた。非日常的なその存在は、先日の非日常的に登場した彼女をすぐに思い起こさせたのだ。店主に言われるまでもなかった。
 彼女からの手紙を受け取った時の気持ちを表すことは、幼いカミュには少し難しい。
 嬉しい? 面倒? 緊張?
 そのどれもが当てはまっているようで、違うような。ただ、くすぐったい感じはした。

(なんて、書いてあるんだろう)

 文字を読むことのできない、学のない自分が、手紙を渡されたところで意味などない。
 ――捨て置いてしまおうか。興味のないこと、妹との生活に必要のないことなら、バッサリと切り捨てることができるのが、カミュだ。ましてや、学という人間性の一つを、こうして確実に露呈させてくるような存在を――劣等感を逆撫でしてくるような存在を――手元に置けるほど、カミュはそれに無関心ではいられない。そんな社会的弱者である自分を、彼はまだ受け入れたくはなかったのだ。
 だが、彼の中の何かが、それは違うと咎めた。あの時、でしゃばって助けてくれた彼女が。怒って行ってしまった彼女が、何を思って自分に手紙を認めたのか。

(知りたい)

 軽蔑ではないことを、カミュは確信していた。だから、戸惑いながらも――自分とは決して混ざり合うことのない白を、突っぱねることはしなかった。

 好奇心と、少し落ち着かない心臓。それを考えるとどうにも逸る気持ちを抑えられなくて、結果ソワソワとしていたのだから、これはカミュの失態だった。

「あら、カミュ。何だかお前、いつもと違うわね」

 バイキング一味の女に目ざとく声をかけられ、カミュはハッと息を止める。それまでぼんやりとしていたのに、体を弾ませる彼の反応を楽しげに眺めて、女は派手な瞳を弓形にしならせた。

「ここにいる時は、いつも仏頂面なのに。何かいいことでもあった?」
「別に」

 干渉されるのはごめんだ。カミュがプイと顔を背けて答えれば、何が面白いのか――女はケタケタと笑い声をあげて、そのたっぷりとした蜂蜜色の巻き毛をかきあげてから、黄金色のジョッキを傾けた。
 大きな取引を終えたバイキングの一味は、常以上にみなご機嫌で羽目を外していた。アジトに戻ってもお祭り状態なのはほぼ確定である。後片付けは自分の仕事だろうな、とカミュはようやく現実的な思考に戻って、うんざりと嘆息した。そんなカミュの様子をジッと見つめると、女はサラミを突き刺したフォークをユラユラとさせ、言った。

「何か悩んでる顔だね。いいからほら、お姉さんに話してごらん」

 その瞳に、からかいの色はない。この女性はバイキングらしく確かに粗野だが、カミュが幼いということもあってか、何かと気を回してくれる数少ない荒くれ者の一人だった。
 彼女は、あの少女と同性の女だ。それならば、この手紙を相談しても――内容を教えてもらっても、吝かではない、か。
 カミュが口を開きかけたその時、向こう側からドスの効いた声が聞こえた。

「おい、クソガキ。きちんと働いてるんだろうな」

(うるせぇ、木偶の坊)

 ゴルドーだ。この男は、この女に気がある。思い人が、気にくわないカミュのことを気にかけるのが、気に入らないらしい。そのために、カミュは謂れのないイジメを受けることもあった。ほぼそれが理由でいびられているのかもしれない。心底嫌な顔をして、カミュは手にしていたジョッキを彼の前に置くと、空いたグラスを渋々片付けた。女はおかしそうに、「おや、邪魔が入ったわね」と皮肉混じりに言う。

(やっぱナシだ、ナシ)

 誰かに頼って、自分宛の手紙を読んでもらうなんて。それも、相手は仲間と呼ぶには信頼のできないバイキングだ。自力でなんとかしようと心に誓うと、カミュはポケットの中の封筒に小さく触れた。慣れない存在なはずなのに、指先がじんわり温まった気がして、少しだけホッとした。



(さて)

 アジトに戻ってから、尚も続く馬鹿騒ぎの中。カミュは人の中心部から離れた壁際、使い古された何も入っていない宝箱を背もたれに、地面に座り込んでいた。
 このざわめきがなくなったとき、彼の仕事が始まるのだ。酒とタバコと女と、という品のカケラもない騒音が静まれば、あとは片付けの時間だ。床にテーブルに突っ伏して眠りこける大男たちを避けて、散らかった部屋を綺麗にする。そのために、カミュはここで待機しておかねばならなかった。
 ゲラゲラと笑う汚い声。女のはしたない声。調子外れのリュートの音色と、タップを踏む音。いつもは、うんざりとそれを聞いていたけれど。
 カミュは徐にポケットから手紙を取り出すと、腰紐からナイフを引き抜いて、美しい直線を描くように開封する。その硬い感触に、この白い物が上質な紙でできていることを、嫌でも思い知る。
 中にしまわれた羊皮紙をひろげ、カミュは字の連なりをザッと目で追った。丁寧な筆跡は、嫌でもあの少女の顔を思い出させた。

(いかにも、って感じだな)

 字を読めないカミュにも分かる、彼女らしい書体だった。なんだか紙の向こうから彼女が語りかけているようで、カミュは誰にも見られてなどいないのに、背筋を伸ばして佇まいを直す。
 それからゆっくりと文字を確認したが、その中にカミュという文字はなくて、なんとなく肩を落とした。
 幼い頃、もう記憶もほとんどないような頃――たった少しの間一緒にいた両親に、カミュは自分の名の文字を教えてもらった。数少ない読める文字の中で、自分の名前というのはどこか違う意味を持っていたのだが。

(まぁ、あいつはオレの名前、知らないんだし)

 神様、とか、クレイモラン、だとかの名詞は、そこそこ分かる。けれど、見たこともない字はただの暗号にしか見えなくて、カミュは早速お手上げとばかりに紙を畳んだ。

「これは、誰かに文字を習う必要があるな」

 息を落とす。けれど、なぜか少しだけワクワクしている自分に。カミュは、胸を高鳴らせた。もう一度羊皮紙をひらいて、目を通す。何も読めないけれど。なぜか温かくて、カミュは今だけは一人ではないと、そう思えた。
prev | list |