「ただいま」
「おか……えり。すごいね」
「はは」
 卒業式から帰ってきた周助の学ランは、見事に全ての釦がもぎ取られた後で、金色が消え去った真っ黒の上着は外套のようにゆらゆらはためいていた。ワイシャツの方もいくつか無くなっており、周助には珍しく、首元と腹部がだらしなくはだけていた。
「追い剥ぎにあったみたい」
「似たようなものだったけどね」
「スリルあった?」
「それなりに」
 微笑んで鞄をフローリングに下ろす。私はとりあえず冷蔵庫からお茶を出してやる。私の卒業式は一昨日終わった。学校が違うと大変だな、と両親に申し訳なく思った。私のエゴだけれど、でもこれでよかったのだ。私の中学生活は恙無く終了し、恙無く高等部に進学する。
「ありがとう」
「第二ボタンじゃなくてもいいんだね」
「そうだね、まあひとつしかないし。見た目は変わらないしね」
「父さんたちは?」
「父兄会に顔出してるから遅くなるよ。母さんも、英二の母さんたちとお茶してる」
「周助は? テニス部の集まりないの?」
「早めに抜けてきたよ。……名前に渡したいものがあって」
「え」
 ちょっと来て、と周助は鞄を持ち直して二階へと上がる。上着が翻る。年月が経ち、私たちの身体も大きくなり、軋むようになった階段を周助に続く。わずかに甘やかな香りがして、女の子に揉みくちゃにされたからだろうかと少し可笑しく思った。周助からは匂いがしない。それは多分、私が周助と同じ生活をしている故に慣れきっているからだ。

 周助の部屋にちゃんと入ったのも久しぶりだ。部屋は隣同士なのでよく借り物をしたりしていたけれど、私が塞いでいたときから周助の方も一歩引いて私に接した。お互いの部活が忙しく、生活サイクルが変わっていったのもある。お風呂に入ったら眠くなってしまう私とは違って周助は夜中に勉強まで終わらせて、対する私は朝に片付けてしまう方だった。
 ベッドに腰掛けそのまま布団になだれ込む。同じ柔軟剤の匂い。色違いのシーツ。
「ちょっと、寝ないでよ」
「昨日夜更かししたからねむい」
「一足先に春休みでずるいなあ」
 周助は笑う。いつも笑っている。たとえ元気がなくとも、機嫌が悪くとも、笑っている。緊張しているときでも。
「はい」
 鞄から取り出したのは式でつけたであろう、「卒業おめでとう」と書かれたリボンに花飾りがついたピン、に無理矢理通された鈍く光る釦。
「ちゃんと第二だよ」
 はい、と手渡されたそれを受け取る。釦にあしらわれた青学の校章が少しだけ剥げている。
「これ欲しい人、いっぱいいたんじゃないの」
「僕が名前にあげたかったから」
「……」
 沈黙する私に困ったように周助は微笑む。私がどう思うかなんて分かりきってるくせに、今更周助はこんなことをする。
「よかったら名前のも欲しいんだけど、交換してくれないかな」
「周助は私が好きなの?」
 息をのむ音が聞こえた。微笑みを消した周助を見るのはいつ以来だろう。丸かった輪郭はなめらかに細面を描き、意外にも太い首へと繋がる。ずっと追及しなかった。見ないふりをしていた。けれど周助はまだ、まだ私のことをそんな風に想っている。見開いた、私と同じ色の目をゆっくりと閉じて、また開いて、周助は言った。
「好きだよ」
 かすかに震える声で、さらに続けた。
「愛してる」
 握りしめた拳は白く血の気が失せている。見上げた周助は能面のように無表情だった。
「周助は、わたしと、セックスがしたいの」
 私の声も頼りない。ほとんどつぶやくように投げかけると、周助は息を重苦しく吐いた。
「……そうだよ」
 指先が熱く震えるのとは対照的に、頭は芯から冷えていくように感じた。胃の底がぐるぐると黒く感情の渦を巻く。あつい。さむい。あつい。気持ち悪い。
 周助がふらりとよろける。とっさに手を伸ばしてやれるだけ、私にはまだ兄への親愛が残っていた。二人して倒れこんだ布団に身を固くするも、手足は痺れるように震えて動いてくれなかった。
「しゅ」
「すきなんだ」
 繰り返す周助の言葉にわずかに体を引くが、冷たい手に弱く握られる。
「名前が好き。嫌だ。ずっと一緒にいるって言ったのに」
 長い前髪の合間から涙が一筋、頬をつたって布団に吸い込まれた。
「置いていかないで」

 抱きしめられてもキスをされても私は言葉を発せなかった。耳鳴りがする。いつのまにか私も泣いていた。周助の舌。背中に伸びる冷たく大きな手。同じ色の髪の毛が降りかかる。天井。いつか私と一緒に貼った星型の蓄光シール。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 ぐずぐずと惨めに泣く私に慰めにもならないキスをしながら私の脚が開かれて周助の身体が入り込む。
「すぐ終わるから。大丈夫」
 なにも大丈夫なことなんてないじゃない。私たちは一体どこで間違ったんだろうか。嗚咽に悲鳴が混じっていく中で、周助の細められた目は鈍く暗く、私を見下ろしていた。
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斜掛