正直少し浮かれて登校した入学式。見学と受験の時以来に訪れたきれいな学び舎を気持ち軽い足取りで通り、掲示されていた紙に従い着席した席で改めて名簿を見たときの動揺といったら、平和ボケした私にとっては痛いほどの衝撃だった。

 初日のホームルームはさっさと終わり、皆クラスメイトに挨拶をしたりと忙しい。人見知りの私は結局誰にも話しかけられず、すごすごと廊下に撤退した。どこもかしこもごった返している。目眩がする。東京ってなんでこんなに、人ばっかりいるんだろう。

「お待ちなさい」

 どこぞの高飛車お嬢様のような台詞を、麗しい響きを持つ声で背後の人物は誰かを呼んだ。誰かなんてはぐらかしたけれど、十中八九私であろう。振り返った先にはまた背の伸びた観月はじめがいた。
 東京に越してきたのは小6の頃だ。母方の祖母がひとりになってしまったから、一緒の家に住むために転校した。私立に行く気なんてなかったけれど、おばあちゃんが「心配だから」とお金まで出してくれたので今こうしてルドルフに通っている。まあ結局、離れがたい程の友人は一年間で作ることが叶わなかったから、公立に拘る理由もなかったのだ。制服もかわいいし。見知った名前をクラス名簿に見つけて椅子をガタつかせる羽目になるとは思わなかったけれど。

「特待生なんだね」

 別に観月は自慢している訳ではないが、優越という言葉をそのまま顔に貼り付けているような優雅で、多少気に障る、それでもやはり美しい笑みを浮かべた。

「はじめちゃんはテニス上手かったもんね」

 小4から始まった学内のクラブ活動では、元々習っていた観月は抜きん出ていて、少しつまらなそうにボールを打っていた。グラウンドに設えられた、砂が舞い上がるコートで、観月が相手になった時は気が重かったものだ。しかし観月は私もレディーファーストの勘定にきちんと数えてくれるらしく、えげつないサーブを打ち込んでくるでもなく、なるべくラリーが続くように気遣ってくれた。私にも点を取らせてくれたが、喜ぶとチクリと刺してくるのが観月だった。それでも、できないものができるようになった経験は良い記憶として胸に残っている。

「その呼び方はどうなんです」
「観月」
「呼び捨てですか」
「観月くん」

 観月くんってなんか気持ち悪いな。なんで中学校に上がったら、みんな苗字にくんづけで呼び出すんだろう。嫌に媚びているようで寒気がする。男子なんて呼び捨てであれば、距離を取ったり縮めたりできるのに。男女の変な線引きに、私は慣れない方の人間だ。

「よろしい」

 満足気な微笑みは昔、粗末なコートで観月のアドバイスに元気よく返事をしたときのあれによく似ていて、けどそれよりも全然うつくしくて、うっかり心の中で呼んでいた呼称が口をついた。

「はじめくん」

 ぎょっと目を見開く観月が面白かったので自分のことを棚に上げうははと腹を抱えると、重たすぎるため息を吐いて、こちらを鈍く睨んだ。

「全く、貴女というひとは」

 貴女なんて呼ばれるのもうっすら鳥肌が立つ。1年間という時間は案外長かった。だって小6の4月と中1の4月じゃあ心持ちなんか全然違うのだ。はじめくんにまた会えるだなんてそんなこと、微塵も思っていなかった。
 ぶちぶちと続く文句を右から左へゆるゆる聞き流す。まったくあなたはむかしから、……
 私はそんなに変わっていないのだろうか。そう努めているところはあるけれど、観月を騙せる程度なのか。はじめくんはもうずっと、大人になってしまったように見えるよ。
 溝を踏み越える術は私の性格上持っていても、それを埋めて無かったことにするのは、几帳面で神経質なこの男の前では無理だ。
 名前ちゃんて呼んでくれないの、はじめくん。

191120
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