※概ね捏造
バイト始めてしばらくした峯岸さん




 自室の真上に住むひとは全くもって存在が薄かった。隣の部屋の生活音がだだ漏れなこのアパートで、足音ひとつ立てずに一人ひっそりと、静かに暮らしていた。外で見かけたことは一度もない。年齢も職業も性別も分からない。もはやほんとうは居ないんじゃないかとすら思い始めた矢先、自室のベランダに小さな変化を見つけた。晴れた日の朝、光で目が醒めて、ふとカーテンの隙間から窓の外へと目を向けたとき。私の部屋の屋根にあたる、上の階のひとの家から垂れ覗いた緑色。
 植物に疎い私には名前が分からなかったそれは毎日元気に伸び、目に見えるかたちで成長していった。だんだんと降りてくる、切り取られた窓の外の風景を覆っていく知らない形の葉っぱ。上の階の人は、きっと植物を育てるのが上手なのだろう。こんなぼろアパートで園芸を趣味とするんだから、女性だろうか。そんなことを思いながら、毎日その変化をなんとなく心待ちにしていた。




 鈍く重い大きな音が天井に響いた。日曜日の朝のことだった。いつもは寝汚い休日だけれど、めずらしく早起きしていた私の耳にそれはしっかりと届いた。朝ごはんのかじりかけの食パンを皿に伏せそっと耳を澄ます。そのあとはなにも聞こえなかった。足音も床がきしむ音さえも、何も。
 じんわりと暗い不安がよぎる。何かが倒れたような音だった。なにか? モノ? もしかして、あの大きな音は、人ではないだろうか。
 考えすぎだとは思う。紅茶を朝からがぶ飲みしたから、カフェインが余分に回っているのかもしれない。窓の外の元気な緑色。急かされるように部屋着にとりあえずのものを羽織り、自宅を飛び出した。



 カンカンと段差の大きい外階段を上る。錆がよく目立つ白い手すりには触らないで足をせかした。辿りついた私の部屋の真上。たよりない薄い表札には、細い字で"峯岸"と書いてあった。

 ためらった後に意を決してインターホンを押す。しかし期待した音は鳴らず、ボタンがこすれる乾いた音しか返ってこなかった。壊れているのだろうか。諦めて乳白色のドアをノックする。今度は思い切りよく。

「み、峯岸さん! 下の階の者ですが! あっ名字です!」

 返事はない。ただの……いやほんとうにそうなっていたらどうしよう。何度かノックした後ドアノブに手をかけると、かんたんに目の前は開けた。

「え…」

 嫌な想像が急に現実味を帯び始める。半開きになったドアをおそるおそる引いて、中の様子を伺った。カーテンが閉められているのか薄暗い室内に申し訳ないと思いつつも上がらせていただく。短い廊下の向こうの居間らしき部屋に入ると、この空間に似つかわしくない(と言っては失礼だけれど)花の香りがふわりと広がった。不思議に思いつつ歩くと足元になにか転がっていた。……なにかではない。ジーンズらしきものを履いた人の脚。

「峯岸さん!!」

 慌てて駆け寄り声をかける。頬をたたく。大丈夫ですか。横向きになっていたので仰向けに転がす。重い。大丈夫ですか。返事はない。けれど息はあった。規則的なそれはおそらく寝ている人のもの。

「よかった……」

 気が抜けてへたり込む。知らずのうちに早くなっていた呼吸を整え、冷静になって思い返すと、峯岸さん、やけに重たかった。体格も、細身だったけれどどちらかと言えば筋肉質だった。
 薄暗いままの状態では目が慣れたとはいえ判断できない。冷や汗をかきながらも窓辺に近寄って厚いカーテンを引いた。


 圧巻だった。ベランダに所狭しと並べられた多種多様な鉢植え。私の部屋に遊び降りているあの葉もすぐに見つかった。それだけじゃない。ふと視線を室内に戻すと、そこにも緑は広がっていた。床には新聞紙が敷かれ、その上にベランダと同じように植物が並んでいる。園芸種の色とりどりの花から、観葉植物、よく分からないつるをぐるぐる伸ばしたもの、食虫植物のような葉まで様々だったが、すべて見たこともないほど大きく育っていて、天井についているものも少なくなかった。ジャングルみたい。こんな狭い部屋によくここまで。そういえば家具らしきものはほんのわずかしかこの場には置かれていない。目の前に広がる光景にしばらく見入っていた。

「…だれ」

 そのせいで本来の目的も忘れてしまっていたのだけれど。背後から声をかけられようやく我に返った。反射的に勢いよく振り返ると、全体的に色素の薄い、細身の男性が立っていた。
 この人が、峯岸さん。

「あ! え、ええと…下の階の名字です…。あっいきなり、てか勝手に上がりこんですみません! 峯岸さん、で合ってますよね、いっつも静かなのにさっきすごい音したから、どうかしたのかなって、もし何かあったのなら大変だな、と思って! 鍵空いてたから嫌な予感がして! 倒れてたからもう驚いて…でも早とちりでしたねごめんなさい……あっもう大丈夫ですか!?」

 私の口がここまで回るのもなかなか無い事だろう。私がまくし立てる間峯岸さんはまばたきひとつせずにこちらを見ていた。言い終わってからしまった、テンションに任せすぎたと後悔したけれど彼は表情を一切変えずに言葉を返した。

「…大丈夫。……です。…食べるものがなかっただけで…」

 そ、そうですか。どぎまぎしながら私も答える。しかし貧血ならまだしも行倒れ(?)って大丈夫なのか。勢いでここまで来てしまったのでここからどうすれば良いかまったく分からない。うーん…

「…お腹、空いてるんですか」
「はい」

 即答だった。声のトーンはすこしも変わらなかったけれど。

「よろしければ何か、家から持ってきましょうか…?」

 昨日の残りとかしか、すぐには用意できませんが。私がそう言うと、一拍おいてから峯岸さんは応えた。

「お願いします」





 植物に囲まれてご飯を囲む。背の低い簡易テーブルに向かい合って床に座った。すこしお尻が痛い。
 外見に似合わず峯岸さんはよく食べた。よほど空腹だったんだろうか。残り物だけでは間に合わなかったので、一度家に材料を取りに戻って即席のものをいくつか作った(峯岸さんは律儀に「すみません」と言った)。偏食そう、と勝手に思ってしまったがそんな事はなく、次々と自分の作ったものが彼の腹に納められていくのは見ていて気持ちが良かった。

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」

 この人は本当に表情が変わらない。峯岸さんがコップの水をごくりと飲む音がやけに響いた。彼が食事している間は邪魔しても悪いと思い会話が無いのは気にならなかったが、いざそれが終わるとやはり沈黙が重い。私は会話のない空間には焦ってしまうたちだった。

「あ、の」

 待っていても向こうはきっと無言が苦ではないタイプだろうから、私から話題を探した。

「植物育てるの、上手いんですね」

 峯岸さんはその三白眼の焦点を私に合わせる。

「はあ、まあ」

 会話終了。…には私がさせなかった。せっかく会えたんだ、もう少し話していたい。

「あの、私の部屋のベランダにまで伸びてきている葉があって、すごいなって」
「あ、お邪魔してましたか…すみません、どけます」

 峯岸さんはそう言うと席を立とうとした。

「いやいや! そういう話ではなくて! むしろ伸びてくるのが楽しみで! ありがとうございます!」

 あわてて言うと峯岸さんはそうですか、と言ってまた腰を降ろした。

「こちらこそ、食べさせてもらって…ありがとうございます」

 美味しかったです。軽くお辞儀までされて恐縮してしまった。

「いや全然大したものでは……」
「あまり食べていないので有難かったです」
「…そんなに困っていらっしゃる…?」
「……不慣れなもので、色々と」

 すこしだけ目線を左に逸らして峯岸さんは言った。

「よ、よろしければまたなにか作りましょうか」

 思わずそう言ってしまい、しまったこれは厚かましいのでは、と恥じたけれど、峯岸さんはこの申し出を受け入れてくれた。

「…良いんですか?」
「小さいアパートですし、助け合いですよ。私もたまにお隣からもの借りたりしますし」
「…ではお言葉に甘えて、よろしくお願いします」
「はい!」

 返事が元気良すぎた。ああもう、さっきから私ばかり浮わついているのが恥ずかしい。とりつくろうように言葉をついだ。

「あの、植物好きなんですね」

 峯岸さんはあまりピンときていないようだった。何言ってんだこの女。やはり無表情ではあったけれどそう言われているようにも見える。

「こんなにたくさん、育ててらっしゃるから、そうなのかなと……」

 語尾が尻すぼみになる。違うのかな。いやでも違ったら謎すぎる、こんな狭いアパートをさらに窮屈にするような植物群。

「まあ、そんなところです」

 彼は否定はしなかった。うん、私も深くはつっこまないでおこう。

「…それにしても」

 口を開いたのは峯岸さんだった。う、うれしい。期待を込めて彼の言葉のつづきを待つ。

「男の部屋に飛び込むなんて、勇気ありますね」

 想定外すぎることを言われた。えっ峯岸さんそういうこと気にする人なの、っていや私はずっと貴方のこと勘違いをしていて…

「ち、違うんです! 私峯岸さんのことずっと女性だと思っていて! 会ったことなかったから! こんなアパートのベランダでガーデニングとかしてるからてっきり…!」

 恥ずかしくてバッと顔を下に向けて一気に喋る。顔が熱い。ほとんど叫びだしたいくらいだったけれど、ふっと、峯岸さんが小さく笑ったように聞こえて思考が止まる。おどろいて顔を上げるとまあ峯岸さんは変わらずの無表情だった。

「それはすみません」
「へっ、いや勝手に思違いしたのは私で…しかも女性だとか…こっちがすみません」

 それからも淡々と細々と、峯岸さんは会話を投げてくれた。私はうまく返せていただろうか。自室に戻ったあとも、峯岸さんの笑い顔を見逃してしまったという後悔のようなものが頭をぐるぐる回っていた。
 翌日の朝、カーテンを開けて気づく。この植物の名前を聞くのをすっかり忘れていた。窓を開けると空気がつめたく肌にしみる。朝もやが遠く幽かに広がる中、その元気の良すぎる葉にそっと触れてみた。


160923
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