日常などたやすく崩れるものであった。もっとも、茂夫は彼女に声を掛けられるまではそれが続くものだと信じて疑わなかったのだが。そして彼女がやってきた理由にあたる霊幻もまた、退屈に日々を潰しているだけだった。
「ちょっと、そこの貴方」
下校途中に見知らぬ女性に話しかけられる。そんないつの日か(笑)の信者に勧誘された時とまったく同じ状況に、多少の警戒をしつつ茂夫は振り返った。
そこにいたのは妙なマスクを被った中年女性ではなく、二十代半ば、もしくはもっと若いのだろうか(茂夫には正しく判断ができなかった)、澄んだ瞳が印象的な、それでいて無表情にこちらを見据える女性が立っていた。
「霊幻新隆の事務所、どこにあるか知りませんか」
抑揚のない声は小さかったが、きちんと耳に届いた。師匠に用のある人。つい先日、霊幻は世間の話題を攫いワイドショーを賑わせたばかりだ。そのおかげで依頼は増えたものの、いたずらや冷やかしも多く、霊幻は苦労しているようだった。
自分が直接、面識のない依頼者を紹介する、ということは茂夫にとって初めてであったが、一応人となりを判断しておかなくてはならない。空気を読む、その前提となるような人の顔色を伺うという行為に、苦手だなあと多少の困惑を抱きながら彼女の質問に答える。
「知ってますけど…」
「良かった。案内してくれませんか」
「え、は、はい」
「ありがとう」
微笑みもせずわずかに頷いた彼女に先立って歩くと、彼女も横に並び付いてくる。少し見上げないと伺えない横顔をちらりと見ると、まっすぐ前を見つめていた。会話をする気はないようだ。それはこちらとしてもありがたいのだが、今は彼女がどんな人物か知っておかなくてはならない。もし真剣な依頼でなかった場合、はたして茂夫に追い返すことができるのかという点を考慮しておけるほど、彼に余裕は無かった。
「あの、あなたも霊とかの…なにかに…困っていて…相談に行くんですか?」
「はい」
進行方向へ向けていた彼女の視線は、問いかけにすっと横に、茂夫に定められた。ぼうっとしているようにも見えたが質問には即答だった。
それ以上の会話を繋げることを考えておらず、たった2文字で終了してしまったことに焦る茂夫だったが、彼女は意外にも言葉を続けた。
「私、霊幻とは旧友で」
「えっ」
予想外の告白に驚き、歩みを止めそうになる茂夫に反して、彼女は淡々と呟き足を進めた。
「テレビで見たから、会いに行こうかなって。丁度困りごともあったし」
「そうなんですか…」
さくさくと、もはや茂夫より少し前を歩く彼女に慌てて並ぶ。
会話は終了なようだ。しかし事務所に着くはもう少しかかる。彼女の言うことを疑うことなく信じた茂夫の素直さは長所であり短所でもあるが、それを指摘してくれるような悪霊は今彼の元についていなかった。茂夫は少しだけ心を許したのか自分の事も語る。
「あの、僕は師匠…霊幻師匠の弟子なんですけど、」
ぴたり。一定の速度で歩いていた足が止まった。茂夫に向けられた顔はやはり無表情に違いなかったが、目は少しだけ驚きに染まっていた。彼女が表情を崩した、数少ない瞬間だった。
「…師弟制度なんかあるんだね」
感嘆したように、それでも平坦な声で呟いた。
それから彼女はなにやら思案に耽っているようで、茂夫の方も話題は持ち合わせておらず、会話は生まれなかった。
相談所のドアを開けると、ソースの香りが漂ってきた。こちらに背を向けている霊幻がたこ焼きをつついている。
「おうモブ、お前の分もあるぞ。冷めないうちに食え」
「師匠、お客さんですよ」
「はっ!? バッカお前そういうことは早く言え…じゃなかった、ようこそ霊とか相談所へ…って」
振り返った霊幻は茂夫の背後を見て言った。
「…誰もいねえじゃねえか」
え、と茂夫が呟くよりも前に、背後の彼女の口から言葉は流れた。
「うそつき」
茂夫が振り返った先の彼女は相も変わらず無表情で、訝しむ霊幻をまっすぐに見つめている。温度のない声はひとり言のように空気へ溶けた。
続くはずだった
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斜掛