幕開け


「……」
「お父さん…?」
「あ?ああ…なんだ綾乃」

時刻は19時過ぎ、拓海はまだバイト中で帰ってきていない。
視界に入るのは、テレビを見ているようで遠くを見ているお父さん。晩酌をしながらも頭は別のことを考えているみたいで、お風呂上がりの自分の濡れた髪の毛をタオルで拭きながら横に腰を下ろす。
普段だったら何だよ…の軽口くらい叩いてくるのにずっと口を開かないまま、疲れた様子で眉間に皺を寄せながら難しそうに何かを考えている。そんなお父さんに声を掛ければ、思考が鈍そうな返事をされた。数日前からこんな感じだ。

数日前と言えば、私に彼女のフリをして欲しいと高橋くん……間違えた、下の名前で呼ぶことになってるんだった…啓介くんから頼まれた日からお父さんはずっと気難しそうに何かを思案している表情をよくするようになった。特に売上が厳しいわけでもないし、家庭内で何かがあったわけでもない。
でも何日も引きずっている様子に、流石の私も気になって聞いてみることにする。

「どうしたの最近、ずっとそんなだけど」
「あー…まあな…。しつこいぐらいに毎日来る奴がいてな…」

何それ、初耳だ…。毎日来るってことはいい常連さんになりそうなものだけど、お父さんの口振り的に普通のお客さんじゃなさそうだ。そんな変な人いたっけ、と不思議に思いながら口を開く。

「ふうん…普通のお客さんじゃなさそうだね、どういう用事でくるの?」

私の言葉に返事をするわけでもなく、ちゃぶ台に置いていたタバコの箱から一本だけ取り出して火をつける。深くタバコを吸い込んで口から大袈裟なほどの煙を吐いたお父さんはどこかを遠い目で見つめていた。そうしてぼそっと、言葉をこぼす。

「自分の代わりに秋名の峠走って欲しいんだとよ」

峠を走る…?って走るだけ?もしかして高橋くん…いや啓介くんか…ああ慣れないな、もういいや…。
高橋くんがいっていた公道レースの話かな…お父さんからそういう話は聞いたことないけど、何だかそうだろうなって予想がついた。
お父さんからは遠くにあった灰皿を渡しながら、再度聞き返してみる。

「それって、峠を攻める…とかいうこと?」
「なんだ綾乃、とうとう男の趣味でそういうことに詳しくなったわけか」
「え!?いや、別にそんなんじゃないって…!」

知っているのか、知らないのか…お父さんはそんなことを平然と聞いてくる。図星ってわけじゃないけど、あまりにも事実に近すぎるから思わずびっくりして慌てた反応になってしまった。私の様子に少しだけニヤッと笑ったお父さんはタバコの灰を灰皿にトントン、と叩いて落とす。
そんなお父さんの態度に絶対、いじってくる…最悪…と拗ねた顔になってしまった。

「分かりやすいな」
「新しくできた友達だよ…それ以上でもそれ以下でもないって」
「ほお?」

私の反応を見て、なぜか嬉しそうにしながらタバコを吸っている。変に機嫌の良いお父さんに居た堪れない気持ちになって落ち着かない…視線を彷徨わせているとお父さんの晩酌のおつまみが無くなったお皿が見えたから逃げるようにしてそのお皿を持って台所へと行く。没収だ、没収。お代わりなんて絶対出してやんないんだから…。
流しへと置いて、喉が乾いた私は食器棚から出したコップに麦茶を注いで居間へと戻って腰を下ろす。

「でもなんで代わりに走ってくれなんていわれてるの?」
「事故ちまったみたいでな…よそモンに仕掛けられたバトルだか何だか知らねぇけど、それが走れねえから困ってんだとよ」

冷たい麦茶を一口飲みながら、お父さんに言われた言葉を何となく理解できるように考えてみた。
バトルって公道レースのことだよね…よそものっていうライバル意識を持ってたりするんだなあ…。私の知らない世界がまだまだあることに他人事のように軽い感心を向ける。
男の子ってそういうの好きだよね…。

「その人、怪我は大丈夫?」
「頭に包帯巻いてギプスで毎日来てるぞ」
「そ、それは大怪我だね…そんな状態だと車の運転もできないかあ………あれ、でも何でお父さんにそんなこと頼んできてるの?」

私のふとした疑問をお父さんはタバコを吸いながら、あー…と歯切れが悪そうに唸っている。その何処かいいたくなさそうな様子にますます気になってじいっとお父さんを強い視線で見つめると、タバコを灰皿に押し当てながら消して一息ついた。頬をポリポリと掻きながら、口を開く。

「一応、走りじゃ負けねえからなオレは」
「……それって法定速度守ってる?」

私の何かを言いたげな瞼を少しだけ伏せた視線に、お父さんは何でもないような顔をして呆れた声色で言葉を紡いだ。

「守ってるわけねえだろ、ちったあ考えろ」
「うそっ…それで事故したらどうするの!?警察に捕まっちゃうんだからね!」
「逆にお前は馬鹿みたいに速度守りすぎなんだよ。言っとくけどなあ、あんまり遅すぎても捕まるぞ。それだったら、お前だって片手じゃ収まらねえだろ」

私の指摘に何百倍もの爆弾を投げ返してくるお父さんに、むきになりそうな気持ちを何とか押さえつけて深呼吸をする。というかスピード出す人より、遅い人の方が安全なんだから…!警察に捕まるかどうかは別として…。高橋くんといい、車の運転が好きな人はみんな法律守らないの…!?
苛立ちを抑えるようにコップの麦茶をグイッと飲んで、お父さんを見れば私なんて眼中にないみたいでテレビに目を向けていた。む、むかつくなあ……。

でもふと思う。他人から頼られるってことは、お父さんの運転ってそんなに速いのかな…。こんなに何年も一緒に過ごしてきたのに初めてお父さんの意外な一面をみた気がして、変な気持ちになった。お父さんが誇らしいような、照れくさい気持ち。

それならと私は提案してみる。どうせ減るもんじゃないし、助けてあげればいいのにな。

「お父さん、代わりに走ってあげたら?せっかく頼ってきてくれてるんだし…」
「やだね…ガキの小競り合いにオレみたいなおっさんが首突っ込めるかってんだ」

私の言葉に苦々しそうな表情へと変えたお父さんに思わず笑ってしまった。いかにもお父さんっぽい答えだ。
その人にはかわいそうだけどお父さんはこういうとこがあるから、多分助けになれそうもない。まあ…頑張って私が説得してもよかったけど、確かに若い人に混ざって大人げなく負かしているお父さんは何だか見たくなかった。なんか、それはカッコ悪い気がする。

「でも…いつかお父さんがその、すごい運転してるの見てみたいな」

面白そう、と言葉を続けて残りの麦茶を飲み干す。ちゃぶ台に飲み干したコップを置いて、畳に仰向けに倒れ込むとお父さんは私の言葉を聞いて少しだけ意地が悪そうな笑みを浮かべた。い、嫌な予感がする…。

「峠下るまで降ろしてやらねえぞ」

私を揶揄うようにうっすら笑いながら、コップに入ったお酒を飲み干した。なんか、余計なことを言ってしまったような気がするのは気のせいだろうか…。私もしかしてとんでもない人に、とんでもないことを頼んでしまったかもしれない……。私は慌てて訂正するように首を左右に細かく振った。

「や、やっぱり…遠慮しておきます…」
「遠慮すんなって」

その声が楽しげなのは、気のせいなんかじゃなさそうだ…。私は楽しげにするお父さんを横目にテレビの画面へと視線を動かした。今度裕一のとこでも顔出すか…と言いながらお父さんは空いたグラスを2つ持って流しの方へと足を進める。

もし乗せられそうだったらそそくさと逃げよう…と、そう心に決めて私は意識をテレビに向けた。






✳︎





今日は珍しく拓海のバイトもなくて、私も大学から早く家に帰れた。

だから今日は月に数回しかない家族3人の夜ご飯を迎える。やっぱり2人で用意するよりも3人でテキパキ御飯の用意をするからか、すぐに晩御飯は出来上がった。そうして私が3人分のお味噌汁をお椀に入れていると、入れたそばから拓海が何も言わずに持って行ってくれる。その言葉もいらない慣れた拓海とのやりとりに、どこか胸がほっこりしたような温かい気持ちになった。
拓海のそばってなんだか心地が良い…それはきっと、家族として過ごしてきた年月の賜物なのかな…。
ああ、拓海が遠くへ行ってしまうのはやっぱり寂しいな…そう思っても、グッと堪えて我慢する。

ちゃぶ台にご飯が並び終わると、何をいう訳でもなく各々の場所に腰掛けて黙々と食べ始める。
藤原家ではいつもこんな感じだ。私はともかくとして…お父さんと拓海は顔こそ似てないけれど性格や雰囲気はそっくり同じだ。そこは親子なんだな、としみじみ私も思っている。
私はそんな2人とは違ってちゃんといただきますと口にしてから箸を手に持つ。静かな食卓の中、カチャカチャと箸と食器が当たる音だけが3人の間に流れた。決してきまずい訳じゃない、この沈黙を切るようにして気になっていたことをお父さんに聞いてみる。

「お父さん、あれどうなったの?」
「なんだ、あれって」
「ほら秋名の峠代わりに走ってくれとか何とか…、」

なぜか拓海が私の言葉を聞いてびくりと動揺した。ちらりと視線を向けて不思議に思うけれど、特に気にすることなくお父さんに視線を戻す。お父さんは、ああ…と拓海を見ながら口を動かした。

「拓海次第ってとこだな」
「え…拓海?」

お父さんの言葉を聞いてすぐ拓海へとまた目を向ければ、拓海は一瞬だけ私と目を合わせて罰が悪そうに視線を逸らす。

「いや…まだ、決めてねえし…」

そう言いながら私の視線から逃げるようにしてお茶碗のお米を一気に箸でかき込む拓海。その態度になんとなく私に知られたくないことがあるんだって嫌でもわかった。私は気にしないように深く関わりたくないからそっか、と適当な返事をして自分の食卓に視線を落とす。
そんな私たちの掛け合いに首を傾げたお父さんだったけど、空気を読まないお父さんは意図的なのか言葉を続けた。

「日曜、車使うんだろ」
「…その話はもういいだろ」
「ガキのくせに一丁前に色気付いて、女と」
「やめろよ、親父」

居心地が悪そうにそう返した拓海は苛立ったようにテーブルにお茶碗を乱暴に置いた。ドンッ、と食卓の間の中で大きい音が鳴り、私は肩を一瞬だけびくつかせてしまう。拓海のその態度に流石のお父さんも眉をピクリと動かして一触即発の雰囲気が食卓に漂い始めた。お父さんは手を止めてじっと拓海を見ているのに対して、拓海はその視線に気付きつつ無視してご飯を食べている。私は顔から血の気が引いていくのをヒシヒシと感じた。
まずい、お父さんが怒ったら本当に怖い。昭和のお父さんみたいに怒鳴るとかじゃなくて……ううっ、想像するだけで身体が恐怖で震えそうになる…。流石にこんな食卓で喧嘩なんてやめてほしい…。
私は慌てて間に入るようにして口を開いた。

「わ、私の大学にさっ、黄色いスポーツカーの子がいてね!なんか秋名山でハチロクに抜かされたってすごく息巻いているというか…なんというか…」
「それって…」

私がそこまで話せば今度は拓海が手を止めて驚愕した表情で私を見る。お父さんも拓海から視線を離して私を一瞬だけ見ると、話が理解できたと言わんばかりにふっと面白がるような笑みをこぼして食卓に手をつけ始めた。え?ど、どういうこと…?拓海もなんだか分かったふうな感じで苦虫を潰したような顔で黙っている。
もしかして…本当に拓海なの…?私もその事実が現実味を帯びてきて、恐る恐る拓海に言葉を投げかけた。

「…た、拓海なの…?」
「……うん、多分」

拓海の居心地悪そうな表情で私は卒倒しそうになる。あ、頭が痛い……。
うそ…じゃあ私、拓海を血眼で探している人の彼女のフリなんてしてるわけ…?こ、これが高橋くんにバレたら私も締め上げられるんだろうか…。私は無意識に拓海から視線を外して、頭の中で高橋くんの顔を思うかべながら息を呑んでしまう。………待って、…もしかしてあのお父さんの表情からして……。

「…秋名の峠って、その車と…?」
「まあ、そうだろうな。赤城最速とかフカしたガキの車がそれなんじゃねえか」
「うそでしょ…なんで…」

お父さんから紡がれた言葉の衝撃で、口から思ったことが出てきてしまう。
神様本当にどうにかして…私、これ以上問題を抱えたくないのに…。ただでさえ、高橋くんの彼女のふりを了承してしまったことですら、後悔しつつあるのに…。
無意識に漏れた深いため息に拓海がじっとりした視線で私を見つめる。そして思った2倍は低い声色で口を開いた。

「そいつって…姉さんのなに?」

また一触即発の雰囲気に逆戻りした気がする。空気にピシリと亀裂が入り、ひんやりと肌を撫でるような冷たい空気に冷や汗が背中を伝った。こ、れは…何をいうのが正解…?
知り合い?友達?彼女のフリしてる人?どれも正解で不正解な気がした。私が言い淀んでいると拓海の瞳がだんだんと鋭いものに変わっていって私を射抜く。その物騒な瞳に耐えられなくなった。

「と、友達…」

咄嗟にでた言葉はそれだった。
手持ち無沙汰だった右手をグッと握りしめて、その拳を握るようにしてもう片方の手で包み込む。私の慌てたような言葉を聞いて、チラリと私の手に視線を向けた拓海があっそ…と納得してないような相槌を返してきた。そうしてしばらく私を見ていた拓海は残っていた味噌汁をグッと一気に飲み干して、自分の食器を重ね合わせて手に持って立ち上がり台所へと歩いていく。私はその拓海の背中を見ながらもお父さんに助けてほしいという意味合いで視線を向けるけれど、お父さんは私と目があってもどこ吹く風で何にも反応してくれなかった。

流しへと食器を置いた拓海がくるりと踵を返して、スタスタと迷わない足取りでこっち側にくる。でも私の怯えとは裏腹に、別に何を言うでもなく拓海は私たちの食卓を通り過ぎて階段へと足をかけた。
そして階段を上がる足を止めて、お父さんを見る。

「その車、ブチ抜きゃいいんだろ」

それだけぶっきらぼうに返した拓海は、もう私を見ることはなく階段を上がっていった。
拓海の異様な雰囲気に緊張していたせいでガチガチに固まっていた身体の力がようやっと抜けて、大きく息を吐きだしてしまう。そんな私の様子を見たお父さんは心底おかしいと言わんばかりにククッと笑って、私の手を指差した。

「治さねえからバレんだぞ、それ」
「え、…それって何…」
「手だ、手。お前が嘘つく時のクセだろ…まさか今の今まで自覚なかったのか?」
「えっ…!?」

弾かれたように手をみればお父さんの言う通りで確かに誤魔化したい時はよくこうしてしまっていた気がする。それを今更…というかこのタイミングで気づくなんて…。お父さんも気づいているなら言ってくれたらよかったのに…!キッとお父さんを睨んでも、私の恨めしいような視線なんて気にも留めずにお茶を飲んでいる。
お父さんに何を言っても敵わないのは分かりきっているから、私はそれ以上お父さんに対して何をするでもなくただひたすらに自分のご飯を食べることに集中した。
いつかお父さんを困らせてやるんだと胸に誓いながら咀嚼をしつつ、頭の片隅では拓海のどこか怖い様子を思い浮かべて天井を見る。そこには見慣れた天井のシミがあるだけだった。