一歩だけ
どんなに辛いことがあっても、次の日がくるなんて当然のことだ。
瞼を開けばすぐに意識が冴えてきてのそり、と身体を起こした。なんとか目覚ましがなる前に起きたけど、寝つきが悪くて浅い眠りを繰り返していたせいで寝た気がしない。
ぼうっと一点を見つめていれば目元がパリパリしているような気がして指で触ると涙の跡がくっきり残っていた。泣いてたってバレてしまう前に顔でも洗っとかないと。
隣の部屋の拓海を起こさないようにそっと自室の扉を開けて、階段を降りる。
居間にはもう電気がついていて、お父さんにも見られないようにそそくさと通り過ぎて洗面所へと向かった。
洗面所の鏡に写る自分の顔はどんよりと暗く、あからさまに何かがあったと言わんばかりの顔をしている。
これはお父さんには泣いてたってバレてしまうだろうな…。なんて言い訳しよう、と考えながら何度か水でぱしゃぱしゃ顔を洗えば、元通りの顔になった。
濡れた顔をタオル拭いて鏡の中の自分を見ながら無理矢理、口角を上げてみる。
下手くそな笑顔だった。
「おはよう、お父さん」
歯磨きをして居間へと行ってもお父さんの姿はなくて、居間から作業場へと顔を覗かせれば配達する豆腐を準備しているお父さんの姿が見えた。
私が声をかけると一瞬だけ私を見て、軽く手を上げる。お父さんっていっつも朝早くて疲れないのかな…感心しながら背を向けて朝ごはんを作ろうと台所へと行こうとすれば、お父さんに名前を呼ばれた。振り返って作業場へとまた顔を出す。
「どうしたの?」
「体調悪ぃなら寝とけ」
その言葉にぎくっと身体が強張る。本当にお父さんに隠し事なんてできない…と感心を通り越した恐怖心を覚えながら苦笑いがこぼれた。
「ううん、大丈夫。ありがとう…本当に体調悪い時はしっかり休むから大丈夫だよ」
「…ならいい」
その間も私も一切見ないのが、お父さんらしくて思わず笑みがこぼれた。不器用で優しくて…本当に頭が上がらないなあ…。
そんなお父さんに背を向けて台所にある私のエプロンを手に取って、慣れた手つきで着る。
こうしていつも通りの日曜日が始まった。
✳︎
「目玉焼きには醤油一択だろうが」
「いや目玉焼きには塩胡椒とマヨネーズだってば」
「マヨネーズってお前…卵に卵かけてんのか。太るぞ」
「さ、最低!お父さん最低!本当デリカシーない!豆腐に醤油かけてるのと一緒だから!」
朝ごはんを作っていれば私を心配してくれているのか手伝ってくれるお父さんだったけど、ちょくちょくこうした揶揄いを入れてくる。でもそんな揶揄いのおかげでいつもの調子が戻ってきた。
お父さんは拓海が配達の間にささっと朝食を済ますからと先に目玉焼きを焼いている。私の横でお父さんがお味噌汁の味見をしながら私の文句を聞き流しているのを、軽くじとっと睨んでも本人はどこ吹く風だ。
そんなお父さんに軽口を返していれば階段から降りてくる音がする。その足音に一瞬だけドキッと動揺してしまって、なんとか“普通“を取り繕うようにして息を整えた。
ギシ、と床が軋む音が今から聞こえる。
「はよ…」
「おー。拓海、お前まだ寝ぼけてんのか?そんな調子で配達なんかするんじゃねえぞ」
「わァってるよ…」
眠そうな拓海の声。いつもより眠そうで心配になるけど、私はいたっていつも通りに振り返って笑顔で声をかけた。寝癖が酷い拓海が目を擦りながら、のそのそ台所へと入ってくる。
「おはよう拓海」
「お、はよ…」
「おにぎりあるけど、食べながら配達行く?」
「…うん、持ってくよ」
どこか気まずそうな拓海の態度に、私は気にしないようにして作っておいたおにぎりを拓海に渡す。
その際に拓海の手に少しだけ触れて、いつも通りのはずなのに胸が小さく跳ねた。そんな自分を隠すようにサッと手をひいて、コンロへと目を向けて忙しいふりをする。
視界の端でお父さんが私をちらりと見た気がしたけど、私はわざとらしくお皿取ってとお父さんにお願いしてなんとか誤魔化す。拓海が遠ざっていく足音を聞きながら軽く息を吐いた。
「車に豆腐積んでくっから、飯は机に置いといてくれ」
「うん、分かった」
お父さんも拓海の後を追いかけるようにして、台所から出ていく。
顔に貼り付けていたような笑みがすっと取れる。拓海の指に触れた場所を撫でながら、拓海の気まずそうな顔を思い浮かべた。…きっと私が普通にしていれば、大丈夫。拓海だっていつも通りに戻れるはず。
そう思いながら、沸騰しそうな味噌汁の火を消した。
✳︎
配達から帰ってきた拓海はあまり寝れていなかったのか、バイトの出勤時間まで寝るといって自室へと篭った。
お父さんの起こさねーぞという軽口を聞き流した拓海は足早に二階へと上がっていく。なんだアイツ、とこぼすお父さんに私は苦笑で誤魔化した。こうしていつも通りの日曜日へと戻る。
日曜日は大学がないから、私は大体の日曜日はお父さんと2人でお店を回している。とは言っても朝の配達が終わってしまえば、鍋とかの洗い物を片してお店の中を掃除するだけだから平日よりかはのんびりとした朝を迎えていた。ごく稀に友達からの紹介で短期バイトに行ったりしているけど、最近はやっていない。
お客さんの足が遠いこの時間帯はお父さんが仕込みやらなんやらをやって、お客さんが来店し始める時間帯になれば私が接客をするというのが日常になっていて今日もいつも通りそんな感じだった。なので絶賛手が空いている私は暇を弄ぶように朝ご飯を食べた後の3人分の食器を洗っていれば、急な電話が居間に鳴り響いた。
「お父さーん!私洗い物してるから、電話取ってー!」
洗い物の最中の私が作業場へと向かって大きい声でそういっても、お父さんが居間に入ってくる様子はまるでない。もう一度ダメ押しでお父さんを大声で呼んでみても、何かの作業中で聞こえないみたいだった。拓海は朝の配達で疲れているし…と呼ぶのを躊躇して仕方なく洗っていた食器を流しに置く。
身につけているエプロンで手を拭きながら居間の電話をとった。
「はい、藤原とうふ店です」
『え、あっ、もしもし!すみません、拓海くんいますか?』
鼓膜を震わせたのは、甘くてとろけそうなほどに無邪気で可憐な声。少女のようなどこか危ういような声色は、小悪魔的な不思議な魅力を感じさせた。そんな声で拓海くんと呼んでいる。
私は一瞬にして拓海の気になる子がきっとこの子なんだろうと理解した。言葉が喉の奥でつっかえて思わず、唇を噛んでしまう。受話器を持つ手に力が入ってしまったけどすぐに気持ちを切り替えて、いつも通りお客さんを接客するみたいに愛想よく声のトーンを必死に上げた。
「今呼んでくるから待っててね。えと…名前、聞いても大丈夫かな?」
『す、すみません…拓海くんと同じ学校の茂木なつきって言います』
茂木、なつき…噛み締めるかのように何度も心の中で繰り返す。
胸の奥がざわつくような、きゅっと締め付けられるような感情が湧き上がってきた。胸の奥がじわっと滲んでジクジクかぶれたように痒くて痛い。
それはきっと嫉妬の感情なんだろうな、と他人事のように思う。私こんな若い子に…ましてや弟の気になる子にそんなこと思うなんて、なんて醜いんだろうか。
口が思うように動かない。早く、早く拓海を呼んであげないと…そう思っていても受話器を持つ手は震えて喉の奥がキュッとしまった。
「綾乃、誰宛だ」
そんな私の意識を引き戻すかのように、固まる私の肩を叩くのはお父さんだった。
振り返って目が合えば、お父さんは真顔でじいっと私を観察するように見ている。私はなんとか絞り出した小さい声で拓海の…といえば、お父さんは二階の拓海の部屋に向かって大きい声を張り上げた。
「オーイ、拓海!!いつまで寝てやがる、起きろ!電話だ」
そのお父さんの声に寝ぼけた拓海の声が返ってくる。寝起きでめんどくさそうに返している拓海にお父さんがまた一喝を入れて、二階から降りてくるであろう物音がし始めた。
ったくと呆れながら階段の上を見ていたお父さんは、また私をちらりと見て作業場へと戻っていく。
お父さんの視線が痛かった気がする…気のせいだと思い込もうとすれば拓海は階段を降りてきていた。
「あ…、姉さん」
「あの…なつきちゃんって子から電話きてるよ」
「えっ」
私の口から彼女の言葉を聞いた拓海は目を見開かせてものすごく驚いた表情をした。
やっぱり、なんて心のどこかで思いながら手に持っていた受話器を押し付けるようにして拓海に渡して、私はすぐに台所の流しへと戻る。電話している拓海の声を聞きたくなくて、蛇口を何度も捻って水圧を強くした。
ジャーッと激しく打ち付ける水をただ茫然と見つめながらも、耳の奥で響くのはあの可愛い声。
お似合い、だな……自嘲した笑みを浮かべて瞼からこぼれそうになる涙を必死に耐えた。
私が食器を洗い終わると同時に拓海も電話を終えたみたいで、ガチャリと受話器を戻す。そして二階へと上がっていった。なんの話してたんだろう、なんて気持ちを必死に吹き飛ばして作業場にいるお父さんの所へ行って声をかける。
「お父さん、なんか他にやることある?」
「…そうだな、店先に水撒いといてくれ。今から気温が上がるだろうからな」
「うん…わかった」
お父さんの言葉を聞いて、そこらへんに適当に投げ出されていたバケツを手に取って水を汲む。柄杓も手に取ってエプロンをつけたまま、そのままお店の扉を開けた。
お店を出ればうるさいくらいに蝉の鳴き声が響き渡っていて、私の身体をじっとりと焼きように強い日照りが照らす。目元を手の影で隠しながら、空を見上げてば私の心の内とはまったく違った気持ちの良いくらいの快晴だった。顔にかかる髪の毛を耳にかけて、深く息を吐く。
「あつい……」
そうぼやきながら柄杓を使って、お店の前に水をぱしゃっと撒けばあたりのコンクリートが濃く染まっていく。
その濃くなっていく様子が私の感情が溢れているようでなんだか悲しかった。ただ無心で水を撒いていれば、後ろからお店の扉の開く音がする。
「あ…オレ、ちょっと出てくる、から…」
振り返ればさっきまでの寝巻きじゃなくて、私服に着替えた拓海が靴先を地面にトントン、と叩きながらそう声をかけてくる。きっと、さっき電話をかけてきたなつきちゃんって子に会いにいくんだと考えなくても分かった。
笑って、いつも通り拓海の良いお姉ちゃんとして。口角を上げて…いつも通りに…。
「そっか、気をつけて。バイトあるから長くならないようにね」
「…ん、分かった」
拓海は私を見ながら返事をしたけれど、私は目なんて合わせられなくてただ水をかけている地面を見つめていた。拓海は私に背を向けて鳥居がある方向へと歩いていく。だんだんと離れていく拓海の背中は小さくなっていて、まるでそれは私と拓海の心の距離を表しているかのようでもうこの距離は埋まらないんだって悟った。
✳︎
水を撒いてる時に少しだけ店先のコンクリの間に雑草が生えているのが気になった。
どうせ、お客さんもまだ来ないし…とお父さんに声をかけて麦わら帽子をかぶりながら草を摘み取っていく。
こういう細かいところをちゃんとしておかないと後々面倒なことになるし、まだ芽が小さいうちにとっていれば安心だ。そうして草をただひたすら何も考えず、無心でとっていると大きいエンジンが聞こえてきてお店の前に一台の車が停まった。
誰だろう、お客さんかな…薄い緑色の車なんてあんまり見ない。私が不思議そうな顔で見つめていれば、車から1人の男の人が降りてきた。
私なんて目に入っていないようにお店の名前をじいっと見つめている。
「こんにちは」
「…っえ、藤原さん…?このとうふ屋ってもしかして、藤原さんの家…?」
お客さんだと思って挨拶をすればその男の人は私を知っているみたいに、さん付けで私を呼んでびっくりした表情に変わった。
あれ?私の知っている人かな…それにしては記憶がない。そもそも私は男の子の友達なんていないから、それはそのはずなんだろうけど…。
私がいまいち理解できていない顔をすれば、男の人は苦笑いで自嘲気味に笑った。
「お、覚えてるわけねーか…俺、藤原さんと同級生だった池谷って言うんだけど…」
「あ…えっと、確か4組の…」
そういえば記憶の隅にうっすらとした顔が浮かんでくる。なんせ生徒数が多いからいくら同級生とはいえど全員の顔を覚えているわけじゃない。ましてや3年も前に卒業した高校の記憶が鮮明に思い出せるわけじゃなかった。
でもなんとなく、見たことがあるような気がした。私の幼馴染が4組だったから、それでだと思う。
「そ、そうそう!話したことなかったけど、俺一方的に知ってるからさ」
「そうなんだ…あはは、変な知られ方じゃないといいんだけど…」
「いや!いやいや!変とかじゃなくて…っ」
首を左右に激しく振って否定してくれる池谷くん。その様子じゃ、変な目立ち方はしていないみたいでホッと肩を撫で下ろす。そうして、なんとなく私たちの間に変な時間が流れた。
お互い口を開かないまま時間が経って、流石に私から口を開く。
「あの、うちのお店に用事?」
「あいや…店というか、車というか…」
「…車?」
池谷くんが見ている視線の先にはお店じゃなくて、お店の横に止まっているうちの車があった。車に用事と言われても私にはピンとこない。この車はさほど珍しいわけでもないし、古い車だ。トレノって名前なのに、お父さんはハチロクって呼んでいる不思議な車。私は詳しく聞こうと再度、池谷くんに聞いてみる。
「ハチロクに用事があるの?」
「えっ…藤原さん、結構車にくわしかったりする…?」
私がハチロク、というワードを出せばびっくりした表情で私にそう問いかけてくる池谷くん。私、びっくりされてばっかりだなあ…どんなイメージを持たれてるんだろ…。
まあでも残念ながら私は別に車に詳しいってわけじゃない。多分、ハチロクって呼び方が車好きの中での呼び方なんだろうなっていうのはなんとなく察していた。
だってお父さん車運転するの好きだし、たまに整備工場?なんかもいってきて車を何度もいじっている。
「いや車とかは、詳しくないけど…お父さんがそう呼んでるから…」
私がそういうと池谷くんは真剣な眼差しで私の両肩を掴んで見つめてくる。
わ、びっくり…なんだろう…よほど真面目なことなのか池谷くんにさっきのような焦りはなかった。
「あの、不躾な質問なんだけどさ…親父さんって走り「人の姉に何してんすか池谷先輩」あれ、拓海…?」
聞きなれた低い声が突然聞こえたことにびっくりして肩をびくっと跳ねさせれば、池谷くんの肩を強く掴んで後ろに引いている拓海がいた。その表情はむっとしていて、なんとなく機嫌が悪そうだ。
でも池谷くんは拓海のことも知っているみたいで、その視線なんて気にもしていないように私と拓海を何度も首を動かして見つめる。
「あ、拓海…おかえり」
「エッ!?拓海のお姉さんが藤原さん!!?に、似てないな…いや、でも確かに苗字一緒か…」
「姉さん、池谷先輩と知り合い?」
慌てている池谷くんなんて目に入っていないみたいに、私をまっすぐにぎらついた目で見つめてきてドギマギした気持ちになる。久しぶりに目が合って内心緊張して戸惑いつつも、首を縦に振れば拓海は池谷くんの肩から手を離した。
「っわ、あ」
そして、今度は私の腕をグイッと引っ張って池谷くんから引き離す。あまりも強い力で引かれたせいで身体のバランスがふらつくけど、そんなふらついた身体を受け止めるようにして拓海が私を支えた。
弟の身体なのに、女の私と違ってがっしりしている身体に鼓動が早くなる。うう、我が弟ながらなんて気遣いだ…やめてほしい…。
「あ、いや…わりーな拓海。お前のお姉さんと俺高校一緒だったんだよ」
「え、そうなんすか」
「あの…むしろ私の方がちんぷんかんぷんなんだけど…拓海と池谷くんはどこで知り合ったの?」
あまりにも関係性のない2人に私の方が頭にハテナマークを浮かべてしまっていた。
私の問いかけに2人は顔を見合わせて口を開く。拓海の雰囲気はもう元に戻っていた。
「オレのバイト先の先輩」
「え、うそ…!ガソリンスタンドの…?ごめんね、池谷くん気が付かなくて…拓海がいつもお世話になってます」
「全然!世話とかそんな…」
拓海がお世話になっているからと、改めて頭を下げれば池谷くんは恥ずかしそうに笑った。まんざらでもない様子で、頬をポリポリとかいてる。そんな池谷くんをなんともいえない表情で見つめていた拓海は、思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、池谷先輩なんか用ですか?」
「ああ、なんか車に用事があるって…」
私がさっき池谷くんが言っていたことを口から出そうとすればそれに被せるようにして、池谷くんが慌てたように話し始める。
「いやあ、たまたま通りがかっただけだ!そうだ拓海お前バイトだろ、そのまま乗ってくか」
「え、まじっすか…ラッキー」
なんだか意図的に濁した気がするけど、まあ気にすることでもないかと1人納得する。拓海はバイトまでの足ができてご満悦だ。それじゃあ用意してこいよ、という池谷くんに拓海は嬉しそうに返事をしてお店の中へと入っていった。池谷くんはホッと息を吐いて、私がじっと見ていることに気づく。
「あの、用事…本当に大したことじゃないからさ…」
責めるような視線に見えただろうか。別になんとも思ってはない。私は笑って、大丈夫だよと返した。
拓海が車でバイトの様子でも聞いてようかなと思ったけど、お店の中からお父さんが私を大声で呼ぶ声がする。私は慌てて池谷くんに軽く会釈をした。
「ごめんね、お父さん呼んでるから…今度はお豆腐でも買いにきてよ。それじゃ、拓海のことお願いします」
「あ、じゃ、じゃあまた…」
吃っている池谷くんに軽く手を振ってお店の中へと入れば、お父さんが作業場から呼んでいる。
慌てて聞き返せば、それと同時に居間に鳴り響いている電話の音。
……まさか…。嫌な予感がしながらもお父さんの所へ行けば、平然と口を開いた。
「おう、電話出てくれ綾乃」
「あ、の、さあ!私だっていつでも電話に出られるわけじゃないんだからね!」
「なんだそりゃあ?どう見てもオレは手空いてねえだろ。拓海は今から出るっていうしな」
「もう、私ばっかり!」
まるで私が出るのが当たり前、それが当然というように鳴り響いてる電話を聞き流してその場から一歩も動かないお父さん。私がそれに不満げにすれば、なんで怒っているのかわからないみたいで眉間に皺を寄せながら首を傾げて頭を掻く。
「拗ねるなよ、シワ増えるぞ」
「お父さん!!」
ほんっと、お父さんってデリカシーない!!
私は怒りながらも居間へと向かって受話器を乱暴にとった。
✳︎
数日後の大学内。
「オイ、面貸せよ藤原」
「え……」
「えっ、高橋くんじゃん。綾乃何したの…」
大学の食堂でいつも通り幼馴染の友達と和気藹々と学食を食べていると、急に机に影が落ちた。
それで不思議に思って顔をあげたら、顰めっ面の高橋くんが仁王立ちで立っている。その表情はかなり不機嫌そうで、このセリフを聞けば私が何かをやらかしたと思ってしまうけどお礼を伝えてから話してもないし、関わってもないから心当たりは本当にまったくと言っていいほどない。
私はその強い視線で圧倒されながらも、恐る恐る口を開いた。
「…私、これから体育館裏とかデスカ…?」
「はあ?んなわけねーだろ、ちょっと聞きたいことあんだよ」
ガシガシと髪の毛をかきながら、ぶっきらぼうにそういった高橋くんにホッと胸を撫で下ろしながらもそれじゃあ一体聞きたいことってなんだ…?と疑問は尽きない。
私は食べかけの定食と高橋くんの顔を何度も見て、目で訴えると食ってからでいいに決まってんだろと呆れられた。いや…だって、呼び出し方がヤンキーのそれだったから、今すぐ来いって意味に消えてしまうのはしょうがないと思うんだけど…。
「それ食ったら食堂の入り口に来いよ」
「え、あ、うん…ワカリマシタ…」
そう言い残すとポッケに手を入れて背を向けて去っていく。ど、どうしよう胃が痛くなってきたかも…残りのご飯食べられるかな…。ため息が出そうになる私を、友達はキラキラとしている目で見つめてきていた。
友達が考えていることは、一瞬で分かってしまう。なんとなく聞きたくなくて無視しながら必死にご飯を口に詰める。
「順調に仲良くなってるね…!よしよし…その調子で私をお兄様へと導いておくれ……」
やっぱり、そんなことだろうと思った……。
私は口にいっぱい入っているご飯を、お水で流し込んで呆れた様子を隠すこともなく友達に投げかける。
「冗談やめて、ほんと…。私がもし高橋くんと仲良くなったとしたら、周りの女の子達からの痛い視線を遮る盾になってもらうからね」
「ああ僻みの視線なんか屁でもないわよ、任せときな」
「なんでそんなとこだけ妙に逞しいの……」
茶碗についた米粒を1つ残らず、綺麗に箸で取って口に入れる。食べきった私は、あんまり待たせちゃいけないであろう高橋くんのもとへと急ぐために御盆を持ち上げて席をすぐに立つ。
友達に声をかけて向かおうとすれば、まるで言わなくても分かってるって!という小癪なウインクでグッドサインをかざされた。現金な友達は、どこまで行っても現金らしい。
御盆を返却口に返して早歩きで入口へと向かった。食堂から出れば、壁に背を預けている高橋くんが目に入ってきてキュッと胃が痛くなる。お、オーラが…キラキラしたオーラを出してて近寄り難いなあ…。
控えめな声で名前を呼べば、足元を見ていた高橋くんの切れ長の目が私を捉える。う゛っ…やっぱり人気なだけあって、容姿端麗すぎて中々に緊張してしまう。
「おー、わりいな」
「い、いや…それで話って…」
私が話を切り出せば歩きながら話そうぜと言われて、足を進め出した高橋くんの少しだけ斜め後ろを歩きながらついていく。周りの視線は気にしないように地面を見つめながら歩いた。
「お前、渋川に住んでるよな?」
「う、うん」
「秋名山分かるだろ」
分かるも何も…うちのお店は秋名湖畔にあるレイクサイドホテルまで配達に行ってるわけで…配達に行くには秋名山を通る必要がある。まあ…私は運転が下手くそだから配達には数回行っただけでお父さんにお前はもう行くなと釘をさされたんだけど……。
私はそんなことを思い出しながらも、首を縦に振る。すると、高橋くんは神妙な声色で口を開いた。
「秋名山にバカッぱやい車が走ってんの知ってっか」
「はやい…車?」
「お前に車種言っても分かんねえだろうけどよ、白と黒のハチロクだ。分かるか?」
「えっ…」
白黒のハチロク……はうちの車だけど…、速いとかはまったくピンとこない。お父さんと拓海の配達について行ったことはないから、本人たちがどういう運転をしてるのかは私にはさっぱり分からないから知っているとは言えなかった。
お父さんは確かに速そうだけど、今配達しているのは拓海だし。拓海はそんなにスピード出す運転してるのかな…確かに、お父さんが配達に行って帰ってくる時間とさほど変わりないけど。
でも多少なりとも引っかかったようなそぶりの私をバッと勢いよく振り返って、両肩を掴まれて揺さぶられる。
「知ってんのか!?知り合いか?何か知ってんなら教えてくれ!」
「わ、え、…っ」
私を問いただす高橋くんのあまりの熱量に、思わず顔が引き攣る。
え、なになに!?もし拓海だったら、どうなるの!?し、シメラレル!?脳内では高橋くんに胸ぐらを掴まれている拓海が浮かんで、私は咄嗟に首を激しく横に振ってしまった。
「し、知らない知らない!」
「あ…?ッチ、なんだよ…」
私の答えにあからさまにイラついた顔で舌打ちをする高橋くんに涙が出そうになった。
た、拓海何したの…こんなヤンキー怒らせるようなことしちゃったの…。私は一体なぜこんなに執着しているのかが不思議で、恐る恐る高橋くんの様子を伺いながら聞いてみる。
「その、ハチロクが…何したの…?」
「…その速えボロハチロクに負けたんだよ…っくそ、言わせんな!」
足音がドスドスという音に変わるほど不機嫌になる高橋くん。こ、こわい…!
しかも人の家の車をボロだなんて、失礼にも程がある…とは言っても、高橋くんはそのハチロクがもしかしたら私の家の車かもしれないというのは知らないからしょうがないんだろうけど…。
というか負けたって……車で負けるってどういうこと…?
私の顔を見てまったくと言っていいほど理解できていないのが分かったらしい高橋くんが、それはそれは大きなため息を使いながら私に向き直った。
「峠を攻めたりして、ちょっとした公道レースしてんだよ」
峠を攻める?公道レース?
私には何が何だかわからなかったけれど、唯一これだけは分かった。
「え、…そ、それってい、違法では…」
「あ?知るかよそんなもん」
その吐き捨てるような高橋くんの言葉に、思わず頭が痛くなった。
つ、つまりもしかしたら拓海が配達の時に高橋くんのあの黄色い車をよく分かんないけど抜かして…それで古い車に負けたのがプライド的に傷ついて…ボコボコにしようとしてる…ということ…?しかもそれは違法な競争で……。
思わず貼り付けた笑みを浮かべる。背中に流れる冷や汗をじっとりと感じながらなんとか平静を装った。
絶対拓海かもってことは言っちゃいけない…!ただでさえ、中学生の時から違法の運転をしてるんだ…いくらお父さんの言う時効だとはいえ、これ以上危ない状況になってほしくはない…。
「ご、ごめんね力になれなくて…」
「いや…いい。詳しくないやつに聞いたオレも悪かったよ」
ふっと、息をこぼした高橋くんはさっきまでの不機嫌を振り払うようにグーッと腕を上に上げて背伸びをした。
よし…これは墓場まで持って行くんだ。じ、時間があったら本当に拓海なのか聞いてみよう…。
話はこれで終わりだろうとそれじゃあと別れの言葉を口にすると高橋くんは待てよ、とまだ話があるみたいで私の腕を掴んで引き留めた。思わず張り付いた笑みがとれる。
「なに…?」
「藤原、俺の彼女のフリしてくんね?」
沈黙。
「……………はい?」
衝撃的な言葉すぎて一瞬私の中で時が止まってしまう。
俺の……彼女……のフリ……?言葉の内容が理解できたと同時に私はこれ以上にないくらい本気で首を左右に激しく振る。首がちぎれそうな勢いで何度も何度も振った。
「いや!絶対嫌です!!」
「はあ!?何でだよ、お持ち帰った仲だろ!」
「何それ!?あれはお互い帰りたかっただけの口実でしょ!」
変な間柄の名前をつけられて必死に否定する。フリなんて、側から見たらカップルなことに変わりはない。そうしたら私の平穏な大学生活が崩れ去る。女の子の嫉妬ほど怖いものはない。
ましてや好きでもない相手をそういう関係を嘘でもするのは気が引けて嫌だ。中々食い下がらない高橋くんに断固として拒否を続ける。
「最近まじ鬱陶しいんだよ、寄ってくる女がよ!お前がフリしてくれりゃあ少しは減るだろ!いったろ、オレは今走りのことで忙しーんだって!」
「私にメリットないし!謹んでお断りします!!」
「待て待て待て!!大学終わったらお前を家まで送る!」
「無理!!」
家まで送られたところで高橋くんが拓海と顔を合わせるかもしない。それは一番のデメリットだった。
私は手のひらを高橋くんの顔に被せるようにかざして距離をとる。ここは譲れない!絶対無理だ!
「あ、私の友達にお願いします!紹介する!気の良い子だし、高橋くんのこと好きなわけでもないから!」
「友達ぃ?アニキの話やたらと聞いてきた女だろ?なんか怖ぇから却下」
ば、ばれている…!?何でもっと下心隠さないの…!?
頭に浮かんでくる現金な友達に心の中で罵倒しながら、泣きそうになる。
私はただ勉強して卒業して…いい人生を送ってお父さんや拓海に……拓海……。
そこまで考えてあの、なつきちゃんの甘くてかわいい声を不意に思い出してしまった。
そっか…拓海は、もう自分の人生に歩き出してるんだもんね…。数年後には家を出て、彼女と過ごしながらきっと幸せに暮らすんだ。
私は数年後の自分が思い浮かばない。それきっと自分の中で軸がないからだと、何となくそう思った。
私の軸は家族だけだ。それなら、多少リスクを負ってでも別の世界を覗くことが必要なんじゃないか。
拓海の隣にいる可愛い女の子を想像した瞬間、喉の奥の何かが切れる。
私の口は勝手に言葉を紡いだ。
「短期間、だけなら…」
口から出てしまった言葉は取り消せない。私の言葉を聞いた高橋くんは嬉しそうに笑った。
あくまでフリだ。少しだけその役割を全うすれば、家族から離れる練習になる。少しの新しいことに挑戦するだけ…だから、きっと大丈夫。
その私の決断は前に進めているのか、その場に留まっているのか、それとも後退しているのか…それは現時点では分からなかった。