折り祈り

 飽きたな。
 プリントが七割ほど埋まった所で集中の糸が切れたのか、途端に周囲の喧騒が耳につく。次の数式を見つめたがどうにも取り組む気になれず、シャーペンをくるくると回してしまう。私がペン回しを始めると「集中」と釘を刺してくる目ざとい男その一が目の前に座っているけど、まあ構わない。人に集中しろと言われて出来るのならそうするが、出来ないものは出来ないのでしょーがない。
 でも今日はペンを回しても回しても耳慣れた声は届かなかった。珍しいなとプリントから少しだけ目線を上げた私の視界に入ったのは、いつも通り詰将棋本を持つ左手と、見慣れない動きをする右手。右手が添えられているのは白い紙切れだった。
 私の目の前に座る水上は左手に開いた詰将棋本を眺めながら、空いた右手で折り紙をしているらしい。折っている紙はどうやら私が持ってきたメモ用紙と見える。ボーダーのエンブレムが大きくあしらわれた正方形のメモ帳は広報の人からサンプルなので良かったら、と譲られたものだ。特に使い道もなく、計算用紙にでもすればいいかとテキストとともに机に出すだけ出しておいた物だったのだが、水上の手中で予想外の役割を果たしていた。
 水上の右手は迷いなく紙の先端と先端を合わせる。少し骨ばった中指と薬指、小指で紙を押さえつけ、残った親指と人差し指で折り目をつけた。その折り目はきっちりと重なっていて、片手だけで折ったとは思えない出来だ。
 水上はそれなりに集中しているらしく、今のところこちらの視線に気付く様子はない。将棋を指している時は駒や自前の扇子をいじったり、課題中ならシャーペンを回したりとよく手遊びをしている水上の右手だが、折り紙を折る姿を見るのは初めてだ。
 私の手より一回り大きくて、少し薄っぺらい乾いた掌、関節がうっすら主張する枝のように伸びた五本の指。それが水上の手。駒を動かす水上の指は静かで、迷いなく真っすぐで、ふと視線を奪われる。
 そんな水上の指先ですいすいと形を変える紙をじっと眺めていると、どこか見覚えのある形が見えてくる。仕上げに入るのか、細く折り重ねられた紙の先端を水上の指先は器用に少しだけ折り曲げる。二枚の菱形を広げれば、そこには折り紙の代名詞とも言える鳥がちんまりと座っていた。
「水上、器用だね。片手で鶴折れるんだ」
「あ?......ああ、お前も慣れりゃできる」
 私の声にぴく、と水上の体が少し揺れた。私のペン回しにも気が付かなかったし、かなり集中していたようだ。いつの間にか耳に馴染んだ乾いた声が応答し、左手に下げていた目線が気怠げにこちらに向けられる。
「片手じゃそんな綺麗に折れないよ。片手でやるもんじゃなくない?折り紙」
「左手で弧月振り回す癖によお言うわ」
「左手って言っても刀は握るだけだし」
「これも変わらんて。右手だけ言うても紙の角合わせて折るを繰り返す、そんだけやろ」
「うーん、屁理屈」
「お前に言われたかないわ」
 水上からふはっと乾いた笑いが溢れる。
「折り紙か。最後にやったの小学生の時かな」
「解き終わったんか」
「休憩ってことで」
「しゃーないな」
 私のプリントを一瞥した水上は「なんでそんな微妙なとこで飽きるん?逆に気持ち悪いやん」と呟いた。心底理解できないとでも言いたげだ。水上とは頭の出来が違うので勘弁してほしい。
 ぼやく水上の指先でつつかれる白い鶴を眺めていた時、脳内で何かがクッキリと輪郭を得ていくのが分かった。今まで視界に入ってはいたけれど認識できていなかったもの、というような何か。
 三門に戻ってきて違和感がさらりと頬を撫でる瞬間が何度かあった。例えば肉屋でコロッケを買う時とか、図書館の中をぶらついた時とか。時間の経過の共に街は様変わりはするけれど、そういうのとは違う、視界に入り込む見慣れない何か。
「千羽鶴だ」
「は?」
 水上が訝し気にこちらを見たその顔には「また何か言い出しおったわ」と書いてあるようで少し笑ってしまった。今日もいい感じに眉間にシワが刻まれた水上は、笑う私を見てツッコミも諦めたように問いかける。
「何一人でわろてんねん」
「あのさ、街のいろんな所で千羽鶴見かける気がする。何か違うなって思ってたの、千羽鶴だったんだってそれ見て気が付いた。昔はなかったと思うんだけど」
 そう疑問を口にする私を見遣る水上の瞳は、少し揺らいでみえた。穏やかに波が寄せる感じではなくて、乾いて冷たい冬の風が吹いたみたいに。どうして水上がそんな目をするんだろう。あまり見ることのないタイプの水上だ。
 水上は白い折鶴から指先を離して口を開く。
「侵攻で身内とか住む所処なくした人たちに、市内市街から贈られたんとちゃう」
「ああ、お見舞い的なやつ」
 まあ間違ってはないけど適当過ぎ、と呟きながら水上は呆れたように息を吐いた。その声色はいつも通り、に聞こえるけどやっぱりどこか乾いた感じがする。
「お前はいんかったか」
「そーだね。水上も四年前は三門にはいなかったでしょ?」
「地元でもニュースで見とったし、三門のために千羽鶴を折りましょ〜とか言うとる委員会とかあったで」
「へえ。全国でそんなニュースになってたんだ、あの時のこと」
 四年前のあの日の記憶だけは薄れることなく脳裏に刻まれている。雨が降ってて、でも崩れる建物から炎が上がって、二階建ての一軒家より大きいトリオン兵が暴れまわって、瓦礫の下敷きになった人たちとか、血塗れで動かない父さんとか。他のことは少しずつ忘れてしまうのにどうしてあの日の事だけは忘れられないのだろう、と思わなくもないけれど、あの日を忘れたら何も守れない無力な自分に逆戻りしてしまうからこれでいい。
 とにかく、三門の街にぽつぽつと姿を現した千羽鶴はあの日の三門を憂う三門の外の人々の祈りであるらしい。
「それで千羽鶴ね、成程。祈りたい人っていっぱいいるんだね」
「……他所モンの自己満ってか」
「別に否定はしてないけどさ。ていうか水上だってそう思うでしょ」
「俺は思っても言わへんし」
「じゃあ私が水上の代わりに言ってあげたって事で」
「共犯にすな」
 水上が共犯なら何でも出来そう、と言えば水上は瞬きをしてあっそ、とだけ零して私から視線を外した。楽し気な訳でも不快という訳でもないその微妙な反応は何だろう、私が共犯相手だと失敗するとでも言いたげだ。
「自分はそういう祈りやら受け取る気ィは一ミリもあらへんのやろうなあ」
「そりゃま、受け取る義務も義理もないじゃんね」
「言うと思た。ま、三門ん人たちは余所モンの自己満に付き合わされとるってのは間違うてへんな」
 水上はどこか自嘲気味た言い方をする。スカウトされ大阪から三門に越してきて傭兵をしている自分に対する言葉だろうか。以前も自分は余所者だから云々という話をしていた気がする。水上は頭がいいから考え過ぎる所があるとちょくちょく思う。水上が三門にいる理由なんてどうでもいいのに。
「じゃあこれ頂戴」
「話の流れどこ行った?こんな紙切れどないすんねん」
「部屋に置いとく」
「もっとええもん置きぃや」
「これがいいんだよ」
 何がいいんだか、そう言って水上は本に視線を戻して思考の海に潜っていく。
 折り鶴を手元に寄せてちょんとつつくとコトリと簡単に傾いた。水上が片手間に折った鶴は祈りなんて一ミリもこもっていない。水上の思考の波に揺られただけのオマケみたいなもの、それがいい。何の重みもない、吹けば飛ぶようなその空っぽさがいいなと思ったから。



狭間