01.ノワール・ハロウィンナイト

 ――十年前、夏、ハロウィンナイト家の玄関先。

 メイド長のジルベスタは、涙を浮かべてノワールの手を握った。

「坊ちゃん……使用人が主君のご子息に物申すことを、今日ばかりはお許しください。お願いです。どうか、今こそお考えを改めてはいただけませんか」

 ノワールと呼ばれた少年は眉を下げると、ジルベスタの視線から逃げるように目を伏せた。

 彼女の皺の数は、この家に忠誠を誓い尽くしてきた年数と同じ。ノワールはその手をそっと自分の手で包み返すと、困ったように言った。

「すまない、ジルベスタ。面倒をかけるだろうけど、もう決めたことなんだ」

 ノワールはハロウィンナイト家の長男であり、養子だった。
 幼いころに両親を亡くしたノワールは、亡くなった父の親友であるモンターク氏に引き取られ、候爵家ハロウィンナイト家のこどもとなった。

 長年、こどもの居なかったハロウィンナイト家は彼を大層かわいがり、ノワールもまた、自分は愛されていると感じていた。
 両親を亡くし傷ついたこころを、少しずつ癒していくことができたのだ。

 ところが、学園に入学したと同時に、ノワールを侮蔑する同級生があらわれた。

 ノワールの魔力の高い紫色の暗い髪に、褐色の肌。物珍しさと周囲の嫉妬心が、ノワールをいじめる原因となっていた。

『おまえは、ハロウィンナイト家の本当のこどもではない。侯爵様は、お前の能力が高いからこそ引き取っただけに違いない。両親に血の繋がる本当の子どもが生まれれば、お前は家から追い出されるだろう――』

 ノワールが大人だったなら、きっと鼻で笑っていられただろう。けれど、幼心に根付いた小さな不信は、ノワールのなかで少しずつ育っていった。

 自分は、愛されていないのか?

 否定しても、振り払っても。まとわりついてくる不安をノワールは抱えきれなくなり、いつしか両親の笑顔も温かさも拒否し、信じられなくなっていった。

 それでも、ハロウィンナイト家の父と母は変わらず、ノワールを愛した。

 食事は毎食ともにするようにしたり、長期休暇には遠出や狩りをして家族の団らんをとろうとした。どんなに忙しくても、わが息子がいつか心を開いてくれると信じて。

 そして、今年。それに終止符を打つように父と母のあいだに新しい命が宿った。

「坊ちゃんのお気持ちも、痛いほどわかります。けれど、旦那様と奥様があなたのことを考えなかった日がないことを、どうか理解していただきたいのです」

 ジルベスタの握る手がいっそう強くなって、ノワールは思考から戻ってきた。

「……許してくれジルベスタ。頭ではわかっているけれども、どうしても整理がつかないんだ」
「坊ちゃま……」
「心配ないよ。夏休みが終わるまでのあいだ、おばあ様の別荘で頭を冷やすだけだから」

 母の出産が間近の今、自分がいても役に立つこともない。使用人たちの邪魔になるだけだ。
 そう自分に言い聞かせているようにも思ったが。

「それじゃあね。くれぐれも、お父様とお母様には黙っておくように」

 自分が居なくなっていつ気が付くかという好奇心と反抗心から、ノワールはジルベスタに口止めをして、漆黒のカバーがかけられた馬車に乗って亡き祖母、ミットヴォーザの別荘へと向かった。

 馬車の中からジルベスタの影が見えなくなった瞬間、ノワールはどっと背にもたれ、感情を吐き出すようにため息をついた。


 ミットヴォーザの別荘までは、途中の村で休憩を挟みながら馬を走らせて約三日ほどかかる。
 なかなかの長旅だ。

 祖母ミットヴォーザは父方の母にあたる。別荘は、厳格な祖父が多忙に身を任せ祖母をないがしろにした結果、祖母の機嫌を取るために建てられた「ハロウィンナイト家の歴史」のひとつだ。

 今はもう祖母も祖父も亡くなっているため、使用人たちだけが住み込みで管理している。ノワールたちの来訪を心待ちにしながら、屋敷を守ってくれているのだ。

「ひさしぶりだな……十歳のとき以来だ」

 森の中にたたずむミッドヴォーザ邸が見えてきて、ノワールは窓から顔を出してその建物を眺める。
 屋敷はぜんぜん、変わってない。

 草木の青い匂い、湿気を帯びた少し冷たい風、やわらかな日差しを感じて、彼は癒されるような思いがした。

 馬を走らせ、門をくぐる。
 近づく別荘の玄関先で待ち構えていたのは、執事であり支配人のディーンだった。

 ディーンは、馬車から降りてきたノワールをみるやいなや嬉しそうに微笑んで、歓迎の言葉で彼を出迎えた。

「ノワール坊ちゃん、お待ちしておりました。ようこそ、ミッドヴォーザ様の別荘へ」
「ひさしぶりだな、ディーン。元気にしていたか?」

 ディーンは灰色の短い髪に長身の、スーツのよく似合う誠実そうな男だった。
 小さいころはこの別荘で、兄弟のように遊んでは祖父に怒られたのは、今ではいい思い出だ。

「ええ、この通り。元気以外の何者でもありません。坊ちゃんも、しばらくお会いしない間に立派になられましたね」
「それはディーンの方だろう。先代のザムスの後を継いで、しっかりやってくれているとお父様から聞いているよ。ありがとう」

 ノワールがそう言うと、ディーンは照れくさそうに頭をかいた。

「そう仰っていただけると張り合いが出ます。さあ、長旅でお疲れでしょう。お夕食までにまだ時間もございますし、お休みになられてはいかがですか?」

 ディーンに言われると、脳が疲れを自覚したのか急に眠気と疲労がやってきたような気がした。
 ノワールは荷物を任せると、屋敷のとびらをくぐり、ゆっくりと足を踏み入れた。

「ノワール坊ちゃん、おかえりなさいませ!」

 ロビーで待っていたのは、今度はディーン以外の使用人たち。この別荘には常住しているハロウィンナイト家の者はいないため、メイドは三人しかいない。

 とはいえ、人が住んでいなくとも管理するための毎日のタスクはそれなりにあるはずだ。

「忙しいのに、みんな出迎えてくれてありがとう。しばらく世話になるけれど、よろしく頼むよ」

 あらためて、ノワールは屋敷内をきょろきょろと眺めた。

 玄関からロビーまで、赤い絨毯が正面の階段までつづく。階段の先は両端に客間や談話室があり、その真下がパーティなどを行うホールとなっている。

 祖母はよくこの別荘に人を呼んでいたから、人を通すための部屋が多い。祖父が帰ってこなくても、誰かがいればさみしくない。そんな造りになっている。

 ちなみに、寝室はもっと奥だ。

「どのお部屋をご利用されますか? 今ならどのお部屋でも選び放題ですが」

 ディーンが茶目っ気たっぷりに言った。

「そうだな……」

 ノワールは少し考えると、昔、祖母の部屋に忍び込んだことを思い出した。そこからは別荘周辺の景色が一望でき、とても眺めがよかったのだ。

 今年十七歳にもなるのに、さすがにみっともないだろうか。逡巡したあげく、ノワールは尋ねた。

「……おばあ様の部屋は?」
「ミッドヴォーザ様のお部屋ですか?」

 ディーンがやや驚いた顔をしたので、ノワールは慌てて聞き返す。

「マナー違反だったか?」

 すると彼は柔らかな笑みを作り、首を左右に振ってそれを否定した。

「……いいえ。彼女もお孫様であるノワール様と会えて、お喜びになることでしょう。ご案内いたします」

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