02.祖母の部屋

 祖母の部屋はいちばん奥の、よく陽があたる場所にあった。
 幼い頃は、あれだけ別荘中を駆け回った気がするのに、いざひさしぶりに訪ねれば記憶も曖昧なものだな、とノワールは思った。
 ディーンが部屋の鍵を回し、中へどうぞと促した。

「わあ……! すごいな。領土の向こうまで見える」

 祖母の部屋の景色は、やはり最高だった。青々とした木々がどこまでも続き、開放感があった。ひっそりと語りかける山の斜面も、反射している湖の水面もすべてが美しい。

 きっと、秋には色が変わり、また違った風景が見られるのだろうと思ったら、ノワールは悔しくなった。
 なんで、秋休みはないんだろう。

「それではまた、後ほど。夕食の準備が整いましたら、お呼び致しますね」

 そう言って、ディーンは部屋からいなくなった。
 景色から祖母の部屋へと視線を移す。部屋は、なつかしい祖母の残り香と小物で溢れていた。
 時代遅れの様式の箪笥。アンティークのドレッサー。古びた花瓶……。

 ノワールは祖母のベッドに倒れると、眠気に任せてそのまま意識を手放すことにした。
 ここには、誰も自分に干渉してくる人間はいない。
 父も。母も。ジルベスタも。

「……やっと、一人になれた……」

 その安堵が、彼の眠りを加速させた。


 再びノワールの目が覚めたころには、とっぷりと陽が暮れていた。
 街灯もないものだから、窓の外は思いのほか真っ暗で、ノワールは慌てて飛び起きる。ふと、軽い毛布がかけられていることに気づいた。
 きっと、ディーンがかけてくれたのだろう。

 ……ぐぎゅう〜ん。

「……まだ呼ばれてないけど、もう下に降りようかな」

 腹の虫が鳴って、ノワールは誤魔化すように頬をかいた。
 立ち上がって背伸びをしたそのとき、部屋の隅に立てかけれた置物に目が移った。
 麻の布が無作法にかけられた、ノワールの背の高さと同じくらいの大きさの。

 入ってきたときに、こんなものあっただろうか。かなり大きなものなのに気づかなかった。

 ノワールは不思議に思いながらその布に手をかけた。布がかすれる音とともに現れたのは、木製のフレームで縁取られた、楕円形の豪奢な鏡だった。

「……きれいだ」

 思わず声が漏れるほど。
 円に沿って植物の彫刻が天に伸び、花の咲くモチーフの中央にはルビーやサファイアなどの宝石が埋まっている。
 これほどの技術を持つ彫り師は、近年見ないだろう。

 感嘆のため息を漏らしていると、鏡の左側、真ん中あたりに鍵穴があるのを見つけた。

「……何の鍵だろう」

 鏡の周辺や祖母の机の引き出しを探ってみたが、それらしいものは見当たらない。
 そうこうしている内に時間が経っていたのだろう。部屋のドアを軽快にたたく音が聞こえて、ノワールの肩が跳ね上がる。

「坊ちゃん、起きてますか。夕食の準備が整いました。召し上がりますか?」
「ああ。すぐ行く!」

 ノワールは布をやや雑に鏡にかけ直すと、あわてて部屋から出て行った。隠れた布の隙間から、鏡が仄青く光ったことに、彼は気づかなかった。


 夕食は料理長が腕をふるってちょっぴり豪華にしてくれた。レモンペッパーチキンと南瓜のホワイトシチュー、森でとれたきのこのサラダにノンアルコールシャンパン。
 どれもノワールが好きなものばかりだ。

「お気に召しましたか?」
「ああ、とっても!」

 香草で焼いたチキンが香ばしく、ホワイトソースと一緒だとまろやかに感じられとても美味しい。そのまま食べても固いパンにひたしても、どちらでもハッピーだ。

 きのこのサラダには屋敷内で育てているサラダ菜が入っている。たまねぎと酢のドレッシングがかけられサッパリとした風味で、これもまた良かった。

「料理長にはとても満足したと伝えてくれ」

 これで本邸の食事の半分ほどしか経費がかからないようにディーンが指示しているのだから、ハロウィンナイト家の使用人は本当に優秀だな、とノワールはつくづく思った。

 ノワールがご機嫌で食事をすすめていると、ディーンが神妙な顔で尋ねてきた。

「……ところで坊ちゃん。ひとつ、お窺いしてもよろしいでしょうか?」
「……うん?」
「ミッドヴォーザ様のお部屋で、何か、妙なことは起こりませんでしたか?」

 ノワールは、「妙なこと」と聞いてとくに思い当たることがなかった。不思議な鏡の存在は頭にちらついたが、彼にとって特別なことではなかったので口にしなかった。

 それよりも、ディーンの神妙な顔がやけに物ありげだったので、ノワールはぴんときたのか、疑うような目つきで彼に物申した。
 ディーンがそんなことを尋ねるのには、心当たりがあったのだ。

「……ディーン。まさかとは思うが、僕をいまだに十歳のままだと思ってはいないだろうな?」
「はい?」
「たしかに僕は幼いころは”そういった”類のものが苦手だったけれど。もう十七だからな。もし君が怖がらせようとしても、一切通用しないからな?」

 ノワールが「だまされないぞ」というかのように、チキンを大きく頬張った。それを見たディーンはきょとんとしていたが、笑いをこらえるように手で口元を覆う。

「……ふは、違いますよ。別に、幽霊の話をして坊ちゃんをおどかそうとしたわけではありません。実は、あの部屋にはときどき小動物が潜り込んだりするようなのです。それで……」

 ノワールは顔を真っ赤にして「そ、そうか」と呟いた。勘違いしたことも恥ずかしいが、あの言い方では今でもお化けが苦手だと言っているようなものだろう。

 そばにいたメイドたちも、直接笑ってはいないが口元が緩んでにやにやしている。
 ディーンが至極、真面目な顔で彼に聞いた。

「今夜は添い寝でもいたしましょうか?」
「断るっ」

 ノワールは半ばムキになって食事を続けたが、気を遣わなくてもよい冗談交じりの会話に、彼は心地よさを感じていた。
 両親も祖父母もいない。だからこそできる会話だから。


 食事を終えたノワールは、明日の予定をディーンに告げて祖母の部屋に戻ることにした。

「……」

 ふと、食事のときにディーンに言われた言葉を思い出す。冗談だとわかっていても、なんとなく寒気を感じてそわそわしてしまう。

 さっさと寝てしまおう、と胸元のボタンに手をかけたとき。部屋の隅から物音がして、ノワールは声をあげてしまった。

「……ねずみか、鳥……か?」

 小動物が入り込んでくるという、ディーンの言葉は本当だったのだ。ノワールはおそるおそる、どこから音が聞こえるのか探し始めた。

 ねずみも鳥も嫌いではないが、前者は衛生的に気分のいいものではないし、後者は後者で鳴き声や羽が気になるかもしれない。
 どちらにしても、部屋の中にいていいものではないので、紛れ込んでいるのなら外に出してあげたいとノワールは思った。

 ――カタン。

 音は、夕食の前に見つけた木彫りの鏡がある方から聞こえてくるようだ。
 鏡の後ろに隠れているのかもしれない。

 ノワールは風の魔法で手の平に小さな竜巻を発動させて、捕獲を試みる。火の魔法でボヤを起こしても、水の魔法で水浸しにしてもディーンに怒られる気がしたからだ。

 ――カタン。カタ、カタン。

 確実に、何かいる。
 ノワールは片手で布をそっと掴むと、心の中で数をかぞえて一気に引き離した。

 そこに居たのは、

「――きゃ」

 鏡に映った、女の子だった。

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